澪標を立てて舟をこぐ(粉砕鬼水5)

粉砕する👹💧が連れ合いになるまでの馴れ初めです。ほどほどにしんどいです。

 齢四十四にして水木は寿命という概念を失った。墓場で拾った子供が独り立ちをした後のことである。

 黄昏時の帰り道、水木は知らぬ何かと出会った。地面からぬっと現れたそれは、琥珀色の鱗を持つ蛇に似たものだったと思う。水木は驚きのあまり、それを凝視して相手に知覚されてしまった。怪しいのなら知らぬ振りをしろと目玉と鬼太郎に言われていたのに情けないことこの上ない。
 水木の懐にはお守りが入っていた。赤子の頃から育てた養い子が家を出る時に置いて行ったものだ。妖怪がらみで何かあればこれを握って名前を呼んで欲しい。必ず自分に届くからと言って水木に握らせてくれた。
 種族も違う、寿命も違う、理も違う身でありながら、鬼太郎は水木を父にしてくれた。水木はお守りを肌身離さず身につけていた。離れて暮らしていても、寂しい一人住まいに帰っても自分は誰かを愛することが出来たのだと、その証のように思えて離しがたい。
 蛇体がこちらを見つめている。水木はスーツの内ポケットに入れていたお守りにそっと手を伸ばす。

「……生まれしも帰らぬものを、」
 蛇体がぼそぼそと何か言った。得体のしれぬ何かは言葉をしゃべるのだ。言葉が通じるのなら、どうにか切り抜けられないか。水木はお守りを握りしめ、
「その……見逃してはくれないか、」
 琥珀色に向かって声を発した。鬼太郎を呼ぶことはできなかった。それが父親の矜持だったのか遠慮だったのか、慈しみだったのか振り返っても分からない。空気を震わせた音を打ち消すことは出来ず、蛇体がふるりと身をうねらせた。
「……応えなく、消えなましものを」
 古い言葉だったためとっさに意味が分からなかった。ただ、蛇が鎌首を持ち上げてこちらに近づいてきたことで、自分はしくじったのだと分かった。一歩後ろに下がったところで逃げ切ることなどできない。
「っ!」
 口を開けた蛇に腹を噛まれた、気がした。水木の身体に痛みはなく、血も流れない。しかし、確実に何かが食われた感覚がした。水木がふらついて座り込むと、蛇体がうねって、空へと跳ね上がる。水中を泳ぐ蛇のようにそれは天へと昇っていった。



 いい年の大人が路地に座り込んだまま、ただ呆けていた。夕日がするすると西の空に引っ込んで宵闇が伸びてくる。この道には街灯という便利なものは普及していないので、さっさと立ち上がって家に帰らねばならない。水木が蛇に食われた腹を撫でる。何かを失った身体が喪失に呆然とし動くことを拒否している。

「水木さん!」
 懐かしい声に水木がゆっくりと顔を動かす。忙しない下駄の音と必死な養い子の顔。その子の頭上には目玉が乗って水木に向かってくる。
「水木さん! 大丈夫ですか。こちらから強い妖気を感じてきてみたら、あなたがいるから」
「きたろう……」
 どうにか声を絞り出したが、足は言うことを聞かなかった。鬼太郎は水木の前で片膝を付いてしゃがみ、目玉が飛び降りて足元にかけよった。
「水木……お主、まさか妖気の持ち主に会ったのか」
 目玉の深刻な声音から、自分が会った者が途方もないと理解出来た。
「丁度、地面から現れてばっちり目が合っちまった。多分何かを……取られた」
 水木の言葉に鬼太郎がぎゅっと拳を握るのが見えた。目玉も水木の膝小僧に手を当てて、ああと声をこぼす。
「水木さん、帰りましょう。立てますか」
「……ちょっと待ってくれ」
 鬼太郎の手を握るとようやく身体が言うことを聞くようになった。息子の前で転ぶ無様を晒さぬようにゆっくりと立ち上がる。
「あまり無理はするな」
 立ち上がる前に鬼太郎の肩に乗った目玉が水木を気遣しげに見ている。大丈夫だ、と言いたいところだが、水木には二人を安心させる手札が一枚もなかった。



 鬼太郎に手を引かれて水木はどうにか自宅まで帰った。ふらつく水木を鬼太郎は丁寧に支えてくれたし、家に戻ったら座布団に座らせてコップに水まで注いでくれた。
 目玉が水木の周囲を歩き回って、肩に乗って、頭上で髪の毛をひっぱってからちゃぶ台に降りてくる。
「蛇のようなものに腹を喰われたと言うたな」
「ああ」
 目玉が水木を見上げて言った。
「お主が食われたものは寿命じゃ」
「寿命? じゃあ、すぐにでも死ぬのか」
 水木は何かを失った腹の辺りを右手で触る。目玉は左右に首を振って呆れた顔をしている。
「そうではない。逆じゃ。寿命という概念を根こそぎ食われたため、身体の時が止まっておる。不老ということじゃ……死の概念は残っておる。酷い怪我をすれば死ぬが、魂がこの有様では……ううむ」
 目玉が言い渋っているが、水木にはよく分からない分野の話だ。鬼太郎は馴染みがあるようで、父の言葉を体を丸めて激しい風雨のように耐えている。
 多分水木の身体も魂も状況が悪いのだろう。

「どうして、」
 鬼太郎が言葉を発した。今にも身体が引きちぎれて悲しみがあふれ出しそうな声だ。
「どうして、僕を呼んでくれなかったんですか。何かあった時のために渡したお守りをどうして使ってくれなかったんですか」
「それは……」
 水木が言い淀む。こちらを見上げる鬼太郎の目があまりにも真摯で切実で、たじろいでしまう。この子を適当にあしらうようなことだけは出来ない。水木はうめき声を飲み込んで、真実を口にした。
「お前に迷惑を掛けたくなかったんだよ。妖怪ポストを始めて人と妖怪の仲立ちで忙しいのに、俺のことまで気を回させるのは気が引けて」
「……それは、僕があなたの息子だからですか」
「それもある。お前はとっくに独り立ちしたんだ。親が子供に手間をかけさせるもんじゃないだろ」
 鬼太郎が目を見開いて小さく声を漏らした。零れた音が悲しみで満たされていて、水木は自分の言葉と考えが鬼太郎をひどく傷つけたのだと気が付いた。水木が鬼太郎に何か言葉をかけるより先に、子供は目を伏せてしまう。

「分かり、ました……なら、僕はもう」
 鬼太郎はそれ以上言葉を紡ぐことはせず、唇を噛みしめた。水木の手のひらに納まる小さな拳がぶるぶると震えている。
「父さん、僕は先に帰ります」
 鬼太郎が立ち上がり水木に背を向ける。
「水木のことは任せておけ」
「はい」
 鬼太郎、と呼びかけることは出来なかった。水木の不注意が、いらぬ親心がこの子をひどく傷つけた。小さな背中に墓標みたいな苦悶を背負わせた以上、出て行く背中を追いかけることは出来ない。遠ざかる下駄の音を鬼太郎が用意してくれたコップを抱えたまま、じっと聞いていた。



 振り子時計の音だけがする室内で、水木と目玉は長いこと黙っていた。コップの水をちびちび飲んで、空にしてからようやく口を開く。
「なあ、目玉。俺はあの子に酷いことをしたんだな。妖怪のことは鬼太郎の領分なのに、あの子を巻き込むまいと……下手な親心から、一人でなんとかしようと足掻いて寿命を失って」
「寿命だけではないぞ。魂が変質しておる。このまま死ねば魂が損なわれてしまう」
「損なわれると障りがあるのか?」
 水木は人魂を見たことはある。しかし、死んだらそれまでと考えて生きてきた身だ。目玉のいう魂についてまったくの門外漢だ。

「水木と言う人間が今生かぎりだとしても、命が失われたのちに魂が霊界へと旅立つ。そして、新しい命を伴って再び現世にやってくる。その巡りを眺めることは、幽霊族にとってわずかな時間を過ごした相手を想う慰めになる。しかし、魂が損なわれてしまったら、二度と巡ることはない。正真正銘水木と言う人間は、この世からもあの世からも消え去ってしまう。例えるなら、お主が骨もなく墓もなく塵芥すら残らず消えてしまうようなもの。どれほど辛いことか……」
 水木はちらりと仏壇を見た。母の遺骨は墓に納め、位牌は仏壇に置いてある。もしも、母がこと切れた瞬間、体がきれいさっぱり消えてしまったら……水木は二の腕をさすって身震いする。

「不老になっても人の精神は何百年も生きられるように出来ておらん。他の人間と違う時間を過ごす内に心を患うのじゃ」
「見て来たような言い方だな」
 目玉は首を少し横に傾けて苦笑いした。
「……見たことがあるんじゃよ。人魚の肉を食った人間は二百年ほどで狂った。お主が狂えば楽にしてやるほかない。その結果、魂が消えて二度と廻らないと分かっていてもじゃ。耐えがたい苦痛と罪悪感が伴うとしても、やりきる覚悟が鬼太郎にはあるぞ」
 鬼太郎の手を煩わせたくはない。仮に水木が自死を選んでも、鬼太郎を傷つけることに変わりはない。
「ようやく実感がわいてきた。死ななくても狂うか、死んで全部消え失せるか。つまり俺は途方もないどん詰まりにいる訳だ。奪われた寿命を取り戻すことはできるのか」
「相手次第じゃ。水木の寿命を奪った相手が誰なのか探さねばならんし、返してくれと言って応じるかもわからん。老いぬ身のままでは、いつまでも人に混じって暮らせぬだろう。どうじゃ、ゲゲゲの森に引っ越さぬか」
 目玉の言う通り、見た目の変わらない姿では周囲に怪しまれるだろう。加えて人目に付く目と耳の傷がある。今は戦争で負ったと説明すれば納得して貰えるが、三十年後に同じ言葉は通用しない。水木は頭の中でそろばんを弾きだす。

「確かにごまかせても十年くらいのものだろうな。しかし、森で暮らすのはさすがに……」
「水木、過ぎた遠慮は相手を傷つけるぞ」
 目玉の言葉に棘がある。この男も水木のしでかしたことで深く傷ついたのだ。
「耳に痛い。遠慮は抜きにしても鬼太郎がな……謝罪もなしに引っ越しするほど俺は図太くない。それに、見た目と歳に差が出る前に色々片付けておきたいこともある」
 水木の頭の中ではやるべきことが猛然と書き出されている。
「分かった。時折様子を見に来るからの。引っ越しの準備が出来たらカラスに文を渡すでも、妖怪ポストに入れるでも良い」
「世話をかけるな」
「なんのこれしき。儂らがお主から受けた恩に比べれば大したことではない」
 目玉は水木に近寄ると、コップを持つ手を慰めるように叩いた。
「そうだな、過ぎたことを悔やんでも仕方がないな」
 水木は人差し指で目玉の肩を軽くさすった。後悔も困惑もやまほどあるが、それで立ち止まるほど神経が細くできていないのだ。まずは鬼太郎に謝罪の手紙を出そう。水木は養い子の張り詰めた声を思い出し、そっと目を伏せた。



 水木がねずみ男を喫茶店に誘うと、彼はアイスコーヒーを一気飲みしてすかさず二杯目を頼んだ。残暑の熱と日差しから逃れるように、水木もネクタイを緩めて汗ばむ首元に風を送る。駅に業務用エアコンが設置されるようになったが、個人経営の店は扇風機が現役だ。
「ハア……生き返る。それで、この間頼まれた就職先の斡旋ね。戸籍なし保証人なし、疚しい身の上を見て見ぬ振りをしてくれる職場……ま、いくつかあるぜ。そもそも妖怪は人間の戸籍も出自も気にしねえ奴が多い。とりあえず人間を雇いたい奴で電話番号持っているのだけ選んでおいた」
 ねずみ男が三つほど電話番号の書かれた紙を差し出した。
「助かるよ。必ず礼はするから」
 水木が年を取らなくなってから七年が経った。そろそろ退職しないと、仕事仲間から怪しまれる。
「そりゃどうも。しかし、兄さんがこっち側にはみ出してくるとは意外だね。今の勤め先だって悪いところじゃないだろうに」
 何かあったのか、と言外に匂わせるねずみ男。水木は苦笑いして伝票を引き寄せる。

「俺にも事情があるのさ」
 水木は奢ることでねずみ男の追及を躱す。今はまだ詳細を教える訳にいかないし、調子の良い小悪党を気取る男を巻き込みたくなかった。
「俺はやっかい事は嫌いだから、これ以上聞かないが……どうにもゲゲゲの森の住み心地が悪いんだ」
 ねずみ男がストローで氷をかき混ぜる。涼やかな音と窓から残暑の日差しが交差する。
 水木が鬼太郎に謝罪の手紙を送ってから七年。水木は鬼太郎に会っていない。目玉は時々顔を出すし、鬼太郎からカラスを介して手紙は届く。水木の謝罪については一度も触れることはなく、妖怪ポストの顛末であるとか日々の暮らしについて綴ってあった。そして最後には水木の寿命を奪ったものを探しているが手掛かりはない、と締めてある。
「そりゃ、センセイの日頃の行いじゃないのか」
 水木がからかい交じりの声で返すと、ねずみ男がわざとらしく足を組んだ。
「心当たりは山ほどある。しかし、鬼太郎があれほど切羽詰まった様子なのは俺のせいじゃない。なあ、兄さん。あんた、鬼太郎に何をした」
 水木はアイスコーヒーを引き寄せる。汗をかいたグラスに触れると結露がするすると下に流れていく。とめどなく流れる涙のように見えて、水木は自分の犯した罪を嫌でも自覚する。

「……黙秘という訳にはいかないな」
「俺は鬼太郎に目を付けられたくないんだよ。兄さんに俺が会社を紹介したと知られて締め上げられるなんてことは避けたい」
「平たく言うと、七年ほど前に俺があの子をひどく傷つけた。それ以来手紙のやり取りはしているが顔を会わせていない」
「……はあ!? 七年も! ちょっと待ってくれよ。そりゃあいつが……ああクソ!」
 ねずみ男は足を揺らして、視線をあちこちにやる。首元をガシガシ掻いて立ち上がった。
「この件は鬼太郎にちゃんと報告してくれよ! 俺が兄さんにどうしてもと頼まれた。きっちり伝えておいてくれ!」
「分かった、分かったから」
 水木が両手を顔の横に上げて降参のポーズをする。ねずみ男は頼むよォと情けない声とせかせかした足音を残して出て行った。手元のメモを眺めて水木はストローに口をつける。貰ったメモには食品卸に不動産、日用品販売の会社が記されている。

「妖怪も手広くやってるもんだな」
 高度経済成長期に合わせて町並みは目まぐるしく変わっていく。東京タワーが生えたと思ったら新幹線が通り、日本橋の上に高速道路が出来た。二年前に為替相場は完全変動制に移行し、一ドル三六〇円という常識はあっという間に変わった。妖怪も時流の変化に合わせて人間への関り方を変えるのだろう。
 水木は時折訪ねてくる目玉に鬼太郎の様子を聞いてはいる。妖怪ポストの依頼をこなし、人と妖怪の争いごとを仲裁しようと頑張っている。勿論、水木の寿命を奪った何者かについても依頼先で聞き回っているというから八面六臂の活躍だろう。一方の水木と言えば外見と実年齢の乖離に備えて身の回りの整理をする程度だ。寿命を奪ったものを追うにも伝手がないし、怪しまれないよう暮らすので手一杯だ。
「自分に出来ることをするしかないよな……」
 謝罪を受け入れるかは鬼太郎が決めることだ。水木がゲゲゲの森に入り込んで、どうなんだと問い詰める権利はない。水木はアイスコーヒーを飲み干して伝票を掴んだ。この暑さは夕暮れまで続くだろう。今日は寝苦しくなりそうだ。



「それでは、こちらの物件は弊社で預かりますので」
 水木がニコリと笑ってファイルを鞄にしまう。応接テーブルの向こうに座る打川はほっと息を吐いて手を差し出した。
「癖がある物件はウチでは扱いあぐねていまして……水木さんのおかげで、本当に助かります」
 水木は打川と握手を交わす。ちらりと時計を確認すると三時を過ぎている。外回りはここで最後のため、会社に戻ってファイルの整理が出来そうだ。
「弊社、猫野不動産はユニークな物件が好きな方を専門にしていますから。仲介手数料は所定通りに」
 ユニークと言えば聞こえはいいが、要は事故物件である。心霊現象、殺人、墓場が近いなど立地条件の悪さ。そう言った借り手の少ない物件を他の不動産会社から引き取る。人間には人気がない事故物件は妖怪にとって魅力的だ。特に墓場近くはじめじめした陰気が心地よいらしい。

「また二ヶ月後にお伺いします」
「はい、よろしくお願いします」
 水木は軽く礼をして打川不動産を出た。ここから三鷹の事務所まで乗り換えなしで帰れる。商店街に吹き込む風が少し肌寒くなってきた。押入れからどてらを出して干さねばならない、と考えながら水木は駅に向かった。



 猫野不動産は三鷹の古びたビルの二階にある。隣は戦前に建てられた集合住宅で、路地はじめじめとしてせまっ苦しい。申し訳程度の看板しか出していないが、妖怪は口コミでやってくるので派手な広告は必要ない。
「ただいま戻りました」
 ドアを開けると社長の猫又が水木に肉球を見せる。
「おう、おかえりぃ。打川不動産はどうだった」
「墓場近くのアパートを二件、一階層まるごと心霊現象のビルが一件。ビルの方は拾いものですよ」
 猫又はきゅっと目を細めて髭を機嫌よく動かした。
「ワンフロアはデカいなあ! 水木さんが入社してくれてから物件の集まりが早くて助かるわ。人間相手の交渉は人間にして貰うのが一番」
「そう言ってもらえると嬉しいですね。とは言え、いつまでも僕一人で回る訳にもいかない。豆さんは物件案内ですか?」
「客の白児と二件ほど回っとる。しかし銭が欲しい妖怪はいても、働きたくない奴が多すぎる。ねずみ男は勉強熱心だが、あくどい商売しか手を出さんし。どいつもこいつも楽して稼ぎたいなんて……それができたら苦労せん!」
「社長は熱心な方ですよね……猫又なのに」
 水木が背広を脱いでハンガーにかけた。

事務所の中は社長の机が一つ。向かい合った事務机が二つ。申し訳程度の応接セット。社長一人、社員二人のこじんまりとした事務所だ。
 猫野不動産は、物件集め担当の水木と妖怪顧客担当の豆狸。どちらかが忙しければ猫又が助っ人にはいる。給金は歩合制だが、水木が前に勤めていた会社と大して額は変わらない。
「俺は都会の野良育ち。縁側でゴロゴロしていればいい猫と生まれが違う。飯を食うのも命がけでセカセカしてたからな。水木さんの他に人間を雇ってもいいけど、妖怪が苦手な奴が多すぎる。妖怪は人間相手の交渉が下手……彼方立てれば此方が立たぬ。悩ましいなあ」
「社長の手腕に期待してますよ。豪徳寺で招き猫でも買って来ましょうか。あそこの猫は人を招くらしいですから」
「ホント、水木さんは口がよう回るなあ……これからも期待してるからな! あ、これ隣のおばちゃんに貰った差し入れの玉ねぎ。俺は食べられんからあげるわ」
 猫又が新聞紙に包んだ玉ねぎを差し出した。土がついたままの玉ねぎは丸々としていて旨そうだ。

「いい玉ねぎですね。これをアルミホイルで包んで七輪に放り込んでおくと旨いんですよ」
「俺には毒だから、旨いと言われてもねえ……というか、俺への差し入れといいつつ、水木さん目当て。人間の美醜は分からんが、愛想のよさと顔のよさが受けてるんだろうな」
「いやあ、恐縮です」
「顔と言葉が合ってないんだよなあ。言われ慣れてるでしょ。今日仕入れた物件のファイリングが済んだら上がって構わんよ。ビル欲しがる奴は俺の方で連絡しておくから」
 猫又は必要な仕事さえすれば早上がりも、遅出も気にしない質だ。人間のようにルールに縛られないし、合理的でお愛想も接待も必要としない。裁量をこちらに任せてくれる分、人間の会社より働きやすいとも言える。
 猫又は肉球を紙にあてて、パラパラと書類を捲る。水木は鞄から預かった資料を取り出して打川から聞いた注意事項などを書き込んでいく。



「ただいま戻りましたぁ。いやぁ、肌寒くなってきましたねえ」
 事務所のドアが開き、中年の男が首裏をかく。ぽんと音がして男から大人の腰丈ほどの狸へと姿を変える。
「お邪魔します。いい物件を紹介して貰って助かりました」
 後ろから入って来た白児は人に近い姿だ。長い髪を後ろで括り、若者の間ではやっている革のジャケットを着ている。不良のような格好と丁寧な所作のギャップが激しい。
「おかえりなさい。外は冷えて来たでしょう」
 水木は席を立ち、白児からジャケットを受け取る。応接セットまで案内して椅子を引くと、白児がほうと息を吐いた。

「えらい気が利く人間さんだ。どっか大店で丁稚奉公でもしていましたか」
 白児の言葉に内心苦笑いする。妖怪にとって江戸時代は一昔前程度なのだろう。
「ただの会社勤めのサラリーマンですよ。この位大したことありません。豆さん、このままご契約まで?」
「うん、白児さん来週から仕事らしいのよ。早く入居できるように急ぎましょう」
 豆狸の言葉に猫又かぴくりと耳を動かした。机から契約書セットを一式取り出してすぐに準備を始める。
「豆さん、お茶淹れてくるから」
 水木は豆狸に声を掛けて戸棚からお茶くみセットを取り出した。給湯室は隣のアパートと共用だ。事務所を出た向かいにあるが、水道とコンロと年季の入ったポットしかない。
 豆狸は水木に軽く手を上げて礼を言い、猫又が書類一式揃えて応接セットに向かう。

「水木さん、お茶出し終わったら上がっていいからね」
「はい、社長もお疲れ様です」
 集めた物件のファイリングは済ませた。水木が給湯室でお茶を淹れて戻ると、白児が書類に筆で署名をしていた。邪魔にならないよう、少し離れた場所に湯呑を置くと、白児が顔を上げて目を細める。
「やっぱり気が利くなあ。いいなあ。欲しいなあ。うちの主人も気に入ります」
「恐縮です」
 猫又が爪を振って白児をたしなめる。
「ダメですよ、わが社のエース社員なんだから。引き抜きするんなら、白児さんの主人の大坊主さんから仁義を通して貰わないと」
「分かっていますよ。働きの良い手代はいつの時代も貴重ですからね。豆狸さんも仕事熱心で助かりました。猫又さんは良い部下をお持ちだ」
「人徳ならぬ、猫徳ですな」
 おおらかに笑う猫又が、ちらりと水木に合図する。妖怪の会社で働き始めて分かったことだが、気が利くというのは良いことばかりではない。妖怪の中には郎党を組む者も多く、人手を欲する輩も多いのだ。

「じゃあ、お先に」
 水木は背広を羽織って、鞄を引っ掴んだ。これ以上いても益はない。折角の早上がりなのだから、商店街でいつも売り切れているコロッケを買って帰ろうと決めた。



 沈む夕日に追い立てられるように、家路を急ぐ。水木は揚げたてのコロッケが入った紙袋を抱えて、玄関の鍵を取り出そうとポケットに手を突っ込んだ。
「水木さん、お久しぶりです」
 青い服に黄と黒のまだらのちゃんちゃんこ。足元は赤い鼻緒の下駄で、玄関先に姿勢よく立っている。遠ざかる背中を見送った子の、八年振りの姿に水木は喉元が熱くなった。
「……鬼太郎。少し大きくなったか?」
「どうでしょう。森では特に身長を測っていませんでしたから。ところで、手紙にも書いてありましたが、ねずみ男の紹介で猫又の会社に入ったそうですね」
「前の会社は随分長く勤めたからな。外見を怪しまれる前に転職したんだ」
「そうですか……」
「なあ、鬼太郎。立ち話もなんだ。丁度コロッケを買ってきたから一緒に食べないか」
「いいえ、このままで。僕は水木さんの家には上がれません」
「そう、か……」
 平静を装おうとしたが、どうしても落胆が声に混じってしまう。営業先なら顔色変えず、よく回る舌も鬼太郎の前ではしょぼくれた親父になってしまう。

「この八年。ずっと水木さんの寿命を奪ったものを探していましたが、手掛かり一つありません。数十年はかかるかもしれません。すみません、僕が不甲斐ないばかりに」
「そんなことはない。元は俺が犯した失態だ。お前が気負うことはない。俺のことは心配しなくていい。人目に付かないよう上手く暮らすから」
 心配するな、と言ってやりたいが確実に水木の生活に支障は出ている。鬼太郎はじっと水木を見つめて、一つ呼吸を吐き出した。

「水木さん……どうして、僕を頼ってくれないんですか。八年間、手紙には謝罪の言葉と当たり障りのない日常しか書いてありませんでした。新しい勤め先だってそうです。どうして、僕に相談してくれないんですか。養い子とは言え、あなたの元から独立して十年は経った。人間の歳でも二十歳になりました。もう大人です」
 どうして、どうしてと鬼太郎は問うばかりだ。そうさせているのが自分だと思うと、心が鈍く痛む。
「……すまない、鬼太郎。お前を頼った方が良いと分かってはいるんだ。それでも、おまえを……離れて暮らす息子を巻き込みたくはないと思ってしまう」
 親心が胸の真ん中に居座っている。良い親でいたいと願った結果がこれなのだから、願いの浅ましさを認めるしかない。
「俺が悪いんだ。不出来な父親ですまないな」
「いいえ、水木さんは僕のおとうさんです。あなたが育ててくれたから僕はここにいる。その席を捨てて欲しいなど、願えるはずがない……だけど、」
 鬼太郎の強い眼差しが水木を射抜いた。

「水木さん。僕をあなたの伴侶にしてください。水木さんの人生に踏み入れる権利を下さい」
「は、伴侶ってお前……っ!」
 鬼太郎の告白に水木は一歩後ろに下がった。水木が後ろに下がると鬼太郎が一歩踏み出す。よろよろ足を動かすと、かかとが塀の縁に当たった。水木が育てた子供が、今まで見たことのない顔と態度と声でこちらに接してくる。
「ずっとあなたが好きでした。だけれど、あなたが僕を息子として深く愛してくれていたから。恋心を秘めてあなたが死ぬまで耐えるつもりだった。四十年程度耐えられないほど、やわな気持ちじゃない」
 張り詰めて、今にも引きちぎれてしまいそうな。荒波に身体をさらわれぬよう、耐えているような。されど一歩も引かぬと両足を肩幅に開き、鬼太郎が声を絞り出す。人をからかうような声音はなく真剣そのものだ。水木の理解が一つも追いつかない間にも鬼太郎が言葉を紡いでいく。

「息子のままでは頼れないと言いましたね。だったら、もう隠す必要はない。僕は恋心を明らかにして水木さんの連れ合いになります。伴侶として、正々堂々あなたの人生に踏み入る権利を手に入れる。あなたに頼ってくれと言える立場になります」
 鬼太郎が拳を握って次の言葉を放つ。水木はコロッケを抱えたまま、放たれる激情に足元が攫われそうになるのを堪えた。
「死が二人を別つまでというでしょう。僕はあなたに正しい死を取り戻し、魂を霊界に送られるまで一緒にいます」
 鬼太郎の視線が水木の左手に向けられる。鬼太郎が熱心に見つめる指に指輪を嵌める意味を水木は知っている。

「狂わせてなんてやらない。魂を消滅なんてさせない。絶対に人の理に引き戻す。あなたの人生に僕を受け入れてくれ」
「急に……そんなことを言われたって」
 口内が渇いて掠れた声が出た。鬼太郎は戸惑う水木にふっと目元を緩めて笑いかける。
「驚かせてごめんなさい。でも、撤回はしません。よくよく考えておいてください。嫌なら断ってくれて構いませんよ。あなたが良いと言うまで僕は家に上がれませんから」
 潔い覚悟を前に水木は立ち尽くす他なかった。

「手を握っても?」
「え? あ、ああ」
 水木が差し出した右手を鬼太郎が握り締める。雛鳥でも包み込むように優しく熱心に触る手つきに、水木がますます動揺した。
「これから、時々求婚にきますから……覚悟しておいてくださいね」
 それじゃあ、と鬼太郎は手を放して帰っていた。カラコロ遠ざかる下駄の音を何度も聞いてきたはずなのに、まるで知らない誰かの足音に聞こえる。
 水木はコロッケがぬるくなるまで、玄関先にぽつんと立っていた。



 年の瀬も迫るなか水木は地に足のつかない生活をしていた。夜更けにアルコールを摂取し過ぎた目玉がひゃっくりをする。
「水木……水木よ! なんじゃ、ぼんやりして。儂の話を聞いておったのか?」
 目玉の言葉に水木の意識が引き戻される。目玉が話しているのを聞き流して、猪口の縁を指でなぞってばかりいたようだ。
「いや、全然」
「何じゃ! 折角ありがたい説教を垂れてやったというのに!」
 数ヶ月に一度の目玉との晩酌は恒例行事だ。鬼太郎に求婚されてから、水木はどうにも覚束ない。仕事に支障は出ないよう心がけているが、猫又にも体調不良を心配される始末だ。
「なあ……親父さんよ。あんたは息子が誰に懸想しているのか知っていたのか」
 目玉は当然といった顔で頷く。
「直接聞いたことはないが、それとなく察しておった。鬼太郎からお主に求婚したと聞いたぞ。二十歳になって人間の世界で大人になったからもうよかろうと。八年の間、鬼太郎はよく頑張っておった」
「二十歳なんぞまだまだ子供だ」
「お主が二十歳の頃、子供でいられたか?」
 この目玉痛い所を突いてくる。水木は二十歳になって早々兵隊にとられたため、甘ったれたことを吐き出す暇はなかった。

「俺のことはいいんだよ。時流が悪かっただけだ……だから、あの子にはもう少し余裕を持たせてあげたかったんだが」
 水木が二十歳の頃よりこの国はマシになったと思いたい。高度経済成長を高らかに歌い勢いに乗る一方、置き去りにされる人も山ほどいるのだろう。それでも声高に死へせき立てられることがないだけ、マシであって欲しい。目玉が猪口を煽ると口らしきところを腕で拭う。
「人の理で鬼太郎を測るでない。あの子はまだまだ青い部分もあるが、立派に成長しておる。水木よ、人間にとって養い子を伴侶にすることは難しいと分かっておる。しかし、受け入れるにせよ、断るにせよ真剣に考えてくれんか」
 水木は海苔を火鉢にかざして眉を寄せる。薄暗い景色の中でもしっかりと分かるほど切実で真っ直ぐな言葉と瞳。あれを適当に扱うなどできるはずもない。

「分かってるよ……あの子は本気だ。それくらい俺だって分かる。曖昧な返事だけはしない。しかし、正直混乱している」
 大切な息子なのだ。親元を離れて自活していて何か欲しいとねだることも滅多にない。そんな子が切に欲しいと願うのが水木の連れ合いになることだ。
 秘めた恋とはいつからなのか。水木が寿命を奪われた際に、鬼太郎が言い渋ったことを考えるに、あの子の人生の大部分は水木に思いを寄せた時間が占めていることになる。
「ゆっくり考えればよい。ほれ、海苔が焦げるぞ。ちっとちぎって儂にもおくれ」
 水木はすこし縁の焦げた海苔をほどよい大きさにちぎって目玉に渡す。

「どうして、こんなことになっちまったのか」
 水木の中で寿命を奪われた時以上の困惑だ。目玉はパリリと小気味のいい音を立てて海苔を食っている。
「存分に悩めばよい。今のお主には時間があるのだから」
 朗らかに言う目玉の背中が寂しそうに見えた。望んだ訳ではないが、水木は他の人間よりずっと長く生きてしまう。それこそ人の営みから取り残されて気が狂ってしまうほどの時間だ。水木は目玉の猪口に熱燗を注いでやる。
「そう長くはかからない。必ず答えは出す」
 だから大丈夫だ、と言って指で目玉の肩をさすってやる。目玉は潤んだ眼球を両手で拭ってにこりと笑った。
「相変わらずお主は好い男じゃなあ」
 懐かしむ様子の目玉の横で、水木は自分の猪口に酒を注いだ。



 約束通り、鬼太郎は時折水木の元を訪れるようになった。玄関先に立っていてお土産だとか野花などを渡しては帰っていく。返事を一度も求めないのは、判断を水木に委ねているのだ。どのような答えを出すのも自由という態度が、水木が全て握っているのだと暗に示す。

 愛してくれと縋られれば、恋ゆえにと乞われれば、仕方がないと枕詞を付けて関係を変えるきっかけに出来たかもしれない。しかし、鬼太郎はそういった弱みに付け込むようなことをしないのだ。馬鹿みたいに真正面から恋を振りかざして。振りかざすだけで。潔さと無策の入り交じったアプローチに水木は腹の奥がぐるぐるして妙な気持ちになる。

「水木さん、これ隣のおばちゃんから差し入れ」
 豆狸がビニール袋にたんまり入ったジャガイモを差し出す。
「またですか。最近多いなあ。今度会ったらお礼以外に何か渡しましょうか。年始の挨拶で配ったタオル。まだ残っていたでしょう」
「いいんだよ。目の保養だから気にするなってさ。物憂げな美男を眺めると気持ちが若返るらしいから」
「……もしかして、僕ですか」
 水木が自分を指さすと豆狸は腹を叩いて頷く。
「わが社で一番の美男だったら水木さんでしょ。僕は中年の小太りの男に化けるし、猫又社長は強面の大男になるし。確かに一人で考え事をしている水木さんは絵になるんじゃない?」
「はあ……」
 水木の口から間の抜けた声がもれる。考え事のほとんどは鬼太郎のことだ。あの子の求婚をどうするべきか考えあぐねて半年は経った。
「貰えるものは貰っとけばいいのさ。ジャガイモだったら……コロッケだっけ? 総菜屋さんで売っているやつ。アレがうまいよね。水木さん? もしかしてコロッケ嫌いかい」
「いえ、コロッケには複雑な思い出がありまして」
 初めて鬼太郎に求婚された時、水木はコロッケの紙袋を持っていたのだ。変に関連付けられて、コロッケを見ると鬼太郎を思い出してしまう。

 そういった日に限って鬼太郎はやってくる。玄関先に立つ姿に水木は深々と息を吐き出した。
「水木さん……お疲れですか?」
「いや、丁度お前のこと考えていたら本人が来ていた」
 鬼太郎は瞬きをして、少しだけ口角を引き上げる。言葉にせずとも嬉しさを滲ませる姿に水木の腹の中がぐるぐるとする。手に持った風呂敷の中身は酒のようだ。
「これ、九州のお酒です。度数が高いから水かお湯で割ってください」
「ありがとう。……お前も飲んでいくか?」
 酒に酔えばためらいを押しのけられるかもしれない。しかし鬼太郎は横に首を振って笑うばかりだ。

「ダメです。僕はまだ答えを貰っていません。下心のある男を家にあげるなんて不用心なことしないでください。危ないですよ」
 鬼太郎は水木に風呂敷を持たせる。酒瓶が揺れてちゃぷんと水音がする。
「それをお前が言うのか」
「求婚しているんだから当然でしょう。それじゃあ、また。父さんは来週あたり来ると思いますから、晩酌は二人で楽しんでくださいね」
 鬼太郎は恋心を明かしてから、いつも清々しい顔をしている気がする。水木が悩んでいるのにと恨みがましく睨んでも目元を緩めるばかりだ。振り返らずに去って行く背中に文句の一つでも投げつけたくなる。
「……畜生」
 水木は風呂敷で包んだ酒瓶を抱える。あの背中にどんな言葉をぶつけても、鬼太郎は喜ぶに違いない。貰ったジャガイモと酒で今夜は一人ぐだを巻くと決めて玄関を開けた。



 外回りに精を出し、時折目玉と晩酌をして、玄関先から一歩も中に入らない鬼太郎と少し話をして見送る。そんな暮らしが定着して数年経った。水木はいまだ返事が出来ない我が身を恥ずかしく思いながらも、養い子が求婚者となったことを受け止めきれずにいる。あの子には恋があり、それを標に水木に向き合っている。頭では理解しているが、気持ちが追いつかないのだ。水木の標は墓場で抱きしめたあの日のまま。日に日に遠ざかる標から先に踏み出せていない。

「水木さん」
 猫野不動産に戻る途中で呼びかけられた。水木が振り返ると、派手な革ジャンに髪を括った男が立っている。
「ああ、白児さん。今年の出稼ぎもそろそろお終いですか。お疲れ様です」
 白稚児は晩秋から春先にかけて東京に出稼ぎに来ている。料亭で働いて夏の祭りの資金を稼ぐそうだ。
「ええ、今年も大変お世話になりました。三年目ともなると慣れたものですよ。それで、山に帰る前にもう一仕事しようと思いまして」
「ああ、大坊主さんにお土産ですか。去年の羊羹はいかがでした」
 白児がつかえる主人――大坊主は西の方で山を治めているらしい。甘いものが好きだと聞いて、水木は羊羹が人気の店を紹介した。
「大層喜んでくれましたよ。それで今年は羊羹と一緒に水木さんを買って行こうと思いまして」
「は……?」
 思わぬ言葉に、愛想笑いが抜け落ちる。白児は一人楽しそうに語る。

「昨年の出稼ぎの後、大坊主様とも話したんです。こっそり水木さんのお写真を撮らせて頂いて、見目も器量も良い、働きも十分ならぜひ欲しいと」
「……それは、」
「猫又社長には大坊主から仁義を通させて頂きます。銀三十匁をお支払いしましょう」
 水木を置き去りにして白児が一人頷いている。
「安心してください。大坊主様は優しい方ですから、心配はいりませんよ」
「いや、僕は」
 水木が一歩後ろに下がると白児が小首を傾げる。水木が嫌だと言ったところで、白児には分からないのだ。人間は金を出して買えるもの、という常識がある。
「水木さん、さあ行きましょう。大坊主様も待っていますよ」
 当然とばかりに手を差し出される。水木が説得しようにも話を聞いてくれないだろう。猫野不動産まで走って逃げるか。いや、人間の足ではあっという間に追いつかれる。誰か助けを呼ぶべきだ。呼ぶべき相手を水木は知っている。
「水木さん?」
 白児の瞳孔が縦に細長くなる。人ならざるものの気配に当てられて、足がもつれて座り込んでしまった。
「っ……!」
 水木は内ポケットに手を突っ込んだ。お守りを握りしめて頼るべき相手の名前を呼ぶ。

「鬼太郎!」
 水木がためらってしまった、あの日言うべきだった言葉を腹の奥底から絞り出す。
「……助けてくれっ!」
 水木は祈るように目を閉じた。わずかな時間とともに呼びかけに答える声がする。
「リモコン下駄っ!」
 風を切って下駄が白児のこめかみを狙う。白児は後ろに飛びすさって眦を吊り上げた。
「お前っ……鬼太郎か! 何でお前が邪魔をする」
 水木と白児の間に小さな人影が割って入る。
「僕は水木さんに呼ばれた。だから首を突っ込む権利がある」
 鬼太郎が背後に水木を庇った。独り立ちした時と変わらぬ背丈を頼もしく感じる。
「猫又にはきちんと仁義を通す。水木さんはきちんとお金を払って買っていく。だから邪魔をしないでくれ」
「あのな、白児。今は人間をお金で買ったり出来ないんだ」
「前の下男は堺で買ったぞ!」
 鬼太郎の髪から目玉が顔を出した。
「それは江戸時代の話じゃろう。百年以上前じゃ」
「たかだか百年じゃないか。ここ五百年は金を払えば買えたのに」
「人間の時間の流れは早い。昭和の今はそういうことは禁止されている。猫又は水木さんをお金で買ったんじゃない。お互いに雇う、雇われるの同意を持って契約しているんだ」
 白児が腕を組んで首を傾けて、唸ってから口を開いた。

「じゃあ……水木さんが嫌と言ったら連れていけないのか?」
「そうだ。無理やりなんて絶対にダメだ」
 鬼太郎に諭され、白児は眉間を揉んでから水木に向かって声を発する。
「水木さんは大坊主様の元で働きたくはないのですか?」
「俺は大坊主の所で働くつもりはない。猫又社長の下にいたいんだ」
 鬼太郎が無言で首を横に振る。白児は眉を下げてため息を吐いた。
「そうか……じゃあ、仕方がない。はあ……また人探ししないと。最近の人間は山奥の暮らしを嫌がる奴ばかりで困っているんだ」
 主人に仕える立場の苦労がにじみ出ている。

「そうクヨクヨするな。案外近くの山に暮らしている人間の方が仕事を引き受けてくれるかもしれんぞ。無理に都会から連れて行くことはない。灯台下暗しじゃ。それと、人を雇うならちゃんと給金を払うんじゃぞ」
「分かったよ。近くの山から声を掛けてみる。まったく、人の暮らしと言うのは目まぐるしく変わるものだな。水木さん、気が変わったらいつでも連絡してくださいね」
 白児の言葉に水木は無言を貫く。適当なことを言うと本当に連れていかれそうだ。白児は革ジャンに手を突っ込むと和菓子屋の方に歩いていった。


 白児の姿がすっかり見えなくなってから、水木は深々と息を吐き出した。嫌な緊張感に全身が浸っていて、どっと疲れがやってくる。
「大丈夫ですか。立てますか」
 道路に座ったままの水木に鬼太郎が手を伸ばした。その手を掴んで立ち上がろうとしたが、膝が笑って力が入らない。
「いや……一人では無理だな。すまないが、ちょっとそこのベンチまで運んでくれないか」
「はい」
 鬼太郎は水木を軽々と抱え上げてベンチに座らせた。鬼太郎が隣に座ってこちらを見上げる。
「……ありがとう、助かった」
「初めて、僕を呼んでくれましたね」
 噛みしめるような声とともに鬼太郎が目を細める。無邪気に笑う子供と異なる、喜びを噛みしめる男の横顔が夕陽に照らされていた。



「水木さん! 水木さん、大丈夫か!? 目玉の親父さんに話は聞いた」
 水木が呆けている間に目玉がカラスで知らせてくれたらしい。人間に化けた猫又と豆狸が駆け寄ってくる。
「あはは、どうにか無事です」
 猫又が額に手を当てる。
「はぁ……良かった。妖怪はどうにも感覚が古い奴が多くてな。鬼太郎さんが助けてくれたなら安心だ。今日はもう帰って休んだ方がいい」
「仕事なんていつでもできる。どうしても気になるんなら書類だけ預かるよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。社長、豆さん。迷惑を掛けます」
 水木の鞄から書類を出した豆狸が笑う。
「何言ってんの。こういう時はありがとうって言ってくれた方が嬉しいもんだよ」
「……そろそろいいか。水木さんは僕が送っていくから」
 鬼太郎が声を掛けると猫又が頭を下げる。
「お願いします、鬼太郎さん」
 猫又のつむじを眺めて、鬼太郎が少し拗ねた顔をした。
「頼まれなくたってそうする」
 小包でも持つように鬼太郎が水木を抱き上げる。よいしょと声を上げて背中に負ぶわれて水木が慌てる。

「っ、鬼太郎。自分で歩けるから!」
「僕がこうしたいんだ。人目に付かないよう気を付けて行くから、許してくれませんか」
 ダメ押しに頼みます、と言われれば水木は言葉に詰まる。心配をかけたのは自分で、助けてくれたのは鬼太郎だ。変な意地を張らずに受け入れるべきだと心の奥底から声がする。
「……分かった」
 水木は身体の力を抜いて鬼太郎に凭れかかる。思っていた以上に緊張していたようで、節々から疲労がにじんできた。



 鬼太郎と水木が離れていくのを眺めて、豆狸が声を漏らした。
「なるほどなあ……」
「豆ぇ、なんじゃ。したり顔で頷いて」
「いやね。ここ数年、物憂げな男を作り出していた原因が分かったんですよ。なるほど……恋だったか。甘酸っぱいなあ」
「恋ぃ? つまりなんだ。水木さんが変だったのは病気じゃなかったのか。まあ、健康なら何でもいい」
「僕は猫又社長のそういうところ好きですよ」
「なんじゃ、褒めても何も出ないぞ。わが社は昨今流行りの封筒が立つ給料袋と無縁の商売だ」
「別に何か欲しい訳じゃありませんよ。こりゃ隣のおばちゃんが益々貢ぎそうだなぁ」
 豆狸の予想は的中し、猫又はおばちゃんからやたらと甘い菓子を貰うことになる。



 カラコロ響く下駄の音がいつもより鈍い。水木は鬼太郎に負ぶわれたまま家の屋根伝いに移動している。
「大丈夫か、重くないか」
「なんてことないですよ。それよりちゃんと掴まっていてくださいね」
 落とすつもりはありませんけど、と付け足して鬼太郎が屋根を歩いて行く。水木は育てた子供に負われたままじっと考える。家を出た時とあまり変わらない背丈だが、もうこの子は大人になったのだ。自分で考えて、悩んで迷って、前を見て歩いて行ける。辛いことがあっても親に泣きつくでもなく、一人で唇を噛みしめて立ち上がることが出来る。

 ――俺はずっと子離れ出来ていなかったのか

 みっともないが、それで良いじゃないかとも思う。墓場で拾った子を抱きしめた時から水木の人生は新しい標を得たのだ。
 人生の節にはいつも先を示す標が立つ。父親を亡くした日。南方で榴弾に弾かれて血が滲む夜空を見上げた日。鬼太郎を抱きしめた雷雨の日。今までの自分とは違う何かを得た瞬間に標が立つ。どちらに向かえばよいのか迷ったとき、標は行く先の迷いを晴らしてくれる。懐かしんで悪いことなど一つもない。

「鬼太郎」
「はい、どうしましたか」
「大きくなったな」
 水木の言葉は背丈を示すものではないと気が付いたのだろう。鬼太郎ははにかむように口元を緩めて頷いた。
「……はい」
 水木は鬼太郎の首元に頭を凭れた。徐々に西に傾く日差しと伸びる影を見つめる。今日この日が、水木にとって新しい標となるのだ。



 水木が寿命を失ってから十二年が経った。世間は相変わらず目まぐるしく忙しなく、それでいて人心の貧しさは変わらない。

 水木は鬼太郎に相談があると言って家に呼んだ。相変わらず玄関先から動こうとしない男を、外では困るとどうにか土間まで引っ張り込んだ。
「相談とは、この借家のことだ。そろそろ引き払わないと大家の婆さんに怪しまれる」
「そうですね。じゃあ、ゲゲゲの森に?」
「ああ。少しの間、森で暮らさせて欲しい。頃合いを見てこっちにも戻るつもりだ。人の世界から離れすぎて時流が分からなくなったり気が狂うのはまずいからな」
「そうですね……適度に社会と関わっていた方が水木さんの心が不安定にならないと思います」
 頷く鬼太郎に水木が告げる。

「取りあえず、引っ越し先はお前の家でいいか」
「……へ?」
「だから、同居しても構わないかと聞いているんだ。お前の求婚を受け入れるから、問題ないだろ」
 鬼太郎が瞬きをすると首筋から耳元まで赤く染まっていく。
「……ちょっと、待ってくれ。理解が追いつかなくて」
「あんなに熱心に口説いていた奴が赤くなってら。ようやくお前が大人になったんだと理解することが出来た。俺が目玉と一緒に育てた息子は、優しくて頼もしく成長したと身に染みて分かったんだ。連れ合いにするには勿体ないくらい、お前は好い男だよ」
 鬼太郎がふらふらと右手を伸ばした。求めに応じるように水木は両手で自分より小さい手を握ってやる。
「水木さん、僕と一緒になってくれますか」
「ああ。ふつつか者だがよろしく頼む。旦那様」
 水木の言葉に鬼太郎が目を瞬かせる。夜明けの光を見つけたように愛おし気に触れる手を水木は強く握った。



「ちょっと待ってください。僕は反対です!」
 珍しく声を荒らげる鬼太郎を水木は一瞥した。
「やだね」
 羽織に袖を通して水木が立ち上がる。目玉はいつものちゃぶ台の上に胡坐をかいて友と息子を眺めていた。これは水木の優勢だなと思いながら遅れないように息子の肩に飛び乗る。
 東山の狐の棟梁が鬼太郎の連れ合いに会いたいと言っている。この話を受けるか否か。水木の答えは当然決まっていた。

「狐の棟梁が俺に会いたいと言ったのだろう。だったら喜んで泊りに行ってやろうじゃないか。なに、意地を張った大人を少しばかり突きまわしてやるさ」
 拗れた事情を一通り聞いた水木はすぐに泊りの準備をした。決定事項だと知らせるために和装に着替えて鬼太郎の家に顔を出したのだ。
「妖怪ばかりの中にあなたを放り込むのは嫌です」
「俺はお前の連れ合いだぞ」
 水木がすだれを上げて雪駄をつっかけると、鬼太郎が慌てて追いかけてくる。
「お前が言ったんじゃないか。連れ合いになって俺の人生に足を踏み入れてやると。当然、俺にもお前の人生に介入する権利がある訳だ」
「それは……っ、そうですけど」
 鬼太郎が下駄を履いて水木を追いかける。ペタペタ、カラコロ。ゲゲゲの森の中に雪駄と下駄の音がこだまする。水木は後ろを振り返ると、口を引き結んでいる伴侶に笑いかけてやった。
「だったら、俺は正当な権利を行使するまでだ。お前が困っていて助けになれるのなら何のためらいもない」
「……分かりました。山まで送ります。ところで何で和装なんですか」
 水木は白茶の羽織と同じ色の単衣を合わせている。博多帯は箪笥の肥やしになっていたものを引っ張り出してきた。

「こちらの方が妖怪には馴染みがあるだろう。ここ数百年の人間の格好と言えばこれだ。親しみやすい格好をして印象を良くする。身体の線が曖昧だから色々タネを仕込めるし、動きづらいから無茶も出来ない。困ったら必ずお前を呼ぶと約束する。それにほら、」
 水木がつっかけた雪駄を足先で揺らす。赤い鼻緒を見せてにっと笑った。
「お前とお揃いで可愛いじゃないか」
「っ……わざと、ですか?」
「うん」
 甘えたように聞こえる返事をすると、鬼太郎が額に手を当てて深呼吸している。三つ息を吐くと右手を水木に差し出した。
「……雪駄を貸してください。道中落とすといけないから、僕が運びます。ほら、背中に乗って」
「任せたよ、旦那様」
 鬼太郎は曖昧な声を発して雪駄をひったくるように取って水木を背負う。赤くなった耳を摘まんだりすると、熟れたトマトのようになって可愛いのだが今はやめておく。

「さて、狐狩りと行くか」
 楽し気な声を上げる水木と、俯いたまま黙々と歩く鬼太郎。
「……ほどほどにせいよ」
 目玉の忠告に水木はどこ吹く風だ。
「そりゃ、相手次第だな」
「はぁ……お主は昔から腹が決まると、妙に潔いというか。本当にどうしようもない男じゃ」
 目玉が呆れた声を上げると、水木が子供のように笑う。目玉は狐の棟梁の末路を察して腕を組んだ。