今日の松井江は詰所当番だ。詰所当番は本丸玄関脇の詰所で有事に備えるのが主な仕事で、昼間は出入りする刀剣男士達のチェック、夜間は本丸内の見回りを行っている。月に数度回ってくる詰所当番。松井は通用門を見通す事のできる重箱櫓の二階の上にいた。有事の際には多人数が詰める事のできる櫓だが、何故か本丸創設当初に来た蒐集家の男士の物置と化している。万が一の時には投石の要領でこの茶器や花瓶も使ってもいいという事だ。ここに置くという事はそういう事で、本人も承知の上である。
櫓の二階、欄干から足を出して手持無沙汰にぶらぶらと振りながら、松井はそろそろ遠征から帰ってくる予定の部隊を待っていた。ここは着見櫓も兼ねている。部隊の帰還を確認して、部隊員の無事を屋敷にいる主にいの一番で知らせるのが役目。それに、万が一が起きるとしたら帰還した遠征部隊を迎えるために門が開いた時だ。その時は警鐘を鳴らすと同時に真っ先に向かわねばならない。なので着ているものも内番着ではなく戦闘衣装(さすがに暑いので外套は脱いだ)で得物はすぐ手の届くところに置いてあるし、気を張らねばならない役目といえば役目なのだが、夏の日としては涼しい午後の気持ち良さには勝てなかった。
今日は夏疾風もおとなしいし、眩しい夏日もここまでは差し込んでこない。時折涼風が抜けて松井の髪を揺らしていく程度だ。それでもやはり夏は夏。向こうの景色は陽炎で揺れているし、じとりと肌に纏わりつく湿気も否定できない。持参した水筒の中身も随分と軽くなっていた。
――風が気持ちいいな。
不意ににそんな台詞が口を衝いて出た。この台詞は彼の口癖のようなもので、それが移ってしまう程に僕は彼の近くにいたのだろうか。完全に無意識だった。己の呟きを反芻した松井は思わず手で口元を覆ってしまった。この一瞬で体温が上がった気がする。熱中症ではない熱が、ほんの少しだけ。上がってしまった熱を冷ますように、松井は水筒に残っていた麦茶を一気に呷った。遠征部隊が帰ってきたら今日の当番は終わりだから、飲み切ってしまっても問題ない。
一滴残らず飲み干した松井は手の甲で口元を拭うとふうと一息つき、ぱちんと水筒の蓋を閉めた。
「松井ー?」
階段を上がってくる足音。それに気づくのがわずかに遅れた。突然背後から声をかけられた松井はたいそう驚き、振り向き様に向こう脛をがつんと欄干にぶつけてしまった。……痛い。脛を押さえて声も出せずに悶絶している松井に、声の主が慌てて駆け寄ってきた。
「わ、悪ぃ……。驚かすつもりはなかったんだが……」
「大丈夫、気にしないでくれ。その、僕も慌てただけだから……」
心配そうに覗き込んできたのは豊前江だった。松井もいつもならこんな失態は犯さなかった。何の気なしに感じた事が豊前の口癖で、これが彼がいつも感じている事なんだと意識してしまったのを誤魔化そうとさえしていなければ。ぶつけたところを見せてみろと、心からの善意で申し出て戦闘衣装の下衣の裾を捲り上げようとしてくる豊前の手を、松井は大丈夫だからと言い張って何とか制した。今頃赤くなっているだろうし明日には青紫色の痣になるんだろうけれど、今この場で豊前に診せるのは何だか憚られた。気分的な問題である。
「でーじょうぶだと思うけど、あんまし痛いようなら医務室行けよ」
「うん。後からで打ち身の薬を貰っておこうかな」
「そーしとけ」
豊前が松井の隣に座り込んだ。たった今欄干にぶつけて涙目になる松井を目撃したところなので、欄干の隙間から足を投げ出すような真似はしなかった。足を組んで座り、後ろに手をついて夏風を堪能している。
「風が気持ちいーな」
あぁ、やっぱり。思う事は同じだった。先ほど己が発した台詞と同じような事を言う豊前に、松井はくすりと忍び笑いを溢してしまった。それを見た豊前が何か面白いものでもあったのかと訝し気な顔をするので、僕もさっきそう思ったと松井は素直に告げた。しばし二振り並んで無言のまま夏の空気に身を任せる。この沈黙は嫌いじゃない。わずかに触れ合う指先から松井は隣の存在を感じていた。
「松井のこの後の予定は?」
「遠征部隊が帰ってきたら当番が終わる。その後は何も無い」
「夜は花火やろーぜ」
「花火?」
「そう。短刀達の付き添いで万屋に行ったら、線香花火貰ってさ。二本しかないから俺と松井の分」
豊前は松井の方を向くと、にっと笑ってそう言った。小さないたずらや度胸試しを思いついた子どものような、そんな笑み。
「……こっそりやったら怒られない?」
「花火せっと買ったからでーじょうぶ。全員揃えばそっちは明日の晩にでもやろーぜ」
「やる気だね。わかったよ。みんなの予定を聞いておく」
みんなやりたい事をやればいい。江の者達に常々そう説く豊前は自分のやりたい事ももちろんやる。しかし他の江の者達よりもやりたい事が少ないのか、率先して何かやりたいと言い出す事はあまり無い。そんな豊前がやりたい事を主張しているのだ。豊前だってやりたい事をやればいい。だから松井はいつも調整役を買って出ている。好奇心やチャレンジ精神を通り越した無謀という名の危険な事だったり、みんなを置いてひとりでどこか遠くへ行ってしまうような事でなければ。
「よろしく。粟田口の連中がやってるの見て、何かやりたくなったんよ」
豊前がやるなら松井もやるし、それに対する協力は惜しまない。でも万屋で買ったという花火セットの中身は先に検めさせてもらう。少々派手すぎる吹出花火を買っていないか確認しておきたい。先日の粟田口花火大会で大騒ぎになったので。やるなら方々に連絡をしてからやらないと、煙と音で生活指導班の刀がすっ飛んでくる。僕と篭手切で頭を下げる羽目になるんだろうな、おそらく。松井は豊前からは見えないようにしながらそっと胃の辺りを押さえた。
「遠征の奴ら、帰ってきたみてーだな」
足音に気づいた豊前につられ、松井も門の方に視線を向けた。開いた門から帰還した遠征部隊の面々が入ってくる。ぱっと見たところ、目立った外傷は無し。きちんと資材や収穫物も手に入れてきているし、しかも小判箱も持ち帰ってきている。遠征は大成功だった。主もさぞかし喜ぶ事だろう。
屋敷に向かって歩いてくる男士達の中に、松井はぴょこんと跳ねる双葉を見つけた。同胞の脇差、篭手切江だ。彼はこの遠征部隊の隊長だった。無事に行って帰ってくる事ができて本当に良かった。幸いな事にこの本丸で遠征の途中で何か事件に巻き込まれたという例は無いが、万が一という事もある。多少の疲れの色は見えるが怪我もなく、至って元気そうな篭手切に松井は安堵した。
「手ぇ振ったら気づくかな?」
欄干に上半身を預けた豊前が、篭手切に向かって大きく手を振った。ぶんぶんと音が聞こえてきそうなくらいに大きな振りだ。松井も隣で同じように手を振ってみた。豊前よりは控え目な小さな振りだが。
「うーん……さすがに距離があるから難しいね」
今日の物見番が松井だという事は知っていても、さすがに豊前がここにいる事は知らない。何故なら今日の豊前は畑当番で、桑名江(ちなみに今日の桑名は非番である)の指示のもと、ぼやきながら畑仕事に勤しんでいるはずなのだから。思ったよりも早く作業が終わったのか、それとも戦力外通告を出されたのか。そこは松井のあずかり知らぬところである。
不意に篭手切が立ち止まった。一緒にいた男士に何やら言付けをすると一振りその場に留まり、ぱっと視線を上に向けた。見上げた先は物見櫓の二階部分。豊前と松井の姿を認めた篭手切が破顔した。その笑顔に、向日葵の花が咲いたみたいだなと二振りして同じ事を思う。櫓の上の豊前と松井に向かって、篭手切が全身で大きく手を振った。
――充実した遠征でした!
遠征は大成功だったみたいだ。部隊長としての役目を立派に果たしてきた篭手切のそんな声がここまで聞こえてきそうだった。
「さすが脇差。目がいいっちゃ」
脇差の偵察力は侮れない。この分だと松井がお帰りと言った事にも気づいているだろう。聞こえていなくてもきっと伝わっている。その証拠に、篭手切は見上げたままその場を動こうとしない。このままだと二振りのいる櫓にやって来そうだ。早く汗と汚れを落としておいでと、松井は微笑で篭手切を促した。土産話はその後でゆっくりと聞こうじゃないか。松井の意図が伝わったのか篭手切は櫓の二振りに再度手を振ると、屋敷に向かってぱたぱたと駆けていった。
「……そうだ。歌仙が冷蔵庫に西瓜を切って入れておくと言っていた。報告が終わって篭手切が戻ってきたらみんなで食べよう。まだ残っているといいのだけれど」
「桑名達はまだ畑だろうから呼んでくる。ついでに冷蔵庫の中も見てくんよ。売り切れてたら何か違う冷たいもん貰ってくる」
「ありがとう。……ん?桑名達?」
「そう。当番じゃねーけど、五月雨と村雲もいた。助っ人だとよ」
本来の当番である君は畑にいなくていいのかと、松井は喉まで出かかった言葉を引っ込めた。畑仕事をあまり好まないとはいえ当番をさぼるような事はしないから、大丈夫なのだろう。……たぶん。
「じゃ、松井も終わったら部屋に集合な。……いや、やっぱ外で食うか。縁側で」
昔馴染みの彼の言葉ではないが、夏の午後の縁側に風鈴と西瓜は雅だ。松井は豊前の提案に乗っかった。
「了解した。また後で」
松井の返事を聞くと、豊前が立ち上がった。んーと軽く伸びをしてから、何を思ったのか少し屈んで松井の顔を覗き込む。豊前の行動に疑問符を浮かべた松井だったが、ん、と軽く突き出た唇で合点がいった。そんな仕草も様になるから本当にたちが悪い。
「……甘えた」
まだ仕事中だからこれで我慢と、松井は豊前が首に巻いていたタオルを外して首筋のほくろに軽く口づけをした。そこにしたのはほんの少しの悪戯心だ。心なしか塩辛い気がするのは、畑仕事に精を出していたからだろうか。畑当番に入った者達はみな、口を揃えて野菜の収穫が追い付かないと言っている。
収穫といえば、今日の夕飯は何だろう?夏野菜の天ぷらがいいな。揚げ物は暑いから厨当番が嫌がるかもしれな。でも、食べたい。夏野菜の天ぷらと言えば、この間食べた西洋の麺(すぱげってー、だっけ?)に夏野菜の天ぷらを乗せた冷たい麺料理も大変美味だった。頼めばまた昼餉に出してもらえるだろうか。よし、物は試しでお願いしてみよう。松井の思考は虚を突かれた豊前を置き去りにして、斜めの方向に飛んでいた。
松井の行動に一瞬静止してしまった豊前だったが、すぐに目を細めて松井と目を合わせた。豊前のどこか意味ありげな視線に気づいてこちら側に戻って来た松井の胸が、どきりと小さな音を立てた。
「また後で、な」
――あつい。
松井は豊前の体温を感じた。前髪の生え際に滲む汗。まつ毛が触れるか触れないかのぎりぎりまで松井に顔を近づけた豊前は、そう告げると先に櫓を降りていった。タンタンと階段を降りていく足音は遠ざかり、代わりに蝉が鳴き始める。その場に残された松井はというと、豊前の反撃に動転していた。
”後”というのは、一体いつを指しているのだろうか。この後みんな揃って縁側で西瓜を食べる時なのか、今夜こっそり二振りだけで線香花火をやる時なのか、それとも……。
今日はまだ涼しいと思ったけれど、やっぱり夏だ。暑いし、熱い。急上昇してきた諸々の熱を誤魔化すように、松井はぱたぱたと手で自身を扇いだ。
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もしかしたらこんな日もあるかもしれない、豊前と松井のとある夏の一コマ。
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