本艦に足を踏み入れた途端、急に足が重くなって驚いた。まだ自室に辿り着いてもいないのに、張り詰めていた緊張の糸があっという間に緩んでしまった。
あんまり良くない兆候だな、と艦内通路を歩きながらテキーラは思う。
気を許しすぎている。以前ほど八方美人な振る舞いをせずに済んでいる自覚はあるものの、それ以上に体がこの艦を安心できる居場所だと覚え始めている。
悪いことではないのだろう。
だが、決して良いこととも思えなかった。
テキーラは自身の強みを、周囲の変化にめざとく気づける観察力だと自負している。腕っ節や交渉力にもある程度の覚えはあるが、上には上がいくらでもいる。
何事も平均以上にこなせる代わりに、突出したスキルは少ない。そんな器用貧乏とも言える自分が価値を示せるとしたら、やはり状況をつぶさに観察して、先んじて最善の一手を打つことに他ならない。
だからこそ、あまり感覚を鈍麻させたくはないのだが、悲しいかな体の方が頭より数倍素直に環境に適応してしまう。
向かうべき道行きの途上で、偶然乗り合わせた艦だったはずなのに。
まさか、運命にぶつかってしまうなんて思わなかった。
時刻はもう夕食時を過ぎ、艦内通路には人が少ない。
昼間の賑わいが嘘のように静かな通路を、通い慣れた〝ある部屋〟に向かって歩く。
激務続きの一週間だった。
それなりに面倒な出張の後、突貫の外勤任務までこなしたせいで疲労困憊だ。出先でもう一泊してくるプランもあったが、早く本艦に戻りたかったので、蜻蛉返りに近いスケジュールで帰ってきた。
何しろ、申し訳なさそうに追加の仕事を依頼してきた上司兼恋人が、出掛けにこう言ったのだ。
――帰ってきたら、お礼にいいことをしてあげる。
いやいや、そんなあからさまな餌に釣られたりしないよ流石に。というか、激務の後と理解した上で、敢えて自分を頼ろうとしてくれたこと自体が嬉しいし、彼女の――ドクターの頼みなら、見返りなんかなくたってなんでも聞いてあげたいし。
部下としても恋人としても、自分の持てる力の全てを使って、君の役に立ちたいと思っているんだから。
……というのが、限りなく本音に近い建前だ。
実際にドクターにも「お礼なんて気にしなくていいよ。俺を頼ってくれるだけで嬉しいんだからさ」と伝えてから出立した。その言葉も、嘘偽りない本心だ。
――が。
(急いで帰ってきちゃうんだもんな……)
あまりにも現金すぎて、自分で自分に呆れてしまう。
見返りなんていらない、という気持ちに嘘はないはずなのに、ご褒美をくれるという言葉には素直に期待してしまう。こんなに単純な生き物だっただろうか。
ドクターのことが好きすぎて、時々恐ろしくなる。自分のペースが全く保てない。
(でも、〝いいこと〟してあげるって言われたら……)
期待するなというほうが酷な話だ。
特に今は疲労のせいで自制心が限りなく低下しているし、一週間近く顔を合わせなかったのなんて久しぶりだし、いろんなものが耐えられなくなっている。
今すぐ会いたい。抱き締めて『ただいま』を言いたい。それから――
我慢のできない犬にはなりたくないのに、期待ばかりが膨らんでしまう。
逸る気持ちを抑えつつ、テキーラは目的の扉の前に立って軽く前髪を整えた。
*
「あのさ、ドクター……」
ベッドの上で横向きに寝そべり、テキーラはおずおずと自分の背後に座る恋人に呼びかける。
「なに?」
テキーラの背中側に座るドクターが、穏やかな声を返してくれる。久しぶりに直接聞いた彼女の声は柔らかく鼓膜を打ち、ここまでなんとか押し留めてきた疲労がじわじわと表層まで滲み出してくる。
優しく触れる手が心地よいので、正直このまま眠ってしまいたいくらいなのだが、ひとつだけ引っかかっていることがあり……。
「ドクターが言ってた〝いいこと〟って……これ?」
「そうだけど」
さも当然とばかりに返事をしながら、ドクターは自身の膝の上に乗せた尻尾を丁寧にブラッシングする。
その手つきはいたわりと慈しみに満ちていて、時折尾の表を撫でてゆく掌も温かくて、とにかく心地よい。心地よくは、あるものの。当初の想定とはいささか異なっているのは事実で。
てっきり、会えなかった時間を埋めるような、濃厚な夜のスキンシップをさせてもらえるのかと思っていたのに。
確かにドクターは〝いいこと〟としか言わなかった。
そして、尻尾のブラッシングや手入れも、〝いいこと〟には違いない。
でも、部屋を訪ねるなりシャワーを勧められたら、期待してしまっても仕方なくないか? 浴室を出たら、尻尾用のブラシとトリートメントクリームを手にしているドクターと向き合う羽目になるなんて、まったく、かけらも想定していなかった。
表情豊かなほうではないドクターが、手入れ道具を両手ににこにこと微笑んでいるのがあまりにも可愛くて、流されるままに身を委ねてしまったのだけれど。
「本で読んだんだ。ペッローにとって誰かに尻尾の手入れをしてもらうのは心地よいことだって。親しい間柄の証左だ、とも。だから、君が帰ってくるまでに少し勉強しておいたんだよ」
確かに、親しい相手に尻尾の手入れをしてもらえるのは、ペッローにとってはある種のご褒美である。それを実行するために、ドクターがわざわざ道具を揃えたり、手入れの仕方を勉強してくれたんだと思えば、愛おしさで胸がきゅんと疼く。
「君は、身嗜みを他人に任せたがるタイプじゃないのは知ってるけど、たまには私が甘やかしてもいいだろう?」
ああ、甘やかしたいと思ってくれているんだ。実感が追いついてくると、この時間がとても贅沢なものに感じられる。同時に、早合点して欲望まみれの期待をしていた自分を恥じた。
もちろん、抱きたいと願うのも彼女が好きだからに違いないけれど。
(ちょっと即物的すぎたな……)
申し訳なさが込み上げてきて、テキーラは枕代わりに頭の下に敷いたクッションに顔を埋める。このまま、愛情の籠もった撫で回しに身を委ねて、今日は眠ってしまおうか。
「……でも、もしかして君は」
そんなことをぼんやり考えていると、尻尾を梳く女の手が止まった。
クッションに埋まって目を閉じ、心地よさにまどろんでいる男の耳に、身をかがめて唇を近づけると、
「もっと他の〝いいこと〟のほうがよかった……?」
艶を帯びた囁きに、テキーラは思わずぱちりと目を開く。すぐ傍まで擦り寄ってきていた眠気が一瞬で吹き飛んでしまった。
ぎこちなく首を動かして、自分に覆い被さっているであろうドクターの方を見上げる。マスクに覆われていない顔の横から、髪がカーテンのように垂れ下がり、女の顔に妖艶な影を落としている。
いたずらっぽい笑みを含んだ瞳と、目が合った。
「ええと……」
普段ならもっとうまくごまかせるはずなのに、図星を突かれて動揺した。反射で浮かべた笑顔も、口の端が引きつっているのがわかる。
「何を期待していたのかな、エルネストくん?」
吐息の触れる距離まで近づけられた顔。何もかも見透かすような大きな瞳に見つめられていたら、下手な虚勢を張るのも馬鹿らしくなってきた。ドクターも既に、察しがついているようだし。
横に向けていた体を仰向けに返し、テキーラは真上にある恋人の顔を見上げた。ドクターの手が、頭頂部にある垂れ耳をぺろりとめくって、内側を人差し指でそっとなぞる。その指の動きがやたらと官能的に感じられるのは、気のせいではないはずだ。
「早くドクターに会いたかった」
「うん」
「抱き締めて、いっぱいキスして……」
「それから?」
垂れ耳にイタズラを働くドクターの手を捕まえて、細い指先にそっと口吻をする。
「二人で〝いいこと〟したいなって、思ってたよ」
甘やかしてもらえるのも、撫で回してもらえるのも、もちろん嬉しいに決まっているけれど。どうせなら、一緒に満たされる時間を過ごしたい。
ぬくもりも、気持ちよさも、分け合って、溺れたい。
「尻尾の手入れが嫌だってわけじゃないよ。ドクターが俺のためになにかしてくれるのはすっごく嬉しいし。でも、白状すると、やっぱりそういうことを期待してた……っていうか」
「だから急いで帰ってきたの?」
「……そうだよ」
急いで帰艦したことまでバレていて、いよいよ恥ずかしくなったが、もはやごまかしても意味がない。
「かわいいね、エルネスト」
「んん……」
ドクターの前では常にかっこよくいたいのに、何故か上手くいかない。毎回彼女の掌の上で転がされている気分になってくる。
「じゃあ、今からする? ――二人で」
女の唇が、艶を含んだ笑みに緩む。唇の表を撫でてゆく指先も、タンクトップの隙間から腹部に滑り込んで来るもう片方の手も、随分と積極的だ。
(ドクターだって、本当ははじめから)
そういうつもりだったんじゃないの?
追求しようか迷って、やめた。せっかくいい雰囲気になったというのに、自分で水を差すなんて勿体ない。
「……うん。今度は俺に、いっぱい撫でさせて」
捕まえたままの細腕を引き寄せ、すぐ傍まで下りてきた女の唇に、テキーラは下から噛みついた。
【終わり】
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