人生には区切りというものがある。わかりやすい例えをすれば、入学、卒業、引越し、結婚などといった、ありふれた環境の変化だ。友人との決別や、新しい出会いもそうだろう。
ワタシにとっての大きな区切りは、人生の中で三つあった。今日はその最初の話をしよう。誰にも語らぬ、ワタシが『私』に贈る思い出話を。
誰がために何かをなし得ようとする心構え、というのは、思えばワタシに身につくはずがなかったのだ。
定規とコンパスがあれば書き起こせるものがほとんどの世界で、七角錐はその限りではない。ラップランドでのびのびと育ったワタシは、正にそれだった。
自覚をしたのは大学生の頃だったが、小学校でのワタシはひたすら計算を楽しむ無機質な子供だった。特に理科で習ったことを生活の中で目ざとく見つけると、ソリ遊びを無言で放り出して雪に計算式を綴っていった。顔や手が霜焼けになっても計算を続け、両親がいつも「まだ終わっていない」と駄々をこねるワタシを引きずって帰っていた。
非常に賢い子供だったらしい。それ故に友人はいなかったが、一人でも楽しかったので何も問題はなかった。寡黙で、感情を表に出すのが億劫な質だった。そんな面倒な出力を行って精神を減らすことを、何故みんなが当たり前のようにやっているのか理解出来なかった。まるで計算をするために生まれたロボットのようだった。両親も心配していた、というよりも、不気味に思っていたようだ。
フィンランドでは、子供たちが自分のペースで勉強を進めていくカリキュラムを取っている。そのため、ワタシは同級生たちよりもどんどん先へ進み、いつの間にか五つも年上の人たちと同レベルになっていた。友人もいなかったので、見覚えのある顔の形があまり見えないな、と思うだけ。その時にはもう、ワタシの世界は物理学で出来ていた。
先生はワタシの類まれなる能力を見て、すぐに個別での面談を行った。
「残念ながら、勉強が出来るだけでは、この世界は生きていけないんだ。最初に笑ってみてごらん。ほら、こんなに可愛い」
こうして、感情の出力を先生から学んだ。その中でワタシはバグを抱えていたことがわかり、悲しみと怒りの感情が上手く出せないことが判明した。そもそも、出力するだけの感情エネルギーを持っていなかったのだ。
心が、少し欠けていた。
先生が飛行機事故で亡くなった時も、涙は流れなかった。「息をしていない」「死んだ」という事実だけが、ワタシの人生を作る方程式に当てはめられた。
「先生は死んだ」
解答はこれだけだった。
大学生になり、ワタシの世界は遥かに広がった。講義の内容は興味深く、いつも追い出されるまで実験と計算を続けていた。大教室の黒板を全て埋め尽くすほどの研究をしていたこともある。教授たちはみな、ワタシを奇異の目で見ていたと思う。
そしてワタシは、流れるように大学の教授になった。
無機質な授業をした気がするが、説明はわかり易かったようで、単純にわかりにくい箇所を聞きにくる学生に淡々と教えこめば理解をしてくれた。これがコミュニケーションだとは思っていなかった。何故ならそれは自分の中で完成され、証明された理論であり、世界のルールでもあることだから、それを伝えるだけのことだと考えていた。
ある白夜の日に、とある学生が研究室を訪ねてきた。「教授は好きなものはあるのか」という質問だった。その時のワタシはちょうど、ニュートリノの相互作用に関する研究をしていたため、反応の良い素粒子が好きだと答えた。
しかし、学生の方はそういうことを聞きたかったわけではない。今ならわかる。彼はワタシ自身のことについて知りたかったのだ、と。
残念ながらワタシは先生から教わったにも関わらず、この期に及んで人の心というのを未だに理解していなかった。決められた法則性の中で動くものではなく、相互作用をしていく度にコロコロと変わっていく不確定なもの。それはとても奇妙で、不可解で、無駄なことだと思った。
だからワタシはその時、彼が何を思っていたのかわからなかった。
「そんなことを聞いてどうする?」
「先生と食事に行きたくて」
「何故わざわざワタシと行くのだ」
「先生と話をしたいからです」
「今もしている」
堂々巡りの会話を四分と三十七秒続けた頃、その学生はワタシが異様なことにやっと気づいたようだった。無機質で冷たいことは有名だったし、自分も比較的そうだと感じていたからそれは彼もわかっていただろう。しかし、何故か彼は希望を持っていたようだった。まるでロボットにも人間のように心が芽生えると信じている、少年のように。
「先生は本当に人間なんですか?」
その問いに、ワタシは深く頷いた。
「先生は、どうして、笑わないんですか?」
この子は、ワタシに笑って欲しいのだろうか。何故だろう。何故そんなに、『ワタシ』の笑顔が見たいのだろう。
先生から辛うじて教わっていた笑顔を思い出しながら、試しに笑ってみせた。ぎこちなかったと思うが、生憎その時に鏡は持っていなかったし、持ち歩いてもいなかった。
「必要と感じたら、笑う」
彼は少しだけ息をのみ、そして何故か満面の笑みを浮かべた。
なんだ、素敵じゃないですか。そう言って立ち去って行った。
ワタシには何故、彼がワタシの笑顔を見てあんなに嬉しそうに笑ったのかがわからなかった。
わからなかったけれど、今なら、理解出来る。
常識は時代と共に変化し、定説さえも覆され、世界の法則は日々疑問視され、仮説が立てられていく。あの時、ワタシの世界の常識は変わったのだ。
笑顔という感情の出力は、物事をあらゆるプラスの方向へ導くきっかけとなる。
「せんせいは、なんでいつも笑っているんですか」
傍らの少女がチョコレートを右頬に付けながら、今日で八つ目の疑問を投げかけてきた。大陸を横断する列車に揺られながら、向かいの少年も気になっている様子で外の景色とワタシを交互に見ていた。先程スタッフからもらったタオルで少女の口元を拭いてやりながら、簡単なことだよ、と返す。
「笑顔は感染するからさ」
Q.E.D.
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