基線◯号
2024-06-25 13:20:48
895文字
Public エッセイ
 

将来に対する漫然とした不安をなんとかしたい


前書き
 本編に入る前に少々説明しておきたいことがある。このエッセイは本来、気晴らしの方法についてメリット・デメリットを比較し、エッセイの形にすることで、将来の自分に対する記録にする予定であった。しかし、この気晴らしの方法について断片的にメリット・デメリットを書いていたところ、これらの方法に共通点を見出すことができ、このことについて書いた方が面白そうであると判断した。つまり、今回のエッセイに構成なんてものはなく、ただでさえ読みづらい文章がさらに分かりづらくなっている、ということである。このことはどうしてもあらかじめ書いておく必要があった。

本編

 今回タイトルにした、将来に対する漫然とした不安、という言葉・感覚が違和感なく社会に受け入れられているとする。この仮定を真とした場合、不安というものは、原因がはっきりしているものと、そうではないものの2つに分類できそうである。

 原因がはっきりしている不安であれば、不安の発生源を無くしたり、自分から離す努力をすればいい。自分で抱えきれないくらい大きな不安なら、恥などと思わずに誰かに助けを求める努力をすればいい、というように、努力の方向性がはっきりできるのである。対して、原因のはっきりしていない不安については、自身の悲観的な未来予測からくるものではなかろうか。そうであれば、気を紛らわすための行動にこだわる必要はなくなる。美文字の練習をしたり、長時間の散歩をしたり、SNSをしたっていい。ゲームをしてみたり、呼吸法を試してみるのもいい。

 これらの方法はすべて現在に集中すること、少しの達成感を得られること、の2つを備えている。遠い未来のことを考えてもどうにもならないのであれば、変えられる現在に焦点を当てる。そして、少しの達成感から得られるちっぽけなポジティブさ。これだけで漫然とした不安は頭の中から消えてしまう。

 こう書いてみると、不安に囚われている時こそ動く、という結論になりそうだが、身体が頭の言うことを聞いてくれない、という状況はままある。そんな中、身体と頭を引きずりながら今日も私は散歩に行くのである。