廊下の向こう側から漂ってくる甘い香り。そういえば、去年の今頃も厨で南蛮菓子を作った覚えがある。これは年中行事だから一緒に作ろうと誘われて、慣れない菓子作りに参加した。出来上がった物はどうしたんだっけ。渡した記憶は無いが、「ごちそうさま。美味かった」と言われた気がする。
さて今年はどうしようか。厨では今年も朝から菓子作りが開催されているが、今から参加して作る程の熱意があるか問われると微妙なところ。それなら万屋に行って探すのもありだ。目玉商品は前日までに完売してしまうそうだが、何かしらは残っているはずだ。ついでに私物の買い物もすませてしまおうか。そう決めると、上着を羽織って玄関に向かおうとした。
「松井さん今年は来ないの?」
……前言撤回。今年も年中行事に参加することにする。
「暇だし行こうかな。今年は何を作るんだい?」
「ブラウニーとトリュフから選べるって」
今から作りに行くんだという短刀の彼に先導され、僕も一緒に厨に向かった。
*
選べると言われてどちらにしようか迷ったが、今年はブラウニー作りに挑戦した。決して、混ぜて焼くだけだから僕でも出来ると思ったわけではない。材料は好きに使っていいと言われたので、粉やバターとチョコレートを混ぜた生地にシロップ漬け果物を入れ、これを入れても美味しいと言われたので洋酒を少し垂らしてみた。長方形の型に入れてオーブンの順番を待つ。焼いている間に使った製菓道具をみんなで片づけて、焼き上がったブラウニーをお茶を飲みながら冷ますこと小一時間。手頃な大きさ切り分けてから部屋に持ち帰った。見た目は悪くないと思う。味見はしていないけれど、一緒に作った子から一切れ貰ったからきっと僕のブラウニーも大丈夫だ。そう信じたい。
一日か二日寝かせても美味しいと言われたが、せっかくなら一切れ二切れは出来たてを食べてもらいたい。今日は出掛ける予定だと聞いているが、もう帰ってきている頃だろう。僕は豊前の部屋を訪ねた。
「豊前?いるかい?」
「っ!……あぁ、松井か。どーぞ開いてっぞ」
いくら気心知れた仲とはいえ、一声掛けてから入るのが礼儀。いつものように部屋の外から声を掛けると、珍しく焦った声色の返事が返ってきた。何か僕に見られたらまずいもの、例えば衝動買いしたぱあつや道具、大穴で艶本でも外に出ていたのだろうか。
何をしていたのかは知らないけれど、豊前に隠す時間を与えるために僕はわざとゆっくり部屋の障子を開けた。
「すまないね。急に来てしまって」
「別に構わねーっちゃ。何かあったか?」
「何かあったという程ではないのだけれど……」
今更になって気がついた。ここまで来たのはいいけれど、どうやってこれを渡せばいいのだろうか。今年もみんなと一緒に作ったからあげるよ、だけでは何だか寂しい。去年の僕は一体どうやって渡したんだ。去年の事を覚えていない自分が恨めしくて仕方ない。ブラウニーの包みを後ろ手に持ったまま部屋の敷居を跨いだ所で立ち尽くしていると、さすがの豊前の怪しんだのか再び何かあったのと問い掛けてきた。
「その……」
上手い言葉が見つからず、目が泳ぐ。泳いだ視線の先は部屋に備え付けられている文机だった。滅多に使う事がなくて半ば物置台と化している机の上に置かれた色の紙袋。持ち手に小さな赤色のリボンが結ばれた紙袋に描かれた紋は僕も知っている。僕の記憶が正しければ、あれは現世で有名な店の紋だ。主に女性向けの品を扱う高級店の。
中身が何か知らないけれど、あの店の品を豊前が貰うとは考えにくい。となれば、豊前が買ったと考える方が自然だろう。珍しく内番着以外の洋服が衣桁に掛かっている。二〇二〇年代の現世に溶け込める組み合わせだ。どこに行くとは聞いていなかったけれど、現世まで行って買ってきたに違いない。そうか、僕が知らなかっただけで豊前には意中のおなごがいたのか。――何だそれ。
「特に用事は無かった。邪魔してすまなかった」
険のある言い方になってしまったのは許してほしい。踵を返した僕が部屋を出るよりも先に、豊前が待てと言って僕の腕を掴んだ。何?僕は忙しいんだ。離してくれ。
「松井、お前絶対早とちりしてる」
「してない」
「してる」
掴まれた腕を引っ張られ、部屋の中に戻された。とりあえずそこに座れと、部屋の真ん中を示される。自分でもわかるくらいに険しい顔つきで仕方なく座ると、出入り口を塞ぐようにしながら豊前もまた対面に座った。
「で、何?」
「そんな怖い顔すんなっつーの。綺麗で可愛い顔が台無しっちゃ」
豊前が腕を伸ばして机の上の紙袋を取った。この中身が何とか、誰に渡すものだとか、そんな話は一つも聞きたくない。誤魔化されてなんかやるものか。聞く気ゼロの態度でぶすくれていると、目の前で豊前は紙袋の持ち手のリボンを解いた。
「よくわかんねーから適当に店の中ふらついて買ったやつだけど、合いそうなら使ってくれ」
はらりとリボンが落ちる。紙袋から出されてぽんと畳の上に置かれたのは、パッケージに外つ国の言葉で何か書かれた縦型の箱。読めそうな単語をいくつか拾ってみた。――ハンドクリーム。ここ最近手指が荒れてしまっていた事に、豊前は気づいていたのだろうか。以前「冬場は指先がかさついて紙が捲りにくい」と漏らした事も、豊前は覚えてくれていたのだろうか。
「ほらな。早とちりだったろ」
「すまない……」
からりと笑う豊前に、僕はいたたまれない気持ちで一杯だった。反省してしゅんとしょぼくれていると、豊前に次は松井の番だぞと言われた。
「それ、何?」
“それ”が何を指しているのかなんて、考えなくてもわかる。ずっと後ろ手で持っていたはずのブラウニーだ。座った時に豊前からも見える位置に置いてしまったらしい。今日厨で菓子作りが行われていた事をもちろん豊前は知っている。知った上で聞いているのだ。
「……菓子だ」
「だろうな。今年も厨で作るって他の奴らから聞いた」
誰かに渡すの?と豊前はわざと僕に聞いてくる。自分で食べるつもりだと答えたら、嘘つくなと言われてしまった。……全部バレてる。何だか悔しいけれど、これ以上誤魔化すのは無理だ。僕は降参した。
「そうだよ。豊前に渡すぶらうにーという菓子だ。はい、どうぞ」
「ありがとな。でも、去年は食わしてくれたよな?」
曰く、去年の同じ日に豊前は万屋でチョコレートを買ってきて、僕にくれた。それが実は洋酒入りとは気づかず、僕は一気に全部食べてしまった。僕は酒に強くないから、それだけで酔ったに違いない。そんな気がする。
「で、ニコニコしながら自分が作ったやつを食べてくれって言って食べさせようとしてきたの、覚えてねぇの?」
「覚えてない……」
僕自身はまったく覚えていないが、去年の僕は作った菓子を手ずから豊前に食べさせたらしい。だから今年もと、豊前は目の前でにやにやしながら待っている。その顔も様になるからこの男は本当にたちが悪い。余所でそんな顔を見せたら入れ食いだ。仕方ないなと観念した僕は包みを開いた。端っこの一切れを手に取ると豊前が口を開けたので、お望み通り食べさせてやった。
「……なぁ。これ、試食した?」
「してない。もしかして不味かった?」
「いや、美味っちゃ。でも松井は食わねー方がいい。結構酒入ってる。何入れた?」
「果物と洋酒を少し」
「この量は少しじゃねーだろ……。俺が全部食うからいーけど」
「君にあげた物とは言え、僕も一つくらいは食べたい」
「だめ」
だからこれと交換と言って、豊前はハンドクリームの箱を紙袋に戻してリボンを結び直すと、僕の方にずいと押しやった。……どうせなら、今使ってみようかな。箱を開けて、中にあるチューブ容器の蓋を捩って開ける。うん、良い香りだ。少量手の甲に出してみる。塗るとすっと柔らかく伸びて、手や指に染みこんだ。塗っても過度にべたつかないから、これはいい。
「とても良さそうだ。ありがとう」
「合いそうなら良かったっちゃ」
どれどれと、ハンドクリームを塗ったばかりの手を撫でられる。お触りは禁止だと冗談交じりで窘めると、軽く笑われ流された。まぁ、たまにはこういう戯れも悪くない。
――その後、彼の目を盗んで洋酒入りのブラウニーを一切れ食べてみたのはいいけれど、思ったよりも酒精が強くて目を回してしまい、結局今年も豊前に介抱される事になってしまったのはまた別の話。
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