北欧神話に登場するフェンリルは神々に災いをもたらす災厄の獣と予言されていた。予言のとおり、フェンリルはラグナロクで最高神であるオーディンを飲み込んでしまう。だから、神々はフェンリルを拘束し、世界の底へ捕縛されてしまう。
さらに言うなら、フェンリルの一族であるスコールは太陽を、ハティが月を追いかけている。月と太陽は狼どもから逃げるために馬車を走らせていくが、ラグナロクにはどちらも飲み込まれてしまう。
そんな災厄の獣の名を自称する少女と出会ったのは、今から十数年前のこと。
夜の街でうずくまっていたのを見かけただけだが、その容姿は誰も彼も目を見張るほどの異質さに溢れていた。くっきりとした顔立ちに色白な肌、夜のネオン街を反射する目は宇宙のよう。特筆すべきは髪の色。光に当てられて紫にもピンクにもオレンジにも見える赤い髪を、無造作にウルフカットにしていた。
美大生だった僕はこの子を絵に描きたいと思った。でも勇気が出なかった。ただただ、その子を見つめることしか出来なかった。
彼女は僕の視線に気づくとニコリと笑って、ゆっくりと身体を起こし近づいてきた。
「なぁ、一晩だけ泊めてくれないか?」
見た目よりも随分馴れ馴れしい手つきで僕の腕に絡んで、小さな身体を押し付けてくる。未成年だろうか。だとしたら僕は犯罪者になってしまう。すぐにでも連れ帰って、描きたい衝動を抑えながらつとめて冷静に問いかける。
「ご両親は? 心配してるだろう」
「死んだ。あたしを心配している人なんて、この世界には誰もいない」
それが彼女の世界の全てだった。他に話せることは何もないくらいに、彼女にはなにもないのだと、その言葉だけでわかってしまった。あっけらかんと、それが世の理であるかのように言いのける様を見て絶句した。が、だからと言って連れ帰っていいわけじゃない。
「…………でも、保護者はいるだろう」
「いても同じことだ。外泊許可はもらっているから……いいだろ? お前もあたしに興味があるんじゃないか」
否定出来なかった。宇宙を映す目は僕のことを赤裸々にして、全てを見通してるようだった。その目自体に光はなく、ただ外の世界の光源から光を集めて輝いているだけ。光を吸い込んで飲み込んでいる目に、僕は釘付けになって、そのまま彼女の小さい手を引いて帰路に着く。
そこから先はあまり覚えていない。ありあわせのご飯を二人で食べた気もするし、僕の部屋にある画集を全部引っ張り出して床に広げて眺めてる彼女がいた気もするし、長いこと話をした気もするし、空っぽのなにかを求め合って眠りについた気もする。
ただ、その日から彼女は僕の家に来ることが多くなった。居心地が良かったのか、僕の持ってる書物や、僕自身の作品に興味があったのか。わからないが、通い続けてくれることは好都合だった。僕はいざという時に勇気も出なけりゃ声も出ないのだ。雰囲気に流されて彼女を抱くことは出来るくせに。
だから、あの子が通い始めてから一ヶ月も経ってやっと言い出せたんだ。
「ねぇ、絵を描いてもいい? 君の」
大きな真っ白いキャンバスを抱えながら尋ねた。今日の夕飯は何がいいか、なんて質問と同じような軽さ。気持ち悪いと思われてしまうだろうか。もう来なくなってしまうのだろうか。
「ああ、いいよ」
心底興味がなさそうに、彼女は即答した。何も思われてないことに少しだけ心がチクチクしたが、拒絶されなかったことだけは嬉しかった。僕はもうこの時に恋に落ちていたんだと思う。ただ、当時の僕はその感情を「誰でもいいから僕の作品を愛して欲しい」という一心で生まれた何かだと思い込んでいた。
彼女はただ黙って本を読んだり、眠ったり、好きなように過ごしていたが、絵が描きやすいように長時間同じ姿勢でいてくれた。椅子の上に体育座りをして、田舎のお袋が送ってくれたマスカットを一粒一粒丁寧に皮を剥いている姿を描いた。長い睫毛が頬に影を落としていたりだとか、赤い髪とほのかに赤らんだ頬の美しさだとか、細くても筋肉が程よくついていて健康的な手足だとか、爪が割れて痛々しい裸足だとか、たまにつまみ食いすることでかさついた唇に艶が戻ったりだとか。そんな細かいところまで描き起こして、描いて、描いて、いつの間にかマスカットが半分くらい食べられていた。
残った半分をぼうっと眺めながら、彼女は不思議そうに話しかけてきた。
「あたしを絵に描いてどうするんだ」
「絵は、描き続けなければ見えなくなるんだ。色んな絵を描かなきゃならない」
「じゃあ、あたしのことは一度しか描かないのか」
「…………もうひとつ描きたい。……いい?」
「……いいよ」
もうこの時、僕は絵と少女のことしか見えていなかった。自分がどうなるかなんてどうでも良かった。大学での評判は良かったが、世間からはそんなに評価がついていなかった。
「脱いでもらっても、いいかい」
正直、ここで少女が逃げても僕は良かった。ひとつでも彼女の絵が描けただけで満足していた。人はやっと得られた満足の先を追い求める生き物だ。そうやって追いかけて、掴めなかったら、やっぱり無理だったかと落ち込むだけだ。少なくとも僕は、無理なら仕方がないと諦めることがすんなり出来るタイプだった。絵も、友人も、恋人も、人生も、仕事も。
「全部か」
そう言って彼女は制服のボタンを外し始めた。なんの躊躇いもなく。
そこで僕は勘違いしたのか、安心したのか。それとも彼女の貞操観念に同情したのか。泣きながら頷いた。頭を撫でて、ごめんと言えば、よくわからないやつだな、芸術家って、とつまらなさそうに言われた。しょっぱいマスカットの味を覚えている。
それから二週間ほど経って、フェンリルはもう僕のアトリエに来なくなった。
赤い狼の絵はまだ物置の中にしまい続けてある。次に引っ張り出してくるのはきっと、絵を諦めた時か有名になった時だ。
そうだと思っていたのに。
行きつけの定食屋で見たテレビ番組が頭の中にこびりついて、どんな強い衝撃を与えても忘れさせてくれない。
「では、来年いよいよ宇宙への調査に乗り出す方々にお話を伺いましょう」
あの子の名前はフェンリルではなく、狼谷澄月というらしい。
来年宇宙へ行く、宇宙飛行士になったらしい。
両隣にいた宇宙飛行士のメンバーと、仲睦まじく話していた。笑っていた。専門用語をすらすらと話して、本人たちにしかわからない話をしていた。
その目はもう、本物の宇宙を宿していた。
僕は帰ってくるなりキャンバスを引っ張り出して叩きつけた。
「狼谷さんは、何故宇宙飛行士になったんですか?」
「そうだな……知らない場所に行きたかったんだ。未知の場所を、知りたい。あたしたちは御伽噺や夢を見る。それを、あたしは宇宙から引きずり下ろしたい。夢を現実にするために、みんなでプロジェクトを進めてきた」
幻想は幻想で良かったんだ。
現実にすることで心が壊れる人だっているんだ。
何を叫んでいるのかもわからないまま、キャンバスを叩き壊そうとした。
絵の中の彼女は永遠だった。僕をじっと見つめて薄く微笑んでくれる。
僕の赤いフェンリルはここにしかいない。
ぼたぼたと涙がキャンバスに染みをつける。
もう僕は、災厄の獣の腹の中にいた。
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