雨宮水月
2024-07-01 19:12:13
3295文字
Public FTN
 

月の洪水

Fate Table Night アサシン陣営の前日譚
(2021年12月の作品)

 あなたの隣で眠っている時が、何よりも幸せでした。
 あなたと共に同じ場所で生きていることが、信じられないほどの喜びでした。
 あなたに頭や頬、背中を撫でられることが、とても嬉しかったのです。
 あなたと居られる奇跡があったから、わたしは戦えたのです。
 心の片隅に横たわる、木枯らしに揺れる枯葉を覆い尽くすほどに。腸の中で蠢く小さな自己嫌悪の虫たちをすり潰すほどに。
 あなたが生きているだけで、わたしはなんだって出来たのです。



 ブルガリア北部。ヴェリコ・タルノヴォの郊外。森の中にて。
 時計の針は既に天を通り過ぎ、街の灯りも星へ出番を譲るように眠っていった。夜行性の動物たちが闊歩する森はやけに静かで、ここにはもう生命が存在しないのではないかと思われるほど。だが、彼らは潜んでいるのみだ。彼らの他にも夜行性の存在が、確かにこの場所へ入り込んだのだから。
 「Kurdum için gel……Bu arzu için konuşalım.」
 森の中にある開けた空間。そこに折り重なるのはこの自然溢れる場所に相応しいと言えば相応しいし、相応しくないと言えば相応しくないとも言える。凄惨でグロテスクな生き物の、死骸にも満たない息をする何かだった。
 だが、その血を以て召喚陣を描き悪魔召喚の誘い文句をつらつらと述べている男と、呼び出した悪魔を貪っている狼の方が、穏やかな夜の森に不相応であった。彼らは決定的に、異物であった。
 狼は悪魔の血肉に噛みつきそれを引き剥がし、骨にあたる硬い部分までもを噛み砕く。バキバキ、メキメキ、グチャグチャ。乱暴に食い荒らす獣は全身の毛皮をどす黒く醜い赤に染めながら、何度目かわからぬ冒涜的な食事を続ける。
 その様子を眺めていた魔術師は、悪魔をすっかり平らげた被検体に生贄となった人間達も差し出す。
 後処理は完璧に。綺麗に残さず食べましょう。
 しかし、三人目の橈骨を子気味良い音を立てて貪った後から獣はふらりと目眩を起こし、与えられたご馳走から距離を取った。
 「グェ、あ゛、ッガァァヴゥ……!」
 腹に収めたものを吐き出しそうな嘔吐きの咆哮を響かせながら、獣は倒れ込む。ヒクヒクと四肢を痙攣させながら、まるでそこだけが別の生き物であるかのように波打つ腹部の違和感に耐えるように、グゥ、ゴゥ、と低く唸っている。
 「……食えないのか?」
 純粋に、疑問をぶつけた。少しだけ首を傾げて、どうしてそうなるのかわからない、とでも言うように。まるで食べ切ることが当然であることのように。疑いのない、純粋な、「お前なら大丈夫だと思った」という信頼にも似たなにか。
 アイク自身が意図してそのような瞳を向けているのか、無意識なのか。そのどちらも孕んでいるのか。それは獣にはわからない。わかるわけがない。だって彼女は人ではない。アイクではない。
 決定的に違う生き物を理解することなど、到底出来ないのだ。
 だから、必死に否定するしかないのだ。
 「っげほ、ごほっ!! ちが。ちがいま、あいくっげほ! たべま、す、ったべられますっ」
 否定する。彼の疑問を。自分は大丈夫、まだ食べられる。ここにいる全てを、飼い主以外の全てを腹に収めて強くなれるほどの許容量があると示す。否定する。否定する。
 なにを?
 違う、と口で言ってはいるがそれはなにを否定しているのだろうか。この女はふらつく足を何度も何度ももつれさせながら、夢遊病者のように同じことを繰り返す。違います。違うのです。
 それは、「自分が出来ないこと」を否定すると共に「自分の、やりたくないという心」を否定する言葉であった。
 つまるところ、彼女は欲張りなのだ。欲にまみれた獣でしかないのだ。あれも出来る、これも出来る、これは嫌だ、あれはいらない。あれもこれも、欲しい。マスターから、褒められたい。
 そんな必死な抵抗も虚しく、獣の女を抱き上げた飼い主は静かに目を伏せながらその場から離れようと歩を進める。人に似た四肢を生やした銀と太陽の女が血に汚れ、彼の腕の中でぐったりと体重を預けている。
 思っていた以上に軽い怪物は、焦点の合わない目でアイクに懇願し続けた。細い腕を上げて、彼の胸板に手を這わす。そうやって縋っていると、これではまるで、どちらが子どもか分からない。
 それに黙って首を横に振り、何の感情も乗せないまま事実を突きつける。
 「いや、いい。無理に腹に収めても十分な魔力回復は見込めん。諦めも肝心だ」
 冷静な判断。今一番必要な結論。それだけだ。そこに感情など乗らない。必要も無い。
 獣への気遣いなど、心を汲む行為など、してどうするのだろう? 意味が無いことをしてどうなるというのだろう?
 何も獣に限ったことではないが、アイクは無駄なことを省く男だ。そういう風に育った。
 そして、その言い方は恐らく意図的なものだった。彼女の反抗心を掻き立てるのには十分な麻薬だった。感情、欲求。特に承認欲求という、自分の存在意義を確立するための感情は執着にも似ており、上手く扱えば手綱になるが最悪自分の身を滅ぼす。
 しかし、アイクはこの狼相手ならば必ず手綱となることを確信していた。だからこそ、この血を鎖として首輪をつけ続けている。
 「わたしがっ、いけないんです。ごめんなさい、ごめんなさっ……ァぐッッ、ぃっ」
 そして、彼女はその首輪も鎖も見えていないのか。見えていても享受しているのか。アイクの思惑通り自己嫌悪に陥いった。自分が悪いから、マスターの期待通りのサーヴァントでいられない。
 ぐぇ、がぁぐぅ。その嗚咽は吐き気からくるものか。それとも、鎖に引っ張られて締め付けられている首輪のせいか。
 「ごめ……なさいごめんなさい…………よわくて……ごめ、なさ
 涙は流さない。母は決して泣いてはならない。そのように信じられているのなら、涙は一切流れない。例えどんなに腹の底からせり上がってくる気味の悪い感覚があろうとも。胃液に食道も口内も侵されて、段々と嗚咽も懇願も謝罪も人間が認識出来る音にならず、夜の闇に溶けていくばかり。
 儀式を行った場所からしばらく歩き、さらさらと涼やかな音が響く小川が見えたあたりで彼女を下ろす。そのまま自分も腰を下ろして木の幹にもたれかかり息をついた。右手は女に掴まれたままだったので、空いている左手で彼女の頭をゆっくり撫でる。
 少し呼吸が落ち着いてきたところで撫でていた手を頬まで落とし、少しついてしまった土埃を払ってやりながら目元を軽く覆った。
 「……もう寝ろ」
 そう言ってアイクは自らの脚を被検体の枕にして差し出し、月を見上げた。
 もう数日も経てば満月になる。
 彼女に混ぜた人狼はあの厳かで静謐な、しかし狂気を与える甘く優しい光に呼応してどんどん目覚めていくことだろう。今日のように食べきれない、なんてことは恐らく今後ないに等しい。
 「今はアンタが無理をしても、不戦勝で終わるだけだ。わかるな? 体力及び魔力は温存しておけ」
 優しい声で。暖かい手で。冷たい月の光で。本人にその気はないにせよ、ささやかな子守唄が獣を襲う。
 泣き疲れてしまった子どものように、最愛の飼い主の手を握り締めながら小さく声にならない慟哭の断片を散らしていく。ぼんやりとした視界の中に、煌々と自分たちを照らしている月が見えた。青白く、天高く見下ろすそれにぶるりと身震いをしてから飼い主にぴっとりと寄り添う。
 あんなに綺麗な存在なのに、どうしてこんなに恐ろしく思えてしまうのだろう。
 アイク、我がマスター。愛おしい子孫のひとり。創造主たるドクター。ごめんなさい。ごめんなさい。
 くぅ、と喉を鳴らしながら、撫でてくれている無骨な手のひらに額を擦り付けた。
 あなたと見る月は、本当に不気味なくらいきれいで。
 「溺れて、しまいそう」
 はらり、と落ちていく音はそのままの意味通りに。流れていくせせらぎと月の空気にとぷんと呑まれ、消えていった。