雨宮水月
2024-07-01 18:43:17
942文字
Public 創作
 

幸も不幸も喰らい尽くした

ワードパレット三題噺
19.天王星 「歌声」「約束」「綴る」
(2019年8月の作品)

 今日もアメンボと鮎は横断歩道を渡る。
 釣りをして今日の夕飯をどうにかしたかった少年は、旧人類の内臓ばかり釣り上げたバケツを見てうげぇ、と顔を歪ませた。自分の腹の中に詰まっているものと似ているはずなのに、どうしてこう、実際に他の人間のを見ると嫌悪感を催すのだろうか。自分の中身を嫌っていて、人のことを羨ましいと思っているなら中身も気色悪いとは思わないはずだ。
 だからあの子の中身を見た時には、恍惚という感情に似た危険な何かを抱いたのだろう。
 魚以外のものを捌くのは初めてだった。あまりにも食糧難に喘いでいたから、新人類も旧人類の真似をしなければならない時がある。鯨の骨の傍らに打ち上げられたふやけた肢体は、決して美しいとは言えなかったのに少年の心を乱すくらいの要素は持っていた。リアルすぎて気持ちが悪いほどの人間性をそこに見出したなら、それは人間として惹かれてしまう味があるということだ。だから、美味しそうだなんて思ったんだ。
 白身魚に刃を入れるようにゆっくりと赤い血を流していく。いや、あれは赤かっただろうか。もはや赤とは何色なのかも忘れるくらいの、命の輝きを持っていた。
 柔らかい感触を覚えた左手を、握っては開いてを繰返しながらやっと釣れた魚の頭をバツン、と切った。
 天国というのは名前に似合わず下の方にあるのだな、と海の底を眺めながら少年は思った。あの子を食べた後に海の墓場まで連れて行ったことを思い出す。墓標なんてなくて、名前さえ綴ることも出来ない場所へ葬られても幸せなのかどうかわからない。もはや死んでいるから、幸せなんてとうに奪われていたのだろう。いや、そうでもないな。
 幸せを貯めた身体は美味しかった。
 幸せはこうして得ることが出来るのかと、久々のご馳走に少年は更に涎を溢れさせた。あの味を忘れられなかった。だから、もう一度幸せの肢体が自分の元へ来るようにと、古来の約束通りに顔だった場所へ口付けた。動物として、マーキングは大切なのだと大人が言っていた。絶妙な寂寞感と切なさが胸を打って、透明な血が流れていく。
 52ヘルツの鯨になりたくはなかった。
 この滅びの歌声を、雨のように降らせれば良かったのだろうか。
 もう彼の元に、幸せは当分来ない。