雨宮水月
2024-07-01 18:58:39
2994文字
Public 探索者の日常
 

不知火

八代ちづるの話
(2020年9月の作品)

 僕が配属された署の捜査一課にいる警部補には変な人がいる。まぁ、僕の先輩というか、上司みたいな人なんだけど。
 僕は巡査から巡査部長へ昇格し、本格的に事件の捜査をしていくことになった。その時に先輩としてコンビを組むことになったのが今、僕の目の前でラーメン大盛り麺硬野菜ダブルニンニクアブラ増し増し、と呪文を唱えた八代さんだ。僕よりも小さくて細身なのに、どこにそんな量のラーメンが入るんだと疑っていた最初の頃が懐かしい。女性だけど女性らしくない、警察だけど警察らしくない、そういう変な人が僕の先輩だ。
 一番変なことは、何故か敬礼を左手ですることだ。いつもいつも僕が右ですよって直しているけれど、他の人はいつものことらしくて半分諦めている。八代さんの直属の上司もこれまた変な人というか、適当な人で、左手の敬礼に左手の敬礼で返してくる。だめだろう、それ。
 「先輩、いい加減右に直してください。もっと昇格したらお偉いさんと会う機会も増えるんですから……
 「昇格する予定ないもーん。あっても警部までかなぁ」
 紙パックの黒酢ドリンクをズコココ、と飲み干した先輩は、ストローを咥えながらそんなことを言った。一応健康を気にしてるのか、野菜ジュースや黒酢、豆乳なんかを飲んでいるのをよく目にする。チョイスがやけに安直でわかりやすい。
 「……なんでですか。一応、昇進出来る実力はあるでしょう」
 そう、この人は何故かこんなにいい加減でヘラヘラしているのに、とてつもなく優秀だ。噂では警視庁本部の人間と関わったことがあるとか、極秘の捜査をして成果を上げたことがあるとか、警察内部の汚い部分を指摘して晴らしたことがあるとかなんとか。どこまで本当かはわからないが、そんな噂がそこかしこで独り歩きしている。本人はそんなこと露知らずのようで、以前少し聞いてみたら「え? 知らん…………なにそれ。こわっ……」とドン引きしていた。多分噂は半分くらい嘘だ。
 しかしそれを抜きにしても、先輩は現場での機動力も決断力も迅速で、捜査の中で展開される推理も粗方合っていたりするのだから本当に恐ろしい。非常に頭が切れる上に、拳銃の腕が本当にすごい。一度間近で見た時は何十年ものベテラン顔負けの一発が放たれていた。僕の拳銃の実技は下から数える方が早いので、そこは本当に憧れる。
 先輩の直属の上司もそうだが、こんなに実力があるのにあまり昇進したくなさそうなのは何か重大な理由があると思ったのに、んーと紙パックを畳んでゴミ箱に放り投げ、ガコンという良い音を鳴らした後に続いた言葉は意味不明だった。
 「ま、なんつーの。宗教上の理由?」
 「は? なんですかそれ……全く、本当に貴方は子どもっぽいですよね」
 「おっ、なんだ? 喧嘩売ってんの? 刑法を空で言えるようになってから出直して来なよね!」
 そう、この人は何故か法律にめっぽう強い。書類仕事が大嫌いで、嫌だ助けて後輩なら先輩の為に全部やれ、と押し付けようとするくせに、法律が関わってくると「これは三十九条だから最高裁行きだけど、病院にも行ってもらわないとね」だとか「あー、向こうの班とこっちの班で百九十七の二が必要か。照会書作ってくれる? 関係各所の詳細はそのフォルダん中にあるから。出来たら班長に渡して〜」だとか、流れるように刑法の内容を理解して仕事を投げてくる。一瞬で理解して次から次へと投げて寄こしてくるものだから、たまにストップをかけないと僕は理解が追いつかない。データベースで一々刑法の中を見るのが一番良いし、勉強してきたことの復習ではあるが、こればかりは慣れるしかないのが悔しい。先輩は本当に凄い。でもやっぱり変な人だ。
 「先輩って自分の実力をわかってるのかわかってないのか、本当に不思議です。以前のこの街の事件も関わってたみたいだし、何故か尊属殺人も推理が当たってたし。かと思えば昨日はパンの食べ過ぎでお腹壊して尾行失敗してたし、ホームレスと鍋つついてたし……
 「よう覚えてんねぇ……
 「若いので」
 「嫌味か?」
 おらおら、と小突いてくる先輩だが、一応この人もまだ二十代だったはずだ。アラサーだけど。
 こんなに小さくて子どもっぽい人がそろそろ三十歳になるなんて信じられない。こんなに明るくてやり手な人に浮ついた話が何もないのは、それよりも信じられない。
 本当に何もないのだ。よく事件の担当になる解剖医と非常に仲が良さそうだけれど、そういうのでもなさそうだし。以前後輩だった青年とも仲が良くて意気投合してたけれど、彼はいつの間にかどこかへ行ってしまった。
 可能性があるのは解剖医の人だけれど、あの二人が屋上で話している時は何故か神妙な顔をしている。僕の前では絶対にしたことが無い、どこか傷心した先輩の顔をよく覚えてる。今にも泣きそうなのに、目の前にいた片腕の解剖医は遠くを見ているだけで何も言わないし、何もしない。
 わからない。あの二人がどういう交友関係なのか。わからない。
 ふとした時に酷く遠くを見る先輩の世界が、わからない。
 「ああ、でもそっかぁ。私もうすぐ二十代終わるのか。ここ数年で色々ありすぎたわ〜」
 そうやって、にへらと笑った顔の端に寂しさや悲しみや、何故か照れくさそうな色を見え隠れさせるこの人が、わからない。
 一体誰を見てるんですか、先輩。
 なんで届かないものに手を伸ばして、泣きそうな顔をするんですか。
 道端でマジックをしてるシルクハットの男性を見て、目を見開いた後に愛おしそうに笑ったり。
 懐かしい児童文学書を聖書のように大切にして、愛読書にしてたり。
 ヒーローショーではしゃぐ子供たちを眺めながら苦しそうな顔をしたり。
 「嘘は嫌いなんだ、基本はね」と口癖のように言っていたり。
 テレビで見た菜の花畑を眺めた後に、赤いビー玉を眺めてたり。
 「色々あったって、例えばどんなことですか」
 わからないから知りたいんだ。
 あなたが到底届かない場所にいるだなんて信じたくない。その肩に触れられる距離にいるのに、なんでこんなにも僕の手は空を切っているのか。
 先輩はうーん、と少し考えてから屋上の柵にもたれかかって、俯いた。
 僕はただ待っていた。
 待っていたけれど。
 「ちょっと、言えないこと」
 そうやって、いたずらっ子みたいに笑ってはぐらかされてしまったら、もう何も言えなくなる。
 僕はきっとあなたに追いつけない。
 「世の中にはさー。知らなくていいことがたくさんあって。それを知るとさ、ホントに戻れなくなるんだよね」
 「何の話、ですか」
 「うん、世界の話」
 わからない。理解したい。この人が何を見て来たのか知りたいだけだ。
 どうやって笑って、泣いて、足掻いて、這いずって、立ち上がって、生きてきたのか。
 ただ先輩のことを知りたいだけなのに。
 「君はさ、そのままでいてよ」
 それすら許されないのは、あんまりだ。
 夕焼けが燃えるように街を包み込んで、まるで火の海の中で満面の笑みを浮かべてるような八代さんが見える。
 夜になる。
 赤い星に照らされて、まだ、ずっと、その人は笑っている。
 (遠回しに、フラれた)
 きっと僕は、あの赤い星を二度と見ることが出来ない。