千代里
2024-06-28 13:11:13
11537文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その22


「なぜ、こんな街中に魔物が……!?」
奇しくも、離れた場所にいるサルヒと全く同じ言葉を口にしながら、ノエは自分の頭上を飛び交う魔物を睨みつける。
ひょろりとした赤みを帯びた表皮と、ぎょろりとした瞳。蜥蜴に似た姿をしたその魔物は、大きさだけに注目すれば、ノエでも抱えられるほどの体躯しかない。しかし、魔物の背には虫に似た翅がついており、今もノエの剣から逃れるように自由自在に空を飛び回っている。
「お、俺も、急に出会ったんだ! 道を歩いていたら、いきなりそいつが出てきて、それで……!」
「状況はわかりました。ですが、今は逃げてください!」
魔物に追い立てられて逃げてきた男は、ノエの言葉を聞いて弾かれたように駆け出した。
彼が十分に距離を置いたかを確認する間もなく、ノエの眼前で緑の燐光が弾け、急速に収束していく。
……こいつ、ウヴィルトータさんと一緒にいた時に戦ったことがある。確か魔法を操る魔物だったな」
当時の様子を思い出しつつ、ノエは目の前で弾けた魔法から距離を置く。
風属性のエーテルを集めて放たれたと思しき一撃は、無数の刃をいくつも生み出し、虚空を切り裂いた。もし、ノエの頭がそこにあったのなら、今頃首と胴体は別れていただろう。
一つの魔法は回避できたものの、今ノエが対峙している魔物は一体だけではない。
虫の翅を持つ蜥蜴の魔物が、三体。それぞれが魔法を発動したせいで、逃げ込んだ先でも再び魔力の収束を感じる。
……っ!」
回避が不可能と察知し、ノエは全身のエーテルを咄嗟に防御一択へと転換させる。魔法とも呼べない荒っぽいやり方だ。
せいぜい己の体に刃が通りづらくするだけの効果しかないが、今はそれだけでも十分。足に走った鈍い痛みが、風に切り裂かれても足と足首が分たれていないことを教えてくれた。
「兄さん!」
「オデット、今は近づかないでくれ! 魔法の射程に入ったら、君も巻き込まれる!」
ウヴィルトータから授かった知識をひっくり返し、ノエは目の前の魔物が何者かを考える。
(名前は……そう、確か、ドラゴンフライだ。竜に似てるけど、竜ほど強力な相手じゃない)
だが、竜には劣れども魔物は魔物だ。魔法の射程はさほど長くないが、ほぼ詠唱を挟まずに発動する風の魔法は、予兆を検知できない分、回避のために反射神経を必要とする。
幸い、範囲はそこまで広くないので、足の置き方や顔の角度を少し変えるだけでも避けることはできる。他には、魔法の障壁を張って籠城する方法も有効だろうか。
いくつかの戦術を素早く組み上げた上で、ノエは追いついた二人へと視線をやる。
「ルーシャンさん、こいつらは僕が惹きつけます! その隙に、魔法の準備をしていてください! 一撃で仕留められるぐらい大きなものを!」
「了解、じゃあちょっくら激しいやつをお見舞いしてやるか! 嬢ちゃんは、ノエのフォローにまわってくれ。出血が続けば、いくらノエでもあいつらを押し止められなくなるかもしれない」
冒険者の戦いに、絶対などという保障はどこにもない。それは、先だってのマザーボムとの戦いで、嫌というほどオデットも思い知らされた。
すぐさま、彼女も使い慣れた天球儀にエーテルを通して構える。それを視界の端で確かめてから、ノエは剣を構え直す。
ドラゴンフライは、地を這うノエを嘲笑うように飛び続けている。ノエが剣を振るえば、さながら子供を揶揄うかの如くひらりと交わし、剣の届かない位置に逃げていく。
「予想はしていたけれど、厄介な奴らだな……!」
空を飛ぶ手段を持たない者にとって、得物が届きそうで届かない位置を行き交うドラゴンフライの相手は、いやでも苛立ちを加速させていく。
それでも、焦りに判断を狂わせずにいられたのは、後ろに控えているものがいると分かっているからこそだ。
一歩前に出過ぎたと思った矢先、一体のドラゴンフライがもう一歩を促すようにノエの前方を行き交いする。その誘いに乗るかのように前のめりに一歩を踏み出しかけ、
……だろうと思った」
すぐさま身を引いた刹那、ノエの前方に、風の魔法が二つ分弾け、周囲の空気を切り裂く。もし無防備に突っ込んでいたなら、間違いなく致命傷になっていた。
だが、ドラゴンフライの攻撃はそこで終わらない。
「後ろです!」
「ーーっ、魔法を避けられなら、実力行使ってことか!」
その場に踏みとどまっていたノエに、罠から逃れられた腹いせか、ドラゴンフライが自らの体そのものを突っ込ませてきた。
ドラゴンフライ自身の大きさは然程ではないが、上空から突如飛びかかられば、ノエの姿勢は崩れる。鋭い爪と牙が間近に迫り、ノエは痛みを予感して歯を食いしばった。
だが、
「兄さん、目を瞑って!」
オデットに言われるがままに目を瞑った瞬間、閉じた瞼の向こうからもわかるほどに激しい光が散る。オデットが何らかの占星魔法を発動して、飛びついたドラゴンフライを追い払ってくれたようだ。
「オデット、助かった!」
「いえ、それよりも、もう一体が逃げようとしてます……!」
最初にノエを誘い出そうと囮役を受け持ったドラゴンフライが、ノエと残り二体の攻防の隙をつい、ノエから遠ざかろうとしている。空を飛ぶドラゴンフライにとって、逃げ道などいくらでもある。
このまま視界から消えるのを許してしまったら、次に遭遇するまでにあのドラゴンフライはどれほど多くの人を傷つけるか。それを思えば、見逃してやることなどできない。
「させるか……!」
咄嗟に背後の二体から意識を切り離し、遠ざかりつつあるドラゴンフライにのみに集中する。標的として定めた対象に向けて、ノエは魔法の形すらなしていない不可視のエーテルの塊を自身から捻出して叩きつけた。
(相手にダメージは与えられない。でも、これなら気をひくことはできるはずだ)
ノエが予想していた通り、逃げ出そうとしていたドラゴンフライの動きが止まる。
差し詰め、いきなり服の裾を掴まれたかのような違和感。純粋なエーテルの塊の照射は、そのような感覚を与えるはずだ。
だが、それを確かめるより先に、ガン、と壁に何かがぶつかったような音がノエの注意を引く。
「兄さん、後ろ!」
オデットの声を聞くまでもなく、振り返ったノエは、自分に向かって急降下しようとしている背後の二匹に気がつく。
細い路地の只中で、二匹と一匹による挟み撃ち。望ましくない現状ではあるが、慌てずにいられるのは咄嗟にオデットが築いてくれた魔法障壁のおかげだ。
無論、それとて万能ではない。この場所から動くべきか、それともこのまま踏ん張るばきか。
躊躇すると同時に、ノエは周囲に痺れるようなエーテルの高まりが生じていると気がついた。
(ルーシャンさんが、何かしようとしている。なら、今はこの場から離れるべきじゃない)
むしろ、下手に逃げればルーシャンが用意した布石から敵が逃げる手助けをすることになる。
一呼吸置いて、自身の中に巡る魔力を一点に集中。先ほどよりも、より強力な防御の形へと、エーテルを練り上げる。
ドラゴンフライはオデットが即席で用意した障壁を食い破り、今度こそノエへと急降下してくる。背後から迫る一体よりも、こちらの二体の方が手強いと判断し、ノエは即座に盾を構え、
「お前たちの足どめぐらいできなかったら、竜の討伐がしたいなんて言えないものな!」
己を鼓舞する言葉と共に、盾そのもので迫ってきた一体を殴りつける。間髪入れず続くもう一体には剣を振るい、牽制とする。
迎撃の姿勢を取りきれておらず、不恰好な一撃になってしまったが今はこれでいい。
やられっぱなしでいられるものかと、背後にいたドラゴンフライがノエに向かって急降下する。流石にこれにた対応しきれず、ドラゴンフライの爪はようやく、彼の肩に届いた。
……っ!」
飛びついた勢いでノエの体を覆っていた上着に魔物の爪が食い込み、皮膚に刺さる。一瞬走った痛みと自身の背中に張り付いた敵の存在に、ノエは顔を歪めた。
続けて、ドラゴンフライの顎がノエの体を食いちぎろうと、大きく開いたーーそのときだった。
「ノエ、伏せろ! 目ぇ焼かれるなよ!!」
ノエが援護を託した魔道士の声が、通りへと響く。
間髪入れず、肌が震えるほどの力の本流を感じる。真っ赤な閃光に目を焼かれそうになって、ノエはすぐに目を瞑った。
渦巻く魔力の本流は、路地に展開した巨大な破壊の力そのものだった。ドラゴンフライたちをまとめて焼き払い、砕いていくのが、眼を瞑っているノエに伝わるほどだ。
自身の背に張り付いていた一体すら、どんな原理が働いたのか、魔法の光が浚い、破壊の渦に取り込んでいくのが肌で感じられた。
同時に、背中にじくじくと広がっていた傷の痛みが、急速に消えていく。オデットが放った癒しの魔法が傷を塞いでくれたに違いない。
しばし、瞼にすら突き刺さるような赤光が瞬き、ドラゴンフライらが引き裂かれる耳障りな音が響く。そして、全てが終わった後に残ったのは、ドラゴンフライの翅音が幻覚ではなかったのではないかと思うほどの静寂だった。
「ノエ、大丈夫か。戦う場所を変えずにいてくれて助かったぜ。おかげで、一度決めた座標を変えずに済んだ」
ルーシャンの声を聞いて、ノエは目を開き、ゆっくりと体を起こす。まだ赤の光の残滓がちらついているような感覚はあるが、どうにか平時の視覚は戻ってきてくれていた。
「範囲の大きい魔法なら、単純に発動する以外にも、あれこれと細かい調整をしているんじゃないかと思ったんです。動かなくて正解でしたね」
「ただ、俺は助かったんだが、本当に危なかったなら戦う場所を移しても構わなかったんだぞ」
「そうですよ、兄さん。もう少し開けた場所に移動すれば、兄さんも戦いやすかったのではありませんか」
「確かに、それはそうだけど……
空中を自由に飛び回れる敵に対して、狭隘な路地を選ぶのは自殺行為と言ってもいい。けれども、ノエは戦場を変えようとは思わなかった。
ルーシャンの魔法を妨害しないためでもあったが、それ以外の理由もある。
「僕の後ろに、あの方たちがいましたから。戦う場を変えている間に、彼らに注意が飛んでしまっていたら、僕が前に出て彼を庇った意味がなくなります」
振り返ったノエが視線を向けた先ーーそこには、路地から飛び出してきた青年と子供がいた。他にも、周囲の家々からは、恐々とこちらの様子を伺っている人々の姿が見える。
もし、ドラゴンフライを自由にしてしまっていたら、彼らは縦横無尽に飛び交い、人々により甚大な被害を齎していただろう。
……それでこそ、兄さんなのでしょうけど。わたしは、心臓がいくつあっても足りない気がしてきました」
「それに、オデットやルーシャンさんがカバーしてくれるって信じてましたから。実際、そうだったでしょう?」
「信頼されているのは、おじさんとしても嬉しいけどよ。もう少し、戦闘時も自分を最優先……っていうことにはならないのかね」
「流石に難しいと思います。何せーー」
何気なく話していたノエは、抜き身のままだった剣の切先をルーシャンへと向けた。
何事かと、オデットとルーシャンが瞠目した瞬間、
「ーー白雷よ、敵を射て」
短い詠唱と共に、ノエの放った魔力が、ルーシャンらの『後方』に雷の形を伴って放たれる。続けて、ぎいぎいと先ほど聞いたばかりの虫に似た断末魔が、二人の背後から響き、どさりと何かが地に落ちる音がした。
ノエの十八番としている、短文詠唱の魔法ーー『レクイエスカット』。それが二人に近づいていたドラゴンフライを焼いたのだ。
「何せ、ルーシャンさんも僕を信頼しているようですから。今の、気がついていて放っておいたんでしょう?」
……まだ距離があったからな。もうあと三イルムは近づいたら、あるいは離れたら、俺が迎撃するつもりだったんだが」
「あの、わたし……気がついていませんでした」
オデットはどこか恥ずかしげに俯き、ぽそぽそと呟く。ノエが心配になるあまり、ノエの無事を確認してすぐに警戒を解いたことを恥じているのか、彼女の頬は赤く染まっていた。
「オデットが気が付かない分は、僕が気がつくよ。その代わり、援護は任せようかな」
「だけど、ノエの負担を減らしたいなら、嬢ちゃんも気付けるようになっておいた方がいいな。戦闘が終わってもすぐ気は抜かない。それだけでも、少しは変わるもんだ」
「は、はい。気をつけます!」
勢い込んで頷くオデットに、ノエは気負いすぎないようにと彼女の頭を軽く撫でてやる。
ともあれ、ドラゴンフライの残党はもういないようだ。折よく、先ほどと違う音色の鐘がコーンコーンと何度も鳴らされる。
先だっての警鐘が人々の不安を煽り立てるような激しいものだったとしたら、こちらは伸びやかで、日常を想起させるものだった。
「どうやら、迎撃は成功したようだな。警戒態勢を解くことを知らせる鐘だ」
ルーシャンが言うように、今まで建物の中から外の様子を伺っていた人々が、おずおずと姿を見せている。彼らは無事を確かめるようにお互いを見遣ってから、遠巻きにドラゴンフライの死体を見つめ、
「なあ、こいつって、魔物だよな……?」
「小さすぎるし、ドラゴン族じゃないとは思うけれど……
「でも、どこから出てきたんだ? あんな魔物、見たことないぞ」
困惑が入り混じったざわめきは、ノエが最初に抱いた疑問を代弁していた。どうやら、ノエだけでなく街の者にもどこからドラゴンフライが姿を見せたのか分からないようだ。
「よかった、あなたこんなところにいたのね!」
「ママ!!」
ドラゴンフライから逃げてきた少年が、母親と思しき女性に駆け寄る。
「あの竜と、おじさんと一緒に走ってきたんだ。それで、あのおじさんも追いかけられてたから、一緒に逃げてきたんだよっ」
「怖かったでしょう、本当に無事でよかった……!」
子供が指差した先には、ノエに助けを求めた男が腰を抜かしてしゃがみこんでいた。その顔を見て、ノエはハッとする。
(あの人、さっきいた食堂で、食べ物を恵んで欲しいって頼んでいた人だ。逃げ道がわからなくなって、こっちに来たんだろうか)
慣れない街ならば、ありそうなことだ。竜の接近もひと段落したようなので、これからは街の者もそれぞれ落ち着いて家路に着くだろう。
自分たちもアラン司祭に報告に戻るべきか。それとも、念のために街の外周をぐるりと巡回しておくべきか。ノエが意見を聞こうと、ルーシャンの方を向いた時だった。
「おい! そこのお前! お前が、この魔物たちを街に連れてきたんじゃないのか!?」
刺々しい非難の声が、突然周囲に響く。一体何事かとざわめきが広がり、ノエも声の主を探して首を巡らせた。
「お、お前が来た方から、あの魔物たちが出てきたんだ! 俺は、途中までお前と一緒に逃げたんだから間違いない!」
「たしか、この魔物ってドラゴン族が眷属にしてるって魔物じゃないか……?」
「じゃあ、そいつはまさか……
声を上げた者に追従して、更なる糾弾の声が上がる。見れば、彼らの言葉は、すべて地べたにへたりこんでいる一人の男に向けられていた。ノエに助けを求め、食堂では食料を分けてほしいと女将と交渉していた難民の男に。
「前々から怪しいと思っていたんだ。お前、夜中にコソコソと外に出ていって、店の前をあちこちうろついていただろ! あれは、魔物を引き入れる企みだったんじゃないか!?」
「そ、そんな……誤解だ! 俺は、腹が減ったから何か食うものが残ってないかって、それで出かけただけで」
「つまり、盗みに入ろうとしてたってこと!? わざわざこの街に受け入れてやったのに、信じられない!」
人々のざわめきが、徐々に疑念から非難の形へと変わっていく。手こそ出していないものの、一触即発の空気が暴力に転じるまで、この様子ではさして時間はかからないだろう。これこそがアラン司祭が懸念していた事態だ。
自分の命が危険に晒された者は、己の身に降りかかった過度なストレスを解消するためにも誰かに対してより攻撃的な態度をとりやすい。自らの不安や恐怖を怒りに転じさせて安心を得ようとするのは、心情としては当然のことなのかもしれない。しかし、このままでは取り返しのつかない事態になってしまいかねない。
どうする、とルーシャンが目線で問う。オデットは不安げながらも頷きかけーーしかし、二人の応酬が終わる前に、すでにノエは前へと一歩踏み出た。
「皆さん、待ってください。そちらの方が先ほどの魔物を呼び寄せたと決めつけるのは、いささか早計ではありませんか」
ノエの凛と張った落ち着きのある声は、混沌に溢れた人々の声の中でよく響いた。
男を取り巻いていた無数の声が一瞬静まる。だが、彼らがノエの一声で黙ったわけではない。彼らの中に渦巻いていたのは、突如現れたノエへの不信だけだ。
「あんた、さっきの魔物を倒していた旅人か?」
「はい。アラン司祭に頼まれて、街の見回りをしていたのです。皆さんの中で怪我をした方はおられますか。治療が必要なら、簡単な怪我なら治癒魔法で癒せます」
さすがに、暴動が起きたら止めてほしいと言われていたーーとは説明できない。自分が間違った者であるかのように言われたら、町民らはより反感を覚えてしまう。
故に、ノエは先にドラゴンフライが町民らに怪我をさせていないかを確認する。
怪我をしていた人がいたなら、即座に治療する必要があったからもあるが、他にも理由はある。
(魔物のせいで怪我をした人がいなかったなら、彼らも少し冷静になれるかもしれない)
自分たちが魔物に襲われて命が危険に晒されたという一点が、町民らを攻撃的な姿勢にさせている主な原因だ。
襲われた事実こそは覆らなくとも、襲われた結果の被害が少なかったとわかれば、人々の怒りも少しは静まるのではないかと期待したのだ。
幸い、ノエは賭けに勝った。怪我をしたと申し出るものは、この場にはいなかった。
怪我をした者はいないと自ら認識したことで、最初の青年に煽られて非難を浴びせていた人々は、徐々に落ち着きを見せ始める。
だが、声をあげた青年の興奮はいまだおさまらぬ様子だった。
「怪我はしたやつはいないけどよ。こいつが魔物と一緒にいたのを、俺は見てたんだよ!」
「たしか、この方が走ってきた方角から、ドラゴンフライが姿を見せたという話ですよね。それでは、この方がドラゴンフライを調教していたり、解き放った姿を見ていたのですか」
「いや、それは見ていないけれど……だけど状況的に疑わしいのは確かだ!」
「わかりました。では、すみませんが一緒に現場まで案内してもらえますか」
ノエの突然の申し出に、青年は眉を顰める。構わずに、ノエは言葉を続ける。
「先だって言いましたとおり、僕らはアラン司祭から街の見回りを頼まれています。魔物が侵入していたのに、その原因を明確にせずに帰るわけにはいきません。そちらの男性の方も、一緒に同行してもらえますか」
証拠がないなら、疑っているそちらの方がおかしい。そう言うのは簡単だ。
だが、そのような論理的な話をしたところで、すでに後に引けなくなっている最初の糾弾者は引き下がってくれないだろう。
(なるほど。だから、現場の調査って名目で更なる証拠を探しに連れ出すことにしたのか)
ノエの話の進め方に、ルーシャンは内心で拍手を送った。かつての彼なら、疑わしきは罰せずの姿勢を貫くことしかできなかっただろう。
自身の考えの方が正しいと押し付けるだけでは、結果的に押し問答としかならない。ならば、著名人であるアラン司祭の名前を使い、あくまで街のために、皆の利益のために調査が必要であるという名目で現場検証を進める。
その結果、本当に男が疑わしいとなっても、アラン司祭の元に連れて行けばいいだけのことだ。ここに置き去りにして、興奮した町民に袋叩きにされるのを待つだけよりはずっといい。
ノエに促されて、青年と男は顔を見合わせ、首を縦に振った。
「ご協力、ありがとうございます。大変なことがあった後に申し訳ないですが、少しだけ時間を頂戴しますね」
ノエは、丁寧にお辞儀をして男たちへと感謝の意を示す。相手の感情を見て切り口を切り替える姿は、通り一遍の姿勢しか見せられなかった嘗てでは考えられなかったことだ。
「ノエも、いつまでも初々しい若人じゃないってことか。親父さんと話して、思うところがあったのかね」
「兄さんは、今も昔も少しずつ成長してますよ。成長してますけれど……
男たちを先導して路地に入るノエを見守りつつ、オデットは少し寂しげに笑う。
「昔の、頑ななぐらいまっすぐな兄さんも好きだったな、と思ってしまいますね」
「安心しな、お嬢ちゃん。人ってやつは、数ヶ月かそこらで根っこまで変わるもんじゃない」
オデットの背中を軽く叩いてやりながら、ルーシャンは苦いものが混じった笑みを浮かべる。
「きっと、ノエは今も昔も、呆れるほど真っ直ぐな『いい奴』なんだろうさ」

***

まずは青年の先導に任せて、ノエはドラゴンフライが出没して辿ってきた道筋を遡っていた。青年を先頭に、男とノエが並び、ルーシャンとオデットは殿を務めている。万が一残党がいても、これなら素早く立ち回れると考えてのことだ。
複雑に入り組んだ路地を右に左にと歩いて行った途中で、不意に青年はぴたりと足を止める。
「ここだ。この路地から、こいつが出てきたんだ。そのすぐ後ろに、さっきの魔物がいたんだよ」
居住区の内に入り込む形で続く細い道を、青年は指差した。ノエが覗き込んでみたものの、そこに広がるのは一般的な家が立ち並ぶ込み入った裏通りだけだ。
「では、そちらの方はドラゴンフライとどこで遭遇したのですか」
「そ、それなら……この通りの、もう少し先だ」
明らかに疑いを強く残した青年の視線に気圧されつつも、難民の男は通りの奥を指差す。
今度はノエが先頭に立ち、男に指示されるままに入り組んだ道を行く。程なくして、男は「そこから出てきたんだ」とある一点を指さして告げた。
「ここは……空き家、でしょうか」
「見るからに、何かが飛び出てきたって感じの傷跡があるな。それに、ノエの言うように人が住んでいた気配はない」
ルーシャンの言葉通り、目の前にあるのは一軒の空き家と思しき建物だった。
長らく人が住んでいない建物独特の退廃した空気が、家全体に染み付いている。
石造りの外壁の一部も崩れ、朽ちた雰囲気を漂わせている。一際大きくできた真新しい傷跡を残す部分は、ちょうどドラゴンフライの体の大きさと同等の穴ができていた。不自然な石の削れ方から察するに、得意とする風の魔法で穴を空けたのだろうか。
「俺は、ここから少し離れた空き家に住まわせてもらってるんだ。今日は、飯をもらえないかって反対側の区画の店に行っていたんだけど、案の定追い返されちまって……そんで、家に帰ろうと歩いているときに、急に鐘が聞こえてきて、急いで逃げ出したんだ」
難民の男は、自分が逃げてきた方角を指差す。彼の言葉に間違いはなく、指さしたのは確かにノエたちが話をしていた食堂の方角だった。
「それで、この辺りに差し掛かったときに、急に大きな音がして、家の石壁が吹き飛んだんだよ。びっくりして腰抜かしてたら、魔物がたくさん出てきて、これはまずいって慌てて走り出したんだ」
「魔物がでてきて慌てて走ったのなら、普通なら自分が来た方向に戻るもんじゃないか?」
青年は男の説明を聞いても、疑心を引っ込めようとしない。
たしかに、進行方向に魔物が出現したのなら、少しでも自分が見知った道に戻るのが自然な心理かもしれない。青年の指摘を受けて、男は何やら気まずげに視線を彷徨わせ、口ごもる。
「元の道に戻らなかった理由が、何かあったのですか」
「ま、まあ……理由みたいなものは、あったけどよ」
「その理由ってやつは何だよ」
気まずげな男の表情に青年が気色ばみ、ノエが再び問いかけようとしたときだった。
「おやまあ。さっきのあんた、無事だったんだね!」
不意に、通りに並んでいた一軒の家から、年老いたエレゼン族の女性が顔を見せる。片手に杖を持ち、足を引き摺りながら歩くようにしながら、彼女は一行へと近づいた。
「この魔物は俺がやっつけるなんて言っていたから、大丈夫だったか心配だったんだけどねえ。無事に追い払えたのかい?」
老婆の問いかけに、男はますます気まずげに視線を彷徨わせる。それでも、彼はかろうじて首を縦に振ってみせた。
「すみません。今、その魔物が出没した状況について調査をしているんです。魔物は、確かにこの家から出てきたのですか」
「ええ、そうですよ。見知らぬ剣士さん。アタシが庭先で薬草の手入れをしていたら、鐘が聞こえてねえ。でも、見ての通りアタシは足が悪くてね。家に入るだけでも一苦労だって思っていた時に、そこにあった空き家から魔物が出てきたんだよ。あれには驚いたよ」
老婆は外壁が壊れた空き家を指さし、その瞬間のことを思い出してから身震いをする。
「腰が抜けて動けなくなったところに、そこに立っている人が来てくれてね。俺がやっつけるから、その隙に避難するようにって言って、拾ったを投げて魔物を惹きつけてくれたんだよ。まさか、本当にやっつけるとは思ってなかったけどねえ」
すごいじゃないか、と無邪気に笑う老婆に対して、ますます男は居た堪れない顔で視線を地面に落としている。その様子を見れば、男が逃げ帰らなかった理由を語らなかったのも概ね想像がついた。
老婆に啖呵を切っておきながらも、実際に倒したのはノエたちであり、男はノエに助けを求めることしかできなかった。その振る舞いが、男としては格好悪いものだと感じられたのだろう。
「おばあさん。ここに住んでいたのでしたら、魔物がいつこの家に入り込んだかもわかりますか? それか、魔物を運び込もうとした人などは見ていないでしょうか」
「アタシも、四六時中この空き家を見張っているわけじゃないからねえ。でも、魔物が中にひしめいていたなら、少しは変な音がするだろうけれど、全然そんな気配はなかったよ」
オデットの質問に、老婆はいままでの様子を思い出して丁寧に説明をしてくれた。彼女の様子を見るに、嘘や誤魔化しがあるようにも思えない。
「だが、魔物が虚空から出現することはない。妖異ならいざ知らず、ドラゴンフライはれっきとした生き物だからな」
「ということは、やはり人知れず誰かが魔物を運び込んだのでしょうか。話を聞く限り、自然に侵入したとは、少し考えづらいです」
ルーシャンの補足に、ノエは自身の推論を付け足していく。ルーシャンは頷き返すと、
「そして、この時が来るまで魔物に大人しくするように命じていたか、あるいはそんな細工をしていた誰かがいたってことだろうな。だが、少なくともそれはこの男じゃないだろうさ」
ルーシャンから話題を向けられて、男は慌てたように「俺は魔物を連れ込んだりしてない」と主張する。青年も、老婆と男の話を聞いて納得したのだろう。先ほどのように無闇と攻撃的な姿勢は見せなかった。
「外から避難してきた難民の人が疑わしく見えるのは、この街に住んでいる人たちにとっては仕方のないことなのでしょう。ですが、今は慌てずに調査を進めていき、その上でアラン司祭やこの街の統治者の方に判断を委ねましょう」
……そうだな。悪かったよ、疑っちまって。きっと、アラン司祭やベルナール様なら良いように計らってくれるだろうさ」
無条件の信頼を向ける相手として父の名を出され、ノエは一瞬胸の端に苦いものを覚える。
竜の接近と、それに伴う不可解な魔物の出没。不安を感じる民衆を安心させ、打開策をこうじる。それは、父が背負うべき責務の一つだ。
そして、ノエがこれらの事件に対してできることは、この程度の地味な調査だけである。ノエには地位もなければ、この街に長くいた者だけが持つ信頼もないのだから。
……僕は、あの男に続く者だ。だったら、そんな僕は今、この場所で何ができるのだろうか)
かつては、敵愾心から遠ざけていた父の背中。それが、今は異なる意味でより遠く感じられた。