雨宮水月
2024-07-01 18:53:13
5496文字
Public 探索者の日常
 

ペルソナ剥がれし平行絵画

氷室絵里と、よその子の出会いの話。
よその子をお借りしています。
(2020年3月の作品)

 穏やかな海に立っていた。
 雄大な海原には道なんてないのに、どうしてか自分の立っている場所から伸びる線はひとつだ。ただただ真っ直ぐ、消失点まで続いている線に、吸い込まれるようにして歩き出す。周りには何も無く、ただ、海底をゆったりと歩く自分が珊瑚や揺れる海藻に見送られるだけ。
 ひとりだと思っていたのだが。
 後ろから、ざりざりという音が聞こえて振り返る。少し後ろの方に誰かがいた。自分と同じ黒と青で、華奢な腕で魚に手を伸ばしているのはわかるのに、他は何もわからない誰か。その影を眺めているうちに、意識が朦朧としてくる。
 ああ、ここは揺りかごだっただろうか。
 しかし、その平行線に並び立つまで微睡むことはない。
 だって彼らは、どちらかを待つということなんてしないのだ。
 舞台に上がった役者のように、人生という舞台で好き勝手に振る舞う。
 そのペルソナが剥がれるならば、新しい物語が生まれるだろう。
 今はただ、お互いの影を見ているだけ。



 海の中を漂うような心地良い感覚から、突然凸凹の激しさを感じる硬度の高い振動に意識が浮上した。
 長いこと電車に揺られていた少年は窓を叩く音が雨だとようやく認識してから、薄らと目を開ける。
 折角の高校最後の夏。図書館巡りの旅をしているのに、今日はあいにくの雨。天気予報によると、茨城のこの地域は降水確率六十パーセントのため、微妙なところだ。
 目的地は海が見える図書館と、そこに併設されている博物館。この天気では荒れた海を見ながら本を読むことになりそうだと、窓に張り付いては振り落とされる雨粒をぼんやり見ていた。
 あらかじめメモしておいた電車の乗り換え駅を確認して、あと何駅先かと路線図を見ようとした時。アナウンスにより、あと二駅先で降りれば良いということが判明した。背もたれに寄りかかり、ぽつぽつと人が点在する車内を見渡した。雨がまだ降っているなら、先に博物館に行ってから図書館へ向かおう。頭の中で細かいプランを練りつつ、ガタンゴトンと子気味良いリズムによって生まれる眠気に抗っていた。
 海に近い茨城のこの街は、最近になって博物館や図書館が新しく建て替えられて綺麗になっている。様々な学者によって博物館の展示内容が充実し、近代的な建設デザインと子供たちが興味を示すような仕掛けを作ることで、来訪者を増やす取り組みをしているらしい。博物館にはプラネタリウムが併設されており、更に海の方に向かえば水族館も建っているので、近隣のどの地域よりも文化的な街となっている。市も「歴史が生まれるまち」として大々的にPRしており、観光客もちらほらと増えているようだった。
 地方にしては栄えている目的の駅に到着し、久々の人の波に流されていく。流石に博物館や図書館へ行くのにずぶ濡れになるわけにもいかないので、コンビニに寄ってビニール傘を買ってから外へ。パラパラと頭上でコンサートを開いている雫たちをBGMにしながら、蛍はプリントアウトした地図を参考に博物館へ向かった。
 小高い丘の途中に建設された博物館とプラネタリウムに着くと、じっとりとした湿気と生ぬるい夏特有の汗が混ざりあって、肌に服がまとわりついてくる。そこに雨粒が来るものだから、このまま博物館に入ればクーラーに当たって身体を冷やすことだろう。鞄から上着を取り出していそいそと着込みながら、入館のためのチケットを購入しに売り場へ向かった。
 館内では恐竜の化石の他、動物の骨格標本、この街の遺跡から発掘された土器や石斧、家屋の土台跡などが展示されている。何故この時代なのか、この地層にはこんな特徴がある、などといった細かくもわかりやすい展示が多い。博物館自体が住居跡の上に立っているため、立ち入り禁止区域もあるが、実際に遺跡を歩けるような作りになっていた。蛍もそこに足を運んで、殺人事件の現場がこのような場所だった場合はどういう物語にするのが楽しいだろうか、と地面を撫でる。
 実際に昔の道具を使ってみるコーナーや、化石の見つけ方、実際に遺跡で発掘をするコースといった実習体験もあるらしく、夏休みの子供たちが土いじりに勤しんでいる。その姿を横目に、ゆっくりと順路に沿って進んで行った。ミュージアムショップで適当なポストカードを購入し、併設された食事処でまぐろ納豆丼なる定番メニューを頼んで雨が上がるのを待つ。
 待てど暮らせど、雨が止む気配はなかったのに。
 諦めてそのまま図書館へ向かった蛍は、まず一階で館内図を確認した。本館は扇形になっており、弧に当たる部分の二階がオーシャンビューの読書スペースとなっている。ソファや革張りの椅子、小さな棚で仕切られた向かい合わせの形の勉強机と、くつろげる場所は多いようだ。
 一階は文学や言語、芸術、自然科学、社会科学、新聞や雑誌などといった本が多く、二階は哲学や歴史、技術、産業などの分類に入る本が並んでいる。蛍は先に上から見ようと、吹き抜けの真ん中に大きく設置された階段を静かに上がって行った。
 オーシャンビューは見れないと思っていたのだが、読書スペースで老夫婦が綺麗、という話をしているのを聞いて、窓を見た。
 虹よりも魅力的な光景が、そこにあった。
 開放的で湾曲した形状の窓の向こうに、海が見える。まだ雨は降っているが、これから晴れることが伺えるように天使の梯子がそこかしこに降りている。穏やかになりきれない豪快な波の音が、静かな図書館の床にまで届きそうなほど揺らめいてうさぎが跳ねた。その手前には等間隔で勉強机が置かれており、僅かな太陽光に照らされてここから見ると逆光になっている。
 その中のひとつに、海の中で目を伏せ、学術書と向き合っている少女が座っていた。
 穢れのない真っ白なセーラー服から伸びる、すらりとした手足。肩甲骨あたりまで伸びた烏の濡れ羽色の髪を耳にかけ、ほぅと感嘆の息を漏らしながら読み進めていく。
 海にいるのに読んでいるのは考古学の本のようで、蛍はなんとなく、その透明で大きな窓に海底遺跡を思い描いた。
 かつて人が住んでいた場所は今や小魚や海藻、貝類、珊瑚たちの楽園となり、その生活の名残りも海の大きな力によって隠されていく。謎めいたその景色を暴いていくように、彼女は恍惚とも言える笑みを浮かべて歩いていた。
 こぽり、と肺の空気が零れていくのに、彼女は全く苦しそうにしていない。足元に転がる貝殻や壺を避けて、まるで踊るように目当ての物に近づいて行く。その先には置き去りにされた頭蓋骨。忘れられた人生と思い出。細い指が触れて、壊れないように丁寧に拾い上げる。長年探していた恋人に出会えた時のような表情で、その後頭部を撫でながら額と額をくっつける。
 何かを、呟いたような気がした。
 (きれいで、楽しそうだな)
 そんな白昼夢を見終えた蛍は、ゆっくりと瞼を上げる。ここはまるで美術館や映画館のような図書館だ。現実だと思っていた景色が誰かの描いた絵画の中の話だった、という脚本はファンタジックすぎるだろうか。そんなことを考えながら、いつの間にか居なくなっている少女のことなど気にもとめずに館内を改めて巡り始めた。
 もちろん書庫にも入れるなら入りたかったが、生憎関係者以外は立ち入り禁止。大人しく見れる所だけを回って、気になるタイトルの本を気まぐれに手にしてから、先程少女が座っていた場所でしばらく読書を楽しんだ。
 傾いてきた日差しに目をチカチカさせながら、蛍はゆっくりと思考の海から上がってきた。もうこんな時間か、と穏やかな赤い海を見て立ち上がる。流石に長居をしすぎた。帰れるかどうかも危ういため、そそくさと本を何となく戻して図書館を後にする。
 気持ち駆け足で駅まで戻ると、ホームへ滑り込んできた電車にちょうど間に合うことが出来た。日差しが強く当たる時間帯と雨上がりというのも相まって、何をするにも汗だくになる。はぁ、とわずらわしそうに首筋を伝う汗を払い除けて冷えた車内に腰を落ちつけた。
 しばらく電車に揺られながら海岸線が見える窓の外を眺めていると、灯台のふもとに誰かが立っていた。
 見覚えがあるような、ないような。
 白いセーラー服で、くりくりとした癖毛を肩甲骨まで伸ばしている高校生。その子が片手に、ハサミを取り出して構える。キラキラと跳ねるうさぎと一緒にハサミも煌めいて。その髪が、今にも。
 一際大きな轟音と共に、視界が真っ暗になった。列車はトンネルに入ったらしい。
 事実は小説よりも奇なり、とはこのことか。今の映像はもう少し角度を変えて、距離を縮めれば次の脚本に活かせるはずだ。すぐに座り直して、愛用のネタ帳にペンを走らせた。美術館のような街は、インスピレーションに満ち溢れている。今回の旅はなかなか良かった、と車内アナウンスと波の音を遠くに聴きながら次の作品の映像を思い浮かべた。


 ジリジリと痛いくらいの陽射しに雨を欲する。地平線が混ざりあってひとつになるくらいの、美しい青の背景に眩しく存在を主張する真っ白な遺跡。雨乞いの儀式にも羊は必要だっただろうか、と汗を拭いながらしゃがみ込む。ここはギリシャ、人類の歴史において様々な基礎的概念を生み出した白亜の国。
 久しぶりに海外へ行こうなんて思い立ったは良いが、夏の地中海は過酷だったなと汗で肌にまとわりつくシャツを掴んでバタバタと空気を入れていく。それでも観光客は絶え間なく歩いており、この季節にしか出来ない発掘調査をしているチームも暑さを忘れるように土をいじっている。
 ふと、隣の方に立っていた集団が遺跡の考察や解説をしていることに気づく。視線をそこに向けると、日本人女性らしき発掘チームメンバーがいた。とても生き生きとした顔で、この神殿の大きさがこの時代の傾向的に見ても比較的規模が大きいことを、指で指し示しながら話していた。地域的にも奉る神が違っているようで、何故この神を称える神殿を建てたのかという考察を口にしている。
 その姿を興味深げに眺めていると、銀髪の男性がこちらに気づいた。人懐っこいにこやかな笑顔で「なんでしょうか?」と声をかけられる。ああ、ここは海外だったな。フランクに見ず知らずの人から話しかけられることは日本であまりなかったため、不意打ちだった。いや、と少し口ごもった後に、「興味深そうな話をしてると思って」と笑いかけて立ち上がり、取材を始めていく。
 脚本家なら、スクリーンに映える場所があるのだと男性が楽しそうに教えてくれたので、案内してもらった。日本人女性も、「日本の脚本家さんなのね。こんなところでお会い出来るなんて光栄よ」と愛想良く笑いかけて、この神殿の解説を丁寧にしてくれた。
 日本人もこんなところで活躍するのだな、と少し感心しながら見ていると、突然彼女の足と声が止まる。どうしたのかと顔を覗き込んだ瞬間、青い瞳が見開かれ、弾かれたように駆け出して行った。周りは一体何事かと彼女を視線で追いかける。銀髪の男性が彼女の名前らしき単語を叫び、追いかけていく。
 蛍はなにか勘のようなものが働いたのか、彼女の瞳が楽しげに輝いたのに気づいたからか。何も考えずにいつのまにか足を動かして、彼女がなにを見つけたのかを確かめるべく追いかけた。
 彼女は懸命に、夢中になってとある一点を掘り返していた。綺麗な顔が土埃にまみれても、その美しく楽しげな表情は酷く印象的で、本当に、楽しそうに生きていた。
 彼女の綺麗に揃えられた全ての爪に泥が入り込むまで掘り返して出てきたのは、動物の頭蓋骨。恐らくこの神殿で使用された生贄用の山羊かなにかだ。周りにいた発掘調査メンバーらしき者たちも加勢し、丁寧に地中からそれを取り出す。
 そして、彼女は、骨に額を当てる。
 何をしているのか、一瞬蛍はわからなかった。
 なんて言葉を発しているのかも、聞き取れなかったが。
 ただ、今この瞬間に見た景色は、真っ白い神殿ではなくて。
 極彩色に溢れた古代の海の中で、過去を語る遺物に笑いかける、美しい人の姿だった。
 発掘された骨を専門家に預け、額や頬や手に土を付けたまま戻ってきた彼女に声をかける。
 「あー、なぁ。アンタ」
 研究者仲間からタオルをもらいながら、蛍の呼び掛けに視線で答える女性。ごしごしとこすっても、汚れは簡単には取れなさそうだった。好きなことに夢中になる子どもっぽさに、彼女の表情の理由を感じ取る。
 「どこかで、会ったことあります?」
 あまりにも、見た事のある光景だった。あの美術館のような図書館で、海の中で見かけた少女の瞳が、同じように輝いていたから。
 誰かがぼそりと「日本人でそんなベタなこと言う人いるのか」と呟いたが、女性が思いっきりその腕をつねる。
 その容姿から何千回も掛けられたであろう言葉に、彼女は困ったように笑いながら口を開いた。
 「さぁ……どうでしょう。けれど、もしかしたら……
 彼女は覚えていないらしい。当たり前だ、話しかけてもいないのだから。一方的に絵画を鑑賞していたのは、こちらなのだから。
 でも確かに、二人はあの場所にいた。
 「天国で、会っていたかもしれませんね」
 あの景色をなんと呼ぶかは、次の新作から探してほしい。星座を作り出し、万物の根源を探し出そうとした、古代ギリシア人のように。
 極彩色の海にこぼれる言葉を、白く冷たい手ですくい上げて。