ゆい
2024-06-30 21:09:57
3780文字
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【宗みか】おばけになってもそばにいて

ピロートークをする二人。

息継ぎのように妙に鮮やかな目覚めだった。
予備動作無く開いた瞼が慣れない異国の空気に触れて、数度羽のように戦慄く。いつもより高い天井が視界いっぱいに広がり、僅かな明かりの影が波を真似て白と黒に揺れている。カーテンから漏れ零れる光にしては朧が過ぎるから、これは蚤の市で一目惚れしたと昨日話していた、年代物のランプの明るさだろう。油を継ぎ足さないと朝まで灯りが保たないと笑った声を、意識を手放す直前に聞いた覚えがある。掠れながら湿ったそれを思い出して、毛布からはみ出していた剝き出しの肩が少し粟立つ。毛の短い肌触り重視のおれ用の毛布は確か序盤で床に蹴落とした筈だから、わざわざ拾って掛け直してくれたらしい。すっかり汗の引いた素肌に二人分の体温を吸って冷えたシーツはやけに粗く擦れて、呼吸の度にお腹の奥がひりついた。どれくらい意識を手放していたのだろう、散々はしゃぎ尽くした疲れとはまた少し違う気怠さが、指先や背骨の辺りに篭っている。シャワーも浴びず寝返りも打たずに溶けた罰が当たったんや。軋む身体で数時間前の自分を恨めば、ふと傍らで涼やかな衣擦れの音がした。

「もう起きたの。何か飲むかい」

揺れも滲みもまるで見当たらない何時も通りの声。それが同じ高さのすぐ隣ではなく顔の横から降って来たから、鈍い痛みは無視して首を動かした。確かキッチンにあった椅子がいつの間にかセミダブルのベッドに寄り添うように置かれ、そこに乱れる前と殆ど同じ顔と服装のお師さんが座っている。淡く古めかしい光源は簡素なベッドサイドに鎮座して今も煌々と燃え、見上げるお師さんの輪郭を優しいオレンジ色がなぞる。疲れなんてちっとも見えない背中がぴしりと伸び、白いシルクの寝巻と相まってまるで椿の木のようだ。一糸纏わぬおれを見下ろす気遣いに満ちた瞳が、数時間前まで手も付けられないくらい欲に眩んでいたなんて信じられない。行儀良く揃った膝の上には、ハンドタオルくらいの大きさまで進んだレース編みまで乗っている。かぎ編み針を操るためにあるとでも言わんばかりに澄ました指先が、ランプのそばでこちらを揶揄うように光る。本当は、泣いても拒んでもおれを真下に組み敷いて揺らし続けたしつこくて意地悪な指のくせに。

「何だい、おやつを抜かれた子犬のような顔をしているよ」
お師さんは、いつ起きたの」
「一時間程前かな。シャワーを浴びて着替えをしたら目が冴えてしまってね。今は君の寝顔を眺めつつ、手遊びに勤しんでいたところだよ」
「お洒落に言ってもセクハラやからな」

けろりと言い放つ気安さを咎めたいのに、語尾までたっぷり息絶え絶えなせいで少しの傷も残せない。久しぶりの再会で今日からお互いに数日オフだからって、おれだけいいようにされ過ぎだ。二人で汗ばんで溶け落ちたのに、一人黙って内も外も身奇麗に抜け駆けなんて恨めしい。何を告げても余裕綽々で慈愛を見せつけるような微笑みにも見当違いな腹が立って、これ以上表情を盗まれないように毛布を目の下まで引き上げた。途端に全身の不具合が安静を叫んだけれど、今は聞こえないフリをしておいた。おれの決死の反抗にもお師さんは穏やかに頬を緩めるばかりで、ちっとも怒りに気付いてくれない。

「先程は悪かったね。君があんまり可愛いものだから、上手く加減が出来なかった」
「真夜中やからって、格式かなぐり捨ててもええんか」
「僕はいつだって志高く生きているつもりだよ。まぁ、時々なら君限定で気が抜けることもあるけれど」

花も恥らう気障を焚き付けて、おれの夜が奇麗な背筋のまま立ち上がる。さっき不敬なくらい乱した筈の桃色の髪の毛が、今はもう艷やかに作り込まれた通りに揺れる。作りかけの世界もお気に入りの灯も未練無く脇に寄せ、星を映したみたいな目をしたお師さんはそのまま音も無くおれの枕元へ。目元だけで出来る限りの威嚇を続けるおれへ、全能の指は何の迷いも見せずに触れる。晒されたままの黒髪を解く手と甘ったるく細められた瞳に毛布を掴む手が分かりやすく怯んだけれど、まだもう少し許してやらない。

「まだ身体がきついようなら無理せず休みたまえ。明日は特別、目覚めた時間に朝ごはんを作ってあげよう」
「随分と甘やかしてくるやん。何や疚しいことある?」
「失礼な。君だけやけにバテているから心配しているのだよ」
どっかの体力おばけのせいやし」

いよいよ深みに嵌りそうな声色に眩みつつ、せめてこれだけはと呟けば、すぐそこで見下ろしていた紫が不意を突かれて丸くなる。おれ、何か間違ったことでも言っただろうか。ビー玉よろしく凍った瞳とぽかんと開いた口に思わず空いた胸が苦しくなる。だけど、取り繕うにも本心過ぎて今更手の施しようがない。勝手に狼狽え始めた肌にじわりと汗が滲み直して、舌の先までついでとばかりに痛み出す始末だ。だけど、ちょっとたんま、なんて今夜散々紡いだ台詞を心機一転吐く寸前、耐え切れずとでも言うように鈴の音のような笑い声が鳴る。

「おばけって、生まれて初めて言われたよ。しかも、体力?鬼龍や三毛縞ならともかく、僕に使う言葉かね」
おれの知っとるおばけは、お師さんだけやもん」
「光栄なんだか無礼なんだか決められないな」

何度も吹き出し転げつつ空回る言葉が鼻先の空気を明るく染めていく。雰囲気に気圧されて恐る恐るの返しにもとうとう大きく笑い出し、お師さんはおれの髪をくしゃりを乱暴に混ぜ返す。ご機嫌なのは良かったけれど、あんまりみだりに頭を揺らさないで欲しい。色々と思い出して疚しいし、とにかく普通に目が回る。暫く出方を伺ってみても、笑い声と眩暈は一向に収まる様子がない。仕方なく散らすばかりの右手へおれも同じ手を重ねてそれとなく止めに入れば、何を思ったか更に左手までおれの上へ乗ってくる。つまり、為す術無く挟まれたおれの手がぎょっと戸惑う前に、するりと手の甲より五本の指が絡んできて、たちまち一つの熱になる。何事かと見上げるおれへやっと笑い済んだらしい唇が、少しだけ粗暴なカーブを描いた。

「君は本当に僕の想像を軽々と超えていくね」
「それって褒めとる?もしかして貶しとる?」
「愛してるってことだよ」

何も躊躇う暇もなく答えを示されて、繋いだ指に自然と力が篭る。二の句に詰まるおれへお師さんはまた一つ笑うと、がら空きの額へ触れるだけのキスをする。唇は?なんてとっさに聞きたがる舌をこっそり噛んで、きっとこちらの思惑などすっかりお見通しの瞳を見た。ビー玉の中に閉じ込められたおれは、泣き出す寸前のような笑い転げる間際のようなとぼけた顔をしている。何時まで経っても乱され慣れない情緒が、自分のことながら少し可笑しい。
 
まだ立てないけど。おれもシャワー浴びてすっきりしてから二度寝したい」
「それは僕にこれ以上甘やかして欲しいってこと?」
「別に独り言でもええんやけど。もう疲れたからお師さんが決めてや」
「こういうときの君は意外と捨て鉢だよねぇ」

吐息を悪戯に混ぜ合わせながら、駆け引きにもならない言葉が夜を往く。甘く呆れたように溜め息混じりの語尾は震えて、伏せ損ねた睫毛がつられて揺れた。余韻をしっかり味わう前にするりと離れた手と気配は、次の瞬間いとも容易くおれを毛布ごと抱き上げる。お姫様抱っこや。脳が下らない感想を弾き出すより早く、おれの腕はぐるりと目の前の首へ縋っていた。隙間など許さない肌が毛布も押し退けて待ち侘びた熱に溶けようとするのを必死で堪える。流石にはしたないかなとは思うけど、目の前にとびきりの御馳走を用意されて待てる犬が居ないように、これはおれにとって既に本能だ。
まだ怠い手で力いっぱいしがみつくおれを勿論落とすこともなく、おれよりずっと逞しい腕が悠々と背中や大腿部へと回る。首筋に埋もれるように隠れた耳を目敏く探し当てて意味ありげに含み笑うのは、このひとの悪い癖だ。

「僕が責任持って全身隈無く洗ってあげよう。爪先まで磨いた後は、ホットミルクでも飲もうか。蜂蜜は入れる?少しだけブランデーを垂らしてあげようか?」
「そんな一気に甘さかされたらパンクするわ。至れり尽くせりで、ちょっと怖い」
「知らなかったの?おばけとは怖いものなのだよ」

意気揚々と歯噛むおれの揚げ足を取って、お師さんはさっさと歩きだす。お師さんの言う「責任」は重すぎて、果たし終わる頃にはきっと朝になっていることだろう。好きにして、と投げたのは確かにおれだけど、結果を見れば結局自分ばっかりの勝手なおひと。それに降り回されるのがおれの本望だとは言っても、せめて二度寝はさせて欲しい。軽快な鼻歌を耳の先で聞きながら、少し重くなってきた目蓋を素直に落とす。寝ても覚めてもどうせお師さんなら最後は仕方がないねって笑ってくれる。これは甘えでも驕りでもなくてただの事実。おれが唯一持っているありきたりな日常の答えだ。

「おばけは一緒に二度寝してくれる?」
「君が望むならいくらでも。悪夢だって食べてあげる」

お互い顔は見えずとも声だけで笑みを分かち合えば、重なる熱は手に取るように増してていく。夜はこれからだとでも言うように、どこかで炎が爆ぜる音がした。