桐子
2024-06-30 23:36:25
3004文字
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地獄の底で待っている④(父水♀)


休み明け、出社した水木は、社員たちに囲まれている婚約者の姿を見て唖然とした。
「どうしたんだ、それ」
彼は腕を三角巾で吊って、首にも包帯を巻いていた。見るからに大怪我をしている。
「あ、おはようございます」
「おい、大丈夫なのか?」
「はい。ちょっと転んじゃって」
婚約者は照れくさそうに笑ったが、明らかに無理をしているのが分かった。
「大袈裟だからこんな包帯巻くのやめてくれって言ったんですけど」
周りで心配そうな顔をしている同僚たちを安心させるように、ぶんぶん腕を回してみせる。笑って誤魔化そうとする婚約者が心配で、水木は社内チャットでありもしない打ち合わせをでっち上げると、彼を会議室へ呼び出した。
「どうしたんだよ!」
ドアを閉めるなり怒鳴ると、彼は困ったような笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。ドジ踏んじゃって……結婚式までには治すから」
「そういう問題じゃねぇだろ。何があったんだよ」
水木が語気を強めると、婚約者は困り果てた表情を浮かべた。
「えっと……それは……
背の高い男に詰め寄ると、彼はもごもご口ごもりながら事情を話し始めた。
「実は……昨日、家に帰る途中で誰かに追いかけられてるような気がしてさ。焦って道路に飛び出したら、車にぶつかっちゃって」
思った以上に大変な話だ。水木は青ざめた。それでよく、その程度の怪我ですんだものだ。下手したら命を落としていたかもしれない。水木が青ざめ、黙り込んでしまったのを見て、婚約者は必死に言い募る。
「あの、ほんとに大したことないんだって。警察もすぐ来てくれたし」
「それで、追いかけてきた奴は捕まったのか?」
「それが……
言い淀む婚約者の様子を見て、水木はいぶかしげに眉を寄せた。

「誰もいなかったんだ。監視カメラに映像が残ってたんだけど……走る僕だけが映ってたんだって」

心臓がひやりと冷たくなった。
……他に何か、気付いたことはなかったか?」
「えっ……ええと、そうだな。何か音が聞こえて、それで追いかけられてると思ったんだ。こう、カラッ、コロッ……っていう感じの」

カラン。コロン。

水木もその音をよく知っている。高下駄の音だ。彼らは下駄を好んではいている。姿を消すこともできる。不安げに見つめてくる婚約者の目を見返し、水木はぎゅっと拳を握った。
「絶対に一人になるな。会社も、しばらく実家から通うんだ」
「えっ、どうして」
「いいから!  頼むから!」
水木は真剣に頼み込んだ。彼の身に危険が迫っている。婚約者は困惑しながらも、水木の剣幕に押されるようにこくりと首を縦に振った。
「わ、分かりました。なるべくそうします」
「すまないが、俺はちょっと出てくる。お前も絶対明るいうちに帰るんだぞ」
念を押して、水木は会社を出た。
電車に乗り、もどかしい思いで目的地へ向かう。あの夜、彼が送ってくれた道を逆に辿るようにして足早に歩いた。ようやく神社が見えてきて緊張が高まった。境内に入った水木は、ゲゲゲの森へ繋がっている裏手の森へ向かった。
「水木さん」
運のいいことに、烏と話していたらしい鬼太郎が立っていた。
「鬼太郎、ゲゲ郎はいるか」
「父さんなら家にいますけど」
「すぐに会いたいんだ」
水木の剣幕に驚いた顔をした鬼太郎だったが、すぐに腕に止まっていた烏に何事か伝えた。
「僕は今から依頼人に会いに行くので、この子に案内を頼みました」
「すまない」
水木はそう言いながら、じっと鬼太郎の顔を見た。もしかしたらこの子も何か知っているかもしれない、と勘繰ったのだ。だが、鬼太郎はただ不思議そうにしているだけだった。
……どうかしましたか」
「いや、なんでもない」
水木は首を横に振った。鬼太郎は無関係だろう。そもそも、鬼太郎は理由もなく人を傷つけるようなことはしない。優しすぎるくらい優しい子なのだ。
烏は一声鳴くと、森の奥へと飛んでいく。水木はその後をついていった。不気味に生い茂った木々の間を抜けると、開けた場所に出た。明るい平地の中心には澄んだ池があり、中心の島に生えた巨大な木の上に家が建っている。烏は橋の手前にあるポストに止まり、カァ、と一声鳴いた。
あそこが鬼太郎たちの住む家なのだろう。
水木は拳を握りしめ、そろそろと橋の上を歩いた。

「ゲゲ郎、いるか」

家の前で声をかける。中は戸を閉め切っているのか薄暗く、わずかに部屋の中が覗けるだけだ。しばらくして、「ああ」という返事があった。
「俺だ。水木だ」
「おお、水木か。どうしたのじゃ」
家の奥で人の動く気配がする。やがてゆっくりと、白髪の男が現れた。彼はいつものように穏やかな笑みを浮かべていたが、水木の顔を見て表情を変えた。
「どうしたのじゃ、水木。そんな怖い顔をして」
不思議そうに首を傾げるゲゲ郎に向かって、水木は真剣な口調で言った。
「ゲゲ郎、聞きたいことがある。お前、昨日どこで何をしていた?」
「昨日? さて、どうじゃったかのう」
「とぼけるな!」
水木は着物の襟首を掴んで揺さぶった。そんなことをしても、幽霊族と人間の腕力の差は歴然だ。そして今は男女の性差まである。だがゲゲ郎は、水木にされるがままになっている。
「どうしてあいつを襲ったりした!」
水木が怒鳴ると、ゲゲ郎はすっと目を細めた。
……なるほど、水木はわしがその男に何かしたと思っておるのじゃな」
「違うって言うのか」
「悲しいのう。相棒を疑うとは」
ゲゲ郎はしょんぼりした顔をして、よよよと泣き真似をした。その態度があまりにもいつも通りの、水木の知ってる“ゲゲ郎”だったので、迷いが生まれてしまった。もしかすると婚約者を襲ったのは、ゲゲ郎ではなかったのかもしれない。
――――そんな一縷の望みは、すぐに打ち砕かれてしまったが。
「ひどい奴じゃ。わしは水木のためを思ってやったのに」
……どういうことだ」
「水木がその男と別れてくれれば、わしにもチャンスがあるかもしれんと……
「ふざけるな!」
水木はおどけた態度を取る男を怒鳴りつけた。ゲゲ郎はびっくりしたようにぱちぱちと瞬きをしたが、すぐに小さく吹き出した。

「くく、今のは冗談じゃ。――――本当は殺すつもりで追いかけておったのに、先に車にぶつかりおって。運のいい男じゃ」

笑った顔のまま、ゲゲ郎は自分の胸元を掴んでいる水木の手を取り、ぐいと引っ張った。よろけたところを抱きしめられる。驚いて硬直している間に腰を引き寄せられ、身動きが取れなくなる。
「なに、すんだ……ッ!」
身を捩ってもがくと、さらに強く抱き締められた。背中に回った手に、服越しでも分かるほどの力が込められていた。
「のう、水木や……あの男にはもう抱かれたのか?」
耳元で囁かれた言葉に、カッと頭に血が上った。
「なんの話だ! はなせ!!」
「そうか、まだか。それはよかった」
ゲゲ郎は嬉しそうに笑うと、水木を抱き上げた。暴れたが相手はびくともしない。そのまま布団の上に降ろされ、上に覆い被さられてしまった。

「愛しておるよ、水木。お主の初めての男になれるとは光栄じゃ」

どろりと甘い蜜のような声に、背筋がぞくりと震えた。薄暗い部屋の中、赤い目が爛々と輝いている。この男は人間ではないのだと――――水木は初めて思い知らされた気がした。