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桐子
2024-06-23 21:48:12
3087文字
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最愛⑤(父水)
「しばらく一人にしてほしい」
妖怪病院から帰った水木は、ゲゲ郎にそう言った。
「
……
そうか」
目も合わせず、疲れ果てた様子の水木を見たゲゲ郎は何も聞かず、鬼太郎を連れて出ていった。何かあれば烏を飛ばすようにと言い残して。
一人になった水木は、ふらつきながら布団に潜り込んだ。
きっとゲゲ郎は、水木に対して負い目を感じているのだ。子どもを堕ろさせたことを後ろめたく思っている。だからこそ、水木の望み通り一人にしてくれたのだろう。
これでしばらくはゲゲ郎にばれないはずだ。この子を産むまで、いや、せめてもう少し大きくなるまでは、絶対に気づかれてはいけない。堕ろせないほど大きく育ってしまえば、ゲゲ郎だって諦めてくれるはずだ。
水木は胎児に語りかけた。
「お前は俺の子だよ」
たとえ幽霊族でなくても、父親に愛されなくても、水木だけはこの子を可愛がってやるつもりだ。どんな子でもいい、元気に生まれてくれればそれだけで充分だ。いつかゲゲ郎に背を向けられる時が来ても、その時にこの子がいれば耐えられる。己の自分勝手な欲のために生まれる子が哀れだったが、それでも水木にはもうこの子しかいないのだ。
「安心して生まれてこい」
まだ膨らんでさえいない下腹部を撫でてながら、水木は眠りに就いた。
つわりはしばらくするとぴたりと止まった。
だが、次は倦怠感と強烈な眠気に苛まれるようになった。起きている間も、意識が途切れそうになるほどの強い睡魔に襲われるのだ。それでも水木は周囲に悟られないよう、必死に仕事をこなした。少しでも油断すれば倒れそうな状態だったが、それでもできる限りいつも通りに振る舞った。
休みの日にはたまった家事をする間もなく一日中眠っていて、起きたら夜中だったこともある。
そうしているうちに季節は移り変わり、やがて雪がちらつくようになった。腹は次第に大きく膨らみ始め、厚着で誤魔化すのもそろそろ限界になってきた。水木はついに仕事を辞め、家に引きこもって過ごすことが多くなった。
「寒いなぁ」
雨戸を開けると、冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。
水木はゲゲ郎の半纏を着込んで、洗濯物を干そうと狭い庭に出た。そうすると、隣の家の塀に止まった烏と目が合った。
(ゲゲ郎たちは元気にしているだろうか)
しばらく一人にしてほしいと言ってから、ゲゲ郎には会っていない。いつ彼が戻ってきて、子を堕ろしていないことがバレたらどうしようとひやひやしていたが、結局一度も顔を合わせずにここまで来てしまった。
ゲゲ郎は水木のことを心配してくれているだろうか。もしかしたら、鬼太郎とともに妖怪の世界で過ごすうち、水木のことなどどうでもよくなってしまったのかもしれない。元々人間を嫌っていた男だ。窮屈なこちらの世界ではなく、のびのびと穏やかに暮らす方が性に合っているのだろう。
水木は無意識のうちに、大きく膨らんだ腹を撫でていた。
「大丈夫、大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、何度も呟いた。
「俺にはお前がいるからな」
腹に向かって話しかけると、返事をするように中から蹴られたような気がした。
洗濯物を干し終わり、買い物を済ませて家へ帰ると疲れ切ってしまった。厚着していても、さすがにこの腹はごまかしきれず、乾物屋の奥さんに「お腹に水がたまってるんじゃない? 悪い病気かもしれないわ」と声をかけられたのだ。「最近太ってきたんですよ」と笑って誤魔化したが、いつまでも隠し通せるとは思えない。
「ふう
……
」
こたつの中に潜り込み、座布団を頭の下に敷いて横になる。少し休んだら、夕食の用意をしよう。それと赤ん坊のために、そろそろ肌着や新しいおむつを用意しておかないと
……
。
水木はうとうとしながらそんなことを考えていたが、やがてそのまま深い眠りに就いてしまった。
どれくらい経った頃だろう。
ふと目を覚ますと、部屋の中が暗くなっていた。少し眠るつもりがまた夜になってしまったようだ。
「
……
ん?」
目を擦りながら体を起こした水木は、視線を感じて上を見た。
「
……
ひっ!!」
暗い部屋の中、ゲゲ郎が無言で水木を見下ろしていたのだ。ぎょっとして起き上がったが、その拍子に半纏がめくれて腹が見えてしまい、慌てて前を合わせた。
「どういうことじゃ」
ゲゲ郎は抑揚のない声で言った。丸い目は水木の腹を凝視している。水木は観念して、畳の上に座り直した。
「その子は堕ろしてくれと言ったはずじゃ」
「ああ
……
でも、俺はどうしてもこの子を産みたい」
今度は水木が、手をついて頭を下げた。
「頼むゲゲ郎、どうか許してくれ。お前が迷惑だというなら、俺一人で育てるから」
「馬鹿者!」
ゲゲ郎は水木を怒鳴りつけた。聞いたことのない激しい口調だった。いつも穏やかな男が、これほど激しい怒りを見せるなんて
――――
水木は身を竦ませ、下を向いたまま震えていた。勝手なことをした水木にあきれ果て、本当に捨てられてしまうかもしれない。
「わしは
……
わしだって
……
!」
しかし、ゲゲ郎はそれ以上何も言わなかった。代わりに水木の肩を掴み、そっと抱き寄せた。
「ゲゲ郎?」
水木は驚いてゲゲ郎の顔を見た。彼の表情からは、先ほどの激しさは消えている。だがその代わりに、今にも泣き出しそうなほどつらそうに顔を歪めている。
「ゲゲ郎
……
お前」
「人間に耐えられるわけがない」
ゲゲ郎は水木を抱きしめながら、絞り出すように言った。
「腹の子は幽霊族の子なんじゃぞ。ただの人間のお主が耐えられるわけがない。子も無事ではすまんじゃろう」
どうして、と言いながらゲゲ郎は泣いていた。大きな目からぽろぽろ涙がこぼれ、水木の頬を濡らしていく。
「だったら最初からそう言ってくれれば、俺だって」
「言えばお主は自分を責めるじゃろう。お主を孕ませたのも、堕ろさせるのもわしじゃ。わしが全て背負うから
……
だからもう二度と、こんなことはしないでくれ」
そう言ってゲゲ郎は水木を強く抱きしめた。しばらく黙ってゲゲ郎の背中を撫でていた水木は、やがて小さく笑った。
「
……
なんだ、そうか。そうだったのか」
「何がおかしいんじゃ」
ゲゲ郎がむっとしたように唇を尖らせた。
「いや、嬉しいんだよ。お前はやっぱり優しい奴だと思って。俺はこの子が幽霊族じゃないから、そんな子どもは欲しくないんじゃねぇかって」
「馬鹿なことを言うな」
本気で怒った顔をして、ゲゲ郎が言う。
「幽霊族だろうが人間だろうが、水木とわしの子じゃぞ。わしだって本当は、欲しくて欲しくてしかたがない。じゃが、お主の命と引き換えにしてまで欲しいとは思わんよ」
「ゲゲ郎
……
」
「水木、わしはお主に生きていてほしい。お主さえいれば、他のものは何も要らん」
薄暗い部屋の中でも、ゲゲ郎が穏やかな目をしてこちらを見ているのが分かった。そんな彼を見ているうちに、水木も胸がいっぱいになって、気がついた時には彼と一緒に涙を流していた。
どうしてゲゲ郎の気持ちを疑ったりしたのだろう。彼はこんなにも水木を思ってくれている。この愛情深い男が、種族が違うからといって子どもを愛さないはずがない。ゲゲ郎だって、我が子を殺すことがつらかったのだ。二つを秤に掛け、水木の命を優先したからこその選択だったのだ。
――――
自分はなんて愚かだったのだろう。
「明日、ともに妖怪病院へ行こう。まだ間に合うかもしれん」
「ああ
……
」
これ以上ゲゲ郎を悲しませることはできない。水木は静かに腹をさすりながら、小さく頷いた。
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