雨宮水月
2024-07-01 18:38:33
3795文字
Public 探索者の日常
 

海からの手紙

ワードパレット三題噺
8.さそり座 「本当は」「手紙」「毒」
(2019年8月の作品)

 考古学者の端くれとして専門にしている地域柄、聖書に登場する使徒たちの手紙に触れる機会はそれなりに多い。ギリシャやトルコ、イスラエルあたりは三つの宗教が入り混じる場所だから余計に、だ。
 特に、勉強しやすく、歴史の中では何かとついて回ってくるキリスト教に関しては飽きるほど話題に上がる。二週間ずっと生姜焼きでも飽きないのに何故かしら、と謎の比較をして疑問を感じていた絵里は、兄弟子であるルーカスと共にトルコの大学の考古学研究室にお邪魔していた。
 研究室には大量のコピー用紙と本、本、年季の入った書類、現存する写本の写真をプリントアウトしたもの、そして極めつけに分厚い本が所狭しと並んでいる。コーヒーの入ったコップさえ居場所を無くすような景色が、そこには広がっていた。書物や羊皮紙類を専門としている人だからだろうか。
 本や紙類の山の奥からひょこりと白髪の老人が顔を出し、よく来たねと糸目を更に引き伸ばして笑いかけてくる。かろうじて床にはそんなに散乱してないので、すぐさま教授の元へ行き握手とハグをそれぞれ交わした。
 「今回は貴重な機会をいただきまして、ありがとうございます」
 「いやいや、こちらこそ。老体にはこの量を片付けるのは難しいからね、ありがたいよ」
 今日は絵里やルーカスが所属している研究室の梅宮教授が昔教わっていた、ウムト教授が定年になったため、研究室から引き上げる作業の手伝いをしに来たのだ。梅宮は外せない用事のために後から来るのだが、若者の手が多い方が良いということで二人が駆り出された。ウムト教授の教え子達は昼過ぎから来るそうだ。
 「講義があるんでしょうか」
 「いや、みんな休みだったと思うよ」
 「え!?ゆっくりですね……?」
 早速片付けようと本を手に取っていた絵里がタイトルの誘惑に負けて読もうとしているのを阻止しながら、ルーカスはまん丸の目を教授へ向けた。日本人的な所があるルーカスは時間通りどころか、五分前行動をする男だ。だから地元の女の子にはモテなかったのだが、時間厳守する姿勢は真面目な彼のイメージを良い印象へ近づけていた。絵里も待ち合わせの一時間前から到着して、付近をふらふらと散歩しているような人間のため、この二人にとって午前中からの作業なのに昼過ぎからやって来るというのは遅すぎるのではと思案する。ちなみに今日は九時に寮のエントランス集合だったが、ルーカスは八時四十五分、絵里は八時半には居た上に朝からグミを頬張っていた。
 ルーカスの言葉に対し、教授はにこにこしながら「ヤワーシュだよ、ヤワーシュ」と呟いて本も紙も一切ない安全地帯にチャイをコトリと置いた。トルコ人はいつもそう言うな、と思いながら絵里はルーカスに持っていた数冊の本を押し付ける。
 ヤワーシュというのは、「ゆっくり」というような意味で、トルコに来るとよく耳にする言葉だ。日本語への直訳が難しいが、「慌てずに、目の前の事を見つめて生きることと向き合う」といったようなニュアンスを含んでいる。慌てないで、のんびりやっていこうじゃないか。そんな使い方をするらしい。
 「でも、早めに片付けないと次の人が来るんじゃ……
 「まだ夏休みも始まったばかりさ。そんなにすぐ来ないよ」
 だから一、二週間程度で片付けていく予定なのだという。大切な研究書や貴重な史料ばかりであるから、色々発掘した際にどうするかも考える時間も含めると妥当だろう。じゃあゆっくり始めましょうか、と言いながらルーカスはテキパキと本をダンボールに入れていった。全くゆっくりではない上に、その傍らで史料を熟読し始める絵里もいるので、なんだかちぐはぐだなと教授は大いに笑った。
 ウムト教授の専門は聖人たちが残した手紙を読み解くこと。絵里が手にしているものも、聖書に登場するヤコブの手紙やヘブライ人への手紙、ヨハネの手紙などの写しだ。
 その解読はかなり難解で、二人には同一人物が認めたものなのかなんて全く見当がつかない。その為、絵里は持っていた紙を分類でわけた方が良いかと尋ねた。
 「いいや、大丈夫だよ。どうせ誰が書いたのかなんて、厳密にはわからないしねぇ」
 「どういうことでしょう。聖書にはちゃんと誰の手紙って記されてるのに」
 不思議そうな顔をしながらも、マジックで「Manuscript copy」とメモしたダンボールに持っていた紙を入れていった。教授は分厚い本をルーカスに頼みながら、長年の悩みを打ち明けるように教えてくれる。恐らく本当に困っていたんだろうな、と察することが出来るくらいの顔つきだった。
 「本当はヨハネではなくて、ヨハネと同じ思想の誰かが書いたとか、ヨハネ教団の人間が書いたとか。そんな論争が飛び交っててね」
 じゃあ、自分たちが講義で読まされた聖書の手紙はヨハネのものじゃないかもしれないのか、と二人は顔を見合わせた。歴史の教科書は研究が進めば進むほど変わっていくが、世界的ベストセラーである聖書も、章の名前が変わるかもしれないのだろうか。絵里はとりあえず今浮かんだ疑問を教授にぶつけながら、手元にあった紙束をパラパラと確認していく。
 「署名はないんですか」
 「あったら良かったねぇ」
 「筆跡からはわからないんですか」
 「実はこれ、全部他人が書き写したものなんだ」
 なんで自分の名前くらい書いておかないのだろう、と呆れながら眉をひそめた絵里だったが、そういえばたまに書く手紙に自分も名前を書いていないことに気づいてバツの悪そうな顔をした。沈黙したまま十面相のようなことをしてる彼女を、ルーカスが訝しげに見ている。
 名前を書かなければ、誰からの手紙なのかがわからない。当たり前のことだ。誰に宛てたのかはわかるけど、そもそもこの言葉をくれたのは一体どこの誰なのか。名乗らないのは失礼じゃないのだろうか。
 去年の夏を思い出した。みんなで手紙を書いた日のこと。恐らく忘れることはないだろうが、一応今度から気を付けようと思い、手帳に「手紙、署名」とメモする。
 「僕は、たとえ預言者ムハンマド様から教えの手紙を三通送られたらありがたいと思うけど、君らはどうだい?」
 特に絵里は日本人なので、八百万の神を意識する習慣があるのではないかと思ったらしい。その質問に、ルーカスは「僕は貴重なものもらったなぁって思うくらいですね」と呑気に笑って答える。確かにねぇ、とウムト教授も弾むように笑った。
 絵里は本をルーカスに数冊渡した後に紙束を一箇所にまとめ、また遭遇した本をルーカスへ渡す作業を幾度かしてから、紙束をトントンと整えて教授に向き直った。
 「手紙を送り続けて、信仰や思想を綴っていくことは好きにすればいい。でもそれを押し付けるのは、信仰の自由に反していると思うわ」
 そうだね、と言うように教授はゆっくり頷いた。神を信じることのない、むしろ人々を信じているような彼女の言葉の続きを眼差しだけで促した。
 絵里は紙束をダンボールに入れてから少しチャイを飲む。今日は砂糖を入れない気分らしい、とルーカスが出番を待つシュガーポットへ視線を送った。
 「私は、そうやって毒を少しずつ仕込まれていくようなことはされたくない。私の幸せは私が決める」
 神様にだって、自分の自由を奪わせない。
 大袈裟だな、とルーカスは少しだけ笑うが、何故か彼女の目が遠くを見ていたことに気づいて口を噤む。時折、彼女は神の名前や信仰についての研究に触れると、一人で遠くを眺めながら考え込むことがある。
 その視線の先には、やっぱり海があるのだ。
 「そうかぁ。話に聞いていた以上に、強かな子だね」
 にこにこと教授は満足そうに頷いていた。ようやく出番が来た砂糖を少しずつ注いで、マホガニーレッドの液体に溶かしていく。ルーカスもそれに倣って、チャイを甘くしていった。
 「でも、使徒じゃなきゃ一体誰が書いたんですかねぇ。名前も知らない誰かが買いたって、なかなかロマンがありますよね」
 そうだろ、とルーカスが絵里を見るが、彼女はどこか張り詰めたような雰囲気で広がっている史料を読んでいた。集中しているのだろうか、と思ったところで入口の方から和気藹々とした声が聴こえてきたのでそちらの方へ向かう。教授も人数分のチャイを入れようと、自分の机へ向き直った。
 ペリシテ人が崇拝する悪神を伝える手紙のようなもの。ところどころ読みにくくなっているが、それは悪神の恐ろしさとそれ故の信仰心が伝わるような熱狂が隠しきれていない。それどころか、この写真の欄外にアラビア語で殴り書いたようなメモが残っている。先程まで紙類をまとめていた絵里には、これがウムト教授の字だと理解出来た。
 彼女の危険信号が知らせてくる。これ以上、踏み込んではならない。
 知りたい気持ちは山々だが、ここでさっさとダンボールへ詰め込まなければ教授にバレてしまう。ルーカスの「はじめまして!」という声にハッとした彼女は、そこにあった紙を全てまとめて件の紙を一番下に置き、ダンボールへ投げ入れた。
 誰かの熱意が染み込んだ字も、好奇心も、時には毒となる。身に染みて感じた彼女はその日、教授へ話しかけることを避けた。
 青く深い海の色を、見なかった。