2022年8月の発行ぶぜまつ利き小説アンソロジー『Tasting Note BM』に寄稿したもの。夏と言えば夏フェスの女だったので、夏や夜を連想させるものを混ぜて「音楽」を表現してみました。……表現できてるといいな。
時の政府が推奨するの高機能電子デバイス。この本丸では顕現した一振りに一台ずつ支給されているが、松井江は紙の手帳も併用していた。細かな事はあえて記さず、大まかにこの日にこんな予定が入っているといういう覚え書きに使う手帳だ。先の予定を書き込むだけではなく、何か特別な出来事があれば日記のように使う事もある。
そんな松井の手帳には少し前から二枚の紙が挟まっている。二枚あるのは誘いたい相手がいるからだ。松井が誘えば付き合ってくれるだろうけど、趣味ではないと言われる可能性も否定できない。なかなか切り出せないうちに今日まで来てしまった。日付は来週、行き先は現世の音楽祭――夏フェスだった。
(最悪、僕だけで行けばいいか……)
革のカバーが付けられた手帳を開いた松井は、本日何度目かのため息をついた。歌って踊れる付喪神を目指す篭手切江の影響で嗜み始めた現世の音楽。あれやこれやと勧められるがまま聴いていた松井は、気づけば篭手切が勧めてくれた音楽とは少し違う種類の音楽にどっぷりと浸かっていた。寝る前に配信サービスで手に入れた音源を聴くのが日課で、そのうちに松井は一度その音を生で体験したくなった。そんな折りに見つけたのがこの夏フェス(といっても、出演者数組だけの小規模なものだが)の開催予告である。
行ってみたいなと思った次の瞬間には手帳の該当日付に赤ペンで大きな二重丸がつけられ、数日後には余白に場所と交通経路が記されていた。松井は発売開始日に朝一番でチケットを買い求めると、数日後に現世へ行く予定のあった篭手切に発券を依頼した。
もちろん当日と翌日は非番を申請している。急ぎの仕事も無いし、何かあっても篭手切が代わってくれる約束だ。篭手切とは彼が一度行ってみたいという現世で大人気のアイドルグループのコンサートに付き合うという事で話がついている。チケット協力というやつだ。
松井は手帳をパタンと閉じると、今度はデバイスの画面を点灯させた。慣れた手つきで画面上のアイコンをタップして操作し、本丸の予定表を開いた。この本丸に所属する刀剣男士の予定が一目で確認できる予定表。その日の松井の予定はもちろん非番だし、松井の誘いたい相手も非番になっていた。
開催日は目前。誘うなら早くしないと何か予定を入れてしまうかもしれない。とはいえ、一体何と声を掛けようか。自分で買ったと言わず、貰ったからよければ一緒に行かないかと誘ってみようか。そうだ、それがいい。それなら彼も断りやすいだろうし。
そうと決まればあとは行動あるのみ。松井は手帳からチケットを抜き取ると立ち上がった。ぺちんと軽く両頬を叩いて気合いを入れ、いざ鎌倉――と意気込んだところで、部屋の外から声が掛けられた。
「松井、いるか?」
障子越しに声を掛けてきたのは豊前江。目下、松井が誘おうとしていた渦中の男士だ。まさかこのタイミングで声を掛けられるとは思わなかった。イレギュラーな事態に松井は焦った。松井がどう答えようかあわあわ焦っていると、いないなら出直すかと独り言が聞こえた。この機会を逃してはいけない気がする。「開いてるから入ってきてくれ」と、松井は少し上ずった声で返事をした。
「邪魔したみてーなら出直すけど……」
「すまない。ちょうど水を飲んだところで、すぐに返事ができなかっただけだ」
夏は室内でもこまめな水分補給を怠らない事。生活指導班から今夏もその通達が出たので、松井は自室でも水筒を用意して適切な水分補給を行っていた。手帳を開く前に水を飲んでいたのは事実だから、これは嘘でも誤魔化しでもない。
「ならいーけど。これ、主が渡してくれって」
「先月の経費一覧か。ありがとう。確かに受け取った」
松井はチケットを手にしたまま豊前から書類を受け取った。これは急ぎではないし、後からゆっくり帳簿に纏めよう。松井は未処理と書かれた箱の中に受け取ったばかりの書類を入れた。
……視線が気になる。視線の主は豊前で、その視線は松井の持つチケットに向けられていた。その顔には(あれは何だ?)と大きく書かれている。――これは好機だ男を見せろ松井江。松井はあの!と思い切って切り出した。
「よ、よかったら一緒に行かないかっ」
松井はずいっとチケットを豊前に向かって差し出した。勢いが良すぎて突きつけるような形になってしまい、豊前が少し仰け反った。が、すぐに姿勢を立て直した豊前は松井の差し出したチケットを受け取った。
「? ……篭手切がよく言ってる、こんさーとやすてーじみてぇなやつか。いーぜ。いつ?」
「一週間後。さすがに急すぎるよね……」
豊前が非番だという事は把握しているが、松井が知らないだけで彼にも予定や計画があるだろう。無理に付き合う必要は無いと松井は渡したチケットを返してもらおうとしたが、豊前は返そうとしなかった。それどころか内番着のポケットにねじ込んでしまう始末。松井は困惑した。
「確かその日は非番だし、何の予定も入ってねーから行ける。終わるの何時ぐらい? どーせなら飯まで食ってから帰ろうぜ」
豊前はあっさりと松井の誘いを受けてくれた。少々展開が早い気もするが。松井が難しい顔をしていると、豊前が何か都合が悪いのかと聞いてきた。別に都合は悪くないのだが……。
「その、始まるの自体が夕方なんだ」
「じゃあ、向こうで泊まってくるか」
「え? あぁ、そうだね……」
どう切り出そうかと悩んでいた僕は一体何だったんだ。展開が早すぎて松井はついていけなかった。そんな松井に気づいているのかいないのか、豊前がポケットからデバイスを取り出して松井に開催場所を尋ねてくる。松井が現世の地名と最寄り駅を答えると、豊前がすいすいとデバイスで検索を始めた。
値段も手頃だしツインが空いてるからここにするぞと、あれよあれよという間に最寄り駅近くのホテルまで押さえられてしまった。松井が豊前を誘ってから、まだ五分も経っていない。
「後で外泊届も出しとかねーと。何かいるもんあれば先に言ってくれ。楽しみっちゃ」
さっきまでの憂鬱が嘘みたいだった。どうやって誘おうか、そもそも誘ったところで来てくれるだろうかと、あんなにも悩んでいたのに。期待感を隠さない豊前に釣られて松井も嬉しくなってきた。当日はチケットと体一つあればいい。松井は豊前に動きやすい格好で、とだけ伝えた。
そんなやりとりから一週間後の当日。豊前は玄関で松井にダメ出しをされていた。
――確かに僕の言った通り動きやすそうな格好だ。これなら現世でも違和感は無いだろうね。でも、カーゴパンツはいいけれどサンダルはやめた方がいい。財布と電子端末はどこ?ポケットの中だと落とすといけないから、何か鞄に入れて。確かボディバッグを持っていたよね?あれならタオルとペットボトルも入るからそれで。
まさに立て板に水。豊前が口を挟む隙間は無かった。素直に回れ右をして部屋に戻った豊前は松井に言われた通りにした。そして思う。ぱっと見は分かりにくいが、松井のあれは随分とはしゃいでいるぞと。Tシャツ姿の松井なんて滅多に見ない。被っていた黒いロゴ入りのキャップは誰かに借りたのだろうか。……言ってくれれば俺のを貸したのに。
言われた通りにした豊前が玄関に戻ると、改めて松井に上から下まで検分された。松井がうんと大きく頷いたので、今度は合格したみたいだ。
「行こうか」
「お二人ともお気をつけて。松井さん、帰ったら色々とお話聞かせてくださいね!」
笑顔の篭手切に見送られ、はしゃいでいるのが隠しきれない松井は豊前を連れて出発した。
本丸の外に出たところで、持ち運び用転送装置の座標を合わせた。座標の位置は現世の夏フェス会場最寄り駅近くの建物の陰だ。手を離すとすぐにカタカタと歯車の音がして目の前が霧に包まれて真っ白になり、霧が晴れた時には景色が変わっていた。
ここは平成時代の現世。人気の無い場所に降り立った二振りは宿泊先に寄って荷物を預けると、身軽な状態で会場に乗り込む事にした。会場までは直行バスが出ているからと松井が言うので、移動はそれに使う事にする。夏なので夕方のこの時間でもまだ日は高いが、真昼ほどの暑さはない。会場は海辺に近い屋外なのでもう少し涼しいだろう。
直行バスなので目的地は皆同じ。誰も彼もが浮き足立ち、顔に期待の色を浮かべている。もちろん松井もだ。バスが海に近づくにつれ、松井のそわそわ度も高くなってきた。松井としては平静でいるつもりなんだろうけれども、豊前にはお見通しだった。
揺られる事、およそ十五分。バスは無事目的地に着き、臨時停車場で降ろされた。向こうに見える白いテントが会場への入り口だろうか。四方から集まる人の波はそこに向かっている。豊前と松井は流れに乗る事した。
バス降り場から見えた白いテントは参加者受付で、二振りはそこでチケットの確認と鞄の口を係員の前で開けて危険物を持ち込んでいないかのチェックを受けた。まだ高いと思っていた日もわずかに傾いてきており、少し眩しかった。
会場では開演までの時間を皆が思い思いに過ごしている。どんと置かれた大きなステージの上には機材が置かれているだけで、まだ照明もついていない。にも関わらず、ステージの前にはすでに人が集まってきている。豊前は松井に行かなくてもいいのかと尋ねたが、松井はまだいいと首を横に振った。どうやら松井のお目当ての出番は最後らしい。大トリというやつだ。
後方には椅子と机が並べられ、ちょっとした休憩エリアになっていた。休憩エリアには今日の出演者のグッズを売る屋台の他にも飲み物や軽食の出店があったので、とりあえず腹ごしらえをするかと隅のテーブルを一つ借りる事にした。勝手がわからないからまずは様子見をしよう。二振りは水平線に太陽がゆっくりと沈んでいく様と、初めての夏フェスの雰囲気を楽しむ事にした。
松井曰く、今日の出演者は自分達で楽器を持って演奏も行うバンド形式がほとんどとの事。篭手切の目指す歌って踊れるアイドルと方向性や目指すものは異なるが、歌という点では同じだ。傾き始めた太陽を背にプラスチックのコップに入った発泡酒を飲みながら焼きそばを肴にしていると、ステージからエレキギターの音が聞こえてきた。
楽器をアンプに繋いでチューニングをし、マイクテストを行う本番前の音合わせ。それが終わるとワンコーラスだけの試演奏が始まる。文字にしてしまえばたったのそれだけだが、ステージ前で待機する観客をざわつかせて煽るには十分だった。熱せられた観客達の期待がここまで届いてくる。そんな気がした。
「行かなくていーのか?」
「まだいいよ」
焼きそばも串焼きも食べ終わっていないからと返す今の松井は、食欲を満たす事が最優先らしい。豊前がソースがついている事を指摘すると、松井は慌てて口の端を拭った。
海からの生ぬるい潮風が頬を撫でていく。西日が沈む水平線に目を向けた豊前は目を細めた。橙色に染まっていく空と海。空の低いところに見える白い光は明星だろうか。何か気になるものでもあったのかと松井が聞いてくるので、豊前は明星を見つけた事を教えた。豊前の指先を辿って身を乗り出した松井も白い光を見つける事ができたみたいで、夏だねと柔らかく微笑み、そこで会話は途切れた。
ゆっくりと水平線に沈んでいく太陽。豊前も松井も共にいる時の沈黙は苦にならない。ふと思い出したように言葉を交わしながら時間を共有するだけで十分だった。気づけば音合わせも終わり、大きな歓声と共に演奏が始まっていた。ステージの全景は見えなくても、ここまで音は聞こえてくる。
早々に焼きそば一皿を食べ切ってしまった豊前はステージの盛り上がりを耳で感じながらテーブルに片肘を突き、松井が焼きそばを食べるのをぼんやりと見ていた。見られている事に気づいた松井は慌てて残りをかき込もうとしたが、豊前は別に急がなくていいと言って止めた。まだ時間はあるし、松井が食べている姿を見るのは嫌いじゃない。
白い雲が陣取っていた天色の空は橙色に変わり、再び青く、今度は暗い瞑色に近づいていく。名前を知る星は少ないけれど、夏の星が少しずつ夜空に姿を見せ始めていた。
焼きそばと追加で買った串焼きを食べ終えてしばらくした後、松井は甘い物も欲しくなったと言って果物の水飴を買いに行った。戻ってきた松井の手に握られていたのは赤色の飴。果物はどれも同じだったからと赤色を選んでくるあたり、松井はぶれない。赤い色の水飴を舐め取りながら中の果物を齧っている。いつしか日は完全に落ちて、すぐそこの海は真っ暗になっていた。ステージを彩る赤色や黄色の照明が一際明るい輝きを放っており、夏の夜空もこの明るさには少々分が悪そうである。
何の気なしに豊前が夜空を見上げていると、舐め終えた水飴のごみを捨てて戻ってきた松井が「天の川を挟んで光っているあの二つが織女星と牽牛星。南の空の低いところにある明るい星が麦刈星」だと教えてくれた。
豊前にとって星は方角を知るためのものでしかなかったが、松井は星やそれにまつわる逸話や伝承も好きなのかもしれない。星を見ながら松井の話を聞くのも悪くない。……そうだ。今度松井を連れて夜通しの遠駆けに出よう。秋冬は寒いからできれば夏が終わる前に。豊前は早速予定を立てる事にした。
「つーか、そろそろじゃね? 松井が見たいって言ってたの、次の次ぐらいだろ?」
「そうなんだけど……」
「? どーした?」
ちらちらとステージの方に目を向けながら、松井が何やら口ごもっている。――あぁ、そういう事か。豊前はすぐに見当がついた。ずっと楽しみにしていただろうに、何を今さら遠慮しているのやら。強引な時は有無を言わさぬ強引さを見せるくせに。まったく仕方ないなと、豊前は松井に気づかれないように苦笑いを溢した。
「付き合うに決まってっだろ。ほら、行くぞ」
でも……と、まだ渋る素振りを見せる松井を横目に、豊前は席を立つとステージ前に向かった。こういう時はこちらが先に動いてしまった方がいい。ステージ全体が見渡せる位置で足を止めた豊前は追いかけてきた松井に「もっと前に行くか」と聞いたが、松井はここでいいと首を横に振った。ステージ前の群衆の一員になる勇気はまだ無いみたいだ。
着々とセッティングが進むステージの上。並んで立ってその様子を見守っていると、準備が終わり次の出演者の音合わせが始まった。ステージ上のスタッフが楽器をアンプに繋いで弦を爪弾くと、ボーンボーンと腹の底に響くような低い音が聞こえてくる。ああいう形の弦楽器は全てギターだと豊前は思っていたが、どうやら違うらしい。弦が四本の楽器はベースだと松井が教えてくれた。
続いて軽くギターの音を出してからスタンドマイクに手を掛けたのはおそらくこのバンドのボーカルで、そのままマイクテストを行うと音出しを兼ねた演奏が始まった。出だしの数フレーズを聴いた豊前がぴくりと反応する。おや?と思った松井が豊前の視線を辿ると、その視線は真っ直ぐステージに向けられていた。それは見知らぬ疾いものを見つけた時と同じ眼差しだった。心なしか、豊前の目が輝いている気がする。
ワンコーラスの演奏が終わり、本番前に一度退場するのかと思いきやステージ上の彼らはその場から動かなかった。もしかして、このまま本番に突入するのだろうか。そのまましばし見守っていると、アンプや足元のエフェクターの最終確認を行った彼らが小さく頷き合った。ステージ前を埋める観客達のボルテージがじわじわと上がっていき、最高潮に達する様が空気を伝ってここまで届いた。
期待の籠った熱気と無音の中、ステージを照らしていた明かりが静かに落ちて最低限のスポットライトだけが残される。ステージ上にぼんやりと浮かび上がるシルエット。皆、何も言葉を発さずに息を飲んでその時を待っている。濤声がここまで届きそうな静寂の中、ギターが最初の一音を出した。
弾け飛ぶ歓声。波紋のように広がる音は旋律となり、旋律から音符が飛んで夏の夜空を彩る星になっていく。夜空を彩る音符の海に、これ好きかもと豊前がぽつり呟いた。イントロのリズムに合わせて体が微かに揺れている。――豊前はこういう曲調が好きなのか。帰ったら篭手切にも教えてあげよう。松井は頭の片隅にメモをした。
一曲目は夜空に瞬く満天の星のようなきらきらと輝くメロディラインが印象的だったが、次は一転して真夏の海辺にさんさんと降り注ぐ日差しを彷彿とさせる火傷しそうな熱いナンバーが叩き込まれた。三曲目の穏やかなコード進行が小波の寄る波打ち際を脳裏に浮かび上がらせたかと思えば、四曲目の線香花火のような刹那の美しさを表現した旋律には微動たりともせず聴き入ってしてしまった。
四曲続けて演奏したところで一度小休止が入る。今のうちにと、松井は物販コーナーで音源も売っている事を豊前に伝えた。デバイスに音楽データを取り込む形式もあるのだが、せっかくなら今日の思い出として実物を持つのも悪くない。松井も水飴を買い行った時にお目当ての出演者のグッズを買っていた。それはこの日のために作ったという一日限りの限定品で、きっと良い思い出の品になるだろうと思ったからだ。
そうこうしているうちに小休止は終わり、次の曲が静かに始まった。アコースティックギターの奏でる和音の静かなバラードは観客たち一時の涼を与えてくれる。弾き語りを終えたボーカルはアコースティックギターを手放して再びエレキギターに持ち替えた。この後に何が奏でられるのかを知っているファン達から、堪えきれない期待に満ちた声が上がる。ワン、ツー、スリ、フォーとドラムスのカウントで始まるイントロ。軽快なアップテンポのメロディは途切れる事なく最後の鉄板曲へと一気に雪崩れ込み、ステージ前の群衆を渦の中に巻き込んだ。
天津水、銀竹。降り注ぐ音符の雨は流星群にも似ていて、音符がステージから次々に飛び出して綺羅星の如く駆け抜けていく。最後の一音が箒星の尻尾のように夜空に吸い込まれて消えると、割れんばかりの拍手と彼らのパフォーマンスを称える大歓声が贈られた。
「良い演奏だったね」
豊前も松井も自然に手を叩いていた。豊前は見るからに充足感でいっぱいだ。松井は良かったねと言って微笑んだ。
「そーだな」
松井の言葉に大きく頷く豊前。良いものに出会う事ができたとここで余韻に浸るのもいいが、豊前にはやらなければならない事がある。「松井」と声を掛けると、豊前は親指でくいとステージを指し示した。
「ここで待ってるから、行ってこい」
松井は豊前に遠慮していた。一緒に行こうと無理に誘ったのは自分だと思い込んでいる。――違う。誘ったのは松井だが、行くと決めたのは豊前自身だ。良い思い出をと言うのなら、豊前は人の身を謳歌する松井の姿を記憶に残したかった。それはどこに行ってもきっと忘れない、忘れる事のできない思い出になるだろうから。
「豊前は……?」
「俺? 喉乾いたから何か飲み物買って後ろで見てる。だから気にすんな」
ぐらぐら揺れている松井の背中を押すように、早くしないと始まってしまうぞと豊前が軽く追い立てる。それでもまだ逡巡していた松井だったが、再び豊前が「松井」と後押しするとようやく心を決めた。預かっていてくれと言って自身のショルダーバッグを渡し、少し考えた後に帽子も取って豊前に被せてきた。身一つになった松井は「行ってくる」とわずかに不安が混じった期待に満ちた表情でそう言い残し、どこか浮き足立った足取りで群衆の中に紛れていった。
松井の後ろ姿を見送った豊前は踵を返した。会場後方の物販コーナーで、先ほど「これ好きかも」と感じたバンドの音源を買うためだ。ベストアルバムと銘打たれていた代表曲の入った音源と、この夏限定デザインのTシャツを一枚。黒色の生地にバンドロゴが控えめにプリントされたデザインが気に入った。これは今度のれっすんの時に着よう。続いて並びにある飲食の屋台を覗く。喉が渇いたのは本当だ。豊前は何にしようか少し悩んだが、ノンアルコールにしておくかと無難にコーラを選んだ。
音源は何とかボディバッグに入ったが、残念ながらTシャツは入らなかった。着いて早々に松井が買って渡してきたお揃いのマフラータオルでぎゅうぎゅうだった。これは後で松井の鞄に入れさせてもらおう。先ほど立っていた場所に戻ると、豊前はコーラがなみなみ注がれたプラスチックコップを傾けた。喉を通る炭酸の弾ける泡の音に、さっき聴いたバンドのメロディが頭を過ぎる。あの曲も買った音源の中に入ってるのだろうか。帰ったら篭手切から再生機器を借りなくては。今から聴くのが楽しみだった。
ステージ上に目を向けると、音合わせが終わるところだった。いよいよ松井が心待ちにしていた大トリの出番がやって来る。ステージ前にできた人の山は今までで一番大きい。今度は一体どんな音が飛び出してくるのだろうかと、後ろで見ている豊前も何だかそわそわしてきた。
照明が落ちて静まり返ったステージ前。固唾を飲んで演者達の様子を見守っているのが、ここにいてもよくわかる。その中には松井もいるはずだ。皆が今か今かと待ち侘びる中、ライトがくるりと向きを変えて照明が点灯した。その色は赤一色だった。
真っ赤に染まったステージで、雷雨のように激しくかき鳴らされるギター。荒々しいギターリフのスコールが群衆を煽っていく。あちらこちらから雄叫びが上がり、次々に拳が突き上がった。豊前は突き上げられている拳の中によく知るものを見つけた。あれは松井だ。間違いない。遠目からでもあの緑青色の爪はとてもよく見える。もしかしたらこの歓声の中に松井の声も混じっているのかもしれない。一緒に来たのだからと松井はずっと遠慮していたが、豊前にしてみれば松井も楽しくなければ一緒に来た意味が無い。終わった後にどんな顔で戻ってくるのかを楽しみにしながら、豊前は残りのコーラを飲み干した。
――まるで夏の夜の嵐だった。
押し寄せる音の波に飲み込まれ、気づけばアンコールも終わって終演のアナウンスが流れていた。松井はステージ前から移動する人の波に乗って豊前の所に戻ってきた。すごかった……と良い意味で呆然としたままの松井は、ステージ前の人だかりでもみくちゃに揉まれてきたのだろう。髪の毛は乱れ、Tシャツにはしわが寄っている。見た目こそよれよれで満身創痍だが、その顔にはやり切ったという満足感がありありと浮かんでいた。
豊前は松井の乱れてしまった髪を軽く直すと辺りを見回した。……よし、誰も見ていない。豊前はかすめ取るような早業で前髪が張りついて剥き出しになった松井の額にちゅっとキスをした。ワンテンポ遅れて何をされたのかを理解した松井が言葉を発するよりも早く、豊前は預かった帽子を松井に被せた。
「前の方に行ってみて良かっただろ。楽しかったか?」
「うん。すごく楽しかった。……豊前は今日どうだった?」
「俺も楽しかったよ。いい体験ができた。また一緒に来ような」
その言葉に松井の表情がぱっと輝いた。一緒に来てくれたのはいいけれども豊前がつまらないと感じていたらどうしようかと、松井はずっと案じていた。でも、今の一言で分かった。豊前も心の底から楽しいと思ってくれたのだと。松井はそれだけで十分だった。豊前は松井の理解者だ。でも、すべてを分かってくれとは言わないし、松井もそれを求めてはいない。
松井は帽子を被り直した。帽子の下の緩んだ表情筋はなかなか元に戻ろうとしてくれない。――どうしよう、興奮して今夜は眠れそうにないや。松井が小声でそう言うと、一瞬間を置いてから寝なけりゃいーんじゃね?と豊前から返ってきた。それは下心かと問えば、さぁどーだろなと笑ってはぐらかされる。誤魔化は禁止だと抗議をしたら危ないと言われ、人混みから庇うように軽く肩を抱かれて引き寄せられた。
終演を告げる打ち上げ花火の音が辺り一帯に響き渡る。人混みの中で触れ合った手の熱さ、互いに盗み見た鮮やかな花火の色に染まる横顔と胸の高鳴り。どれもこれも、刀では決して体験する事ができなかった、人の身を得たからこそのもの。夏の夜空に華やかな彩りを添える大輪の花と共に、ひと夏の思い出は確かにふたりの中に刻まれていった。
【終】
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