7flowerS
2024-06-23 07:00:39
5399文字
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姉のむかしの話③ いることが当たり前になっていく

織田姉弟の昔話。姉よりの視点。やはり弟はヒトで自分はヒトではない。だからそばにいないほうがいい。しかし慕う弟の顔を見ているとその日を先送りにしてしまう信長だった。連載の夫婦ごっこから過去話のみ抜粋。

 誘拐事件の二週間後、やっと信勝は外を歩き回れるほど回復した。

 九つの信勝の足はまだふらふらしている。しかし小走りでなにかを探していた。屋敷の外に出るときょろきょろと周囲を見回した。

「姉上!」
……なんじゃ、ようやく起きたんか」

 ちょうど帰るところの姉を見つけて弟は駆け寄った。ちょうど鷹狩りをした帰りでまだ十二歳の信長は少し疲れていた。

「姉上、あの……
「もう、わしに近づくな」
「え……?」
「お前は怖がりがすぎる、わしとは気が合わん」

 信勝の顔から感情が消えた。内心信長も戸惑っていた。人を殺した姿に怯えられて一線引こうと思っていた。けれど久しぶりに見た弟の顔を見ると妙にホッとしていた。やっと起き上がることができたのだ。

(お前はそれでいい、そっちの世界にいろ)

 ヒトの世界が弟の居場所だ。異質な姉のそばにはいなくていい。

「じゃあな」
「待ってください、姉上! ……怒っているのですよね」
……?」

 別に怒っていたわけではない。しかし妙だ。弟はわんわん泣くと思っていたのに現実にはただ申し訳なさそうだった。

「あの時、助けていただいたのに僕が吐いたりして……ずっと謝らなければと思っていたのになかなか動けなくて。姉上、申し訳ありませんでした」

 すっと弟が頭を深く下げた。さっさと去るつもりだった姉はそのつむじをポカンと見つめてしまった。

 信勝は頭を上げるとまっすぐに信長を見た。

「そしてありがとうございます。姉上は僕の命の恩人です。必ずこの御恩はお返しします」
……変なやつじゃな、お前は」

 最後の態度との落差に戸惑う。最後に見たのは恐怖に引きつった目だった。今はただまっすぐな眼差しだった。

「全部僕が悪いのです。僕が弱いからあの時姉上の血を拭ってさしあげられなかった。しばらく近づくなと言われても仕方ありません。姉上が怒るのは当然です……寂しいですけど」
……

 苦しそうに目を伏せる。なんだこれは。この弟は初めてだ。拒否すればただ泣いていかないでというだけだと思っていたのに。

「あの、姉上、しばらくは近づきません。でも……その内また、前みたいに」
「別に怒っておらん」

 信長は信勝の頭に手を伸ばした。そっと触れるような撫で方。信勝の目が丸く見開かれた。

「あ、姉上?」
「怒っとらん。ただお前がわしに怯えるから近寄るのはよせと思っただけだ」
「姉上に怯えたのではありません! ただ……僕が情けなかっただけなのです。血に怯えるなんて、武士のくせに」
「もういい、ついて来たければ好きにせよ」
……姉上!」

 パッと花が咲くように笑う。緊張が解けたのだろう。信勝は九つの子供に戻って姉の着物の裾を握った。

 結局、いつものように二人は一緒に屋敷の門へと歩く。

「あの姉上……
「今度はなんじゃ」
「おかえりなさい、姉上!」

 また春の花のような笑顔を浮かべる。その笑顔を見ると信長は信勝と距離を取ることをすっかり忘れてしまった。





 思えば弟は妙なところで聡明で、頑固なほど誠実でそれで何度も距離をとり損ねた気がする。





 ある日、信長は妙なものを見た。

 信長が木刀を持って城下を歩いてるとこの前十歳になった信勝が同じ年頃の少年たち三人に囲まれている。信勝は擦り傷を作って、地面に膝をついている。

(まーた、いじめられてるんか)

 呆れ半分日常半分ちょっぴり怒りな心境で信長は家の影からそっと様子を伺った。

 しかし様子がおかしい。信勝の泣き声が聞こえない。いじめられるとすぐ泣くはずなのに信勝は泣いていなかった。それどころか一人の足に自ら飛びかかって、振り払われても抵抗していた。

「いい加減にしろよ! お前殴ると親がうるせえんだよ!」
「う……うるさい! お前、謝れ! 謝れよ!」
「しつこんだよ! 弱いくせに! てめ、いってえっ!?」

 何度も殴られたのに信勝はいじめっ子の足にしがみつき、ガブっと噛み付いた。

 信長は目を丸くした。あの臆病者の弟が反撃している。三人相手に謝れとまで言い返している。信勝は掴みかかった相手に足蹴にされていたがそれでも噛み付くことをやめなかった。

……あいつなりに、成長しているのか)

 いつまでもいじめられて姉に泣きつく弟ではないのかもしれない。考えれば当たり前だ。

 どうしよう。いつもは悪ガキを追い払って助けていた。しかしこれが弟なりの戦いなら横から姉が介入していいものか。

 信長が悩んでいると信勝の声が聞こえた。

「このっ! でかい家の子だから手加減してやってんのに!」
「うるさい! 謝れ、謝れ! 姉上に謝れよ!」
「本当のことを言って何が悪い! いってぇ!? いい加減離せ!」

 信長の思考が停止した。

(わし?)

 一人の子供が拳ほどの石を拾って信勝の頭に振りかぶった。しかし直撃する直前に信長が割って入った。石を持った手を軽く捻りあげる。

「うちの弟になにする」
「げっ、男女が来たぞ!」

 信長は一瞬で三人の子供の肩や腰に木刀で打ちつけた。

「いってぇ! ……うつけが来たぞ! うつけが感染る! 逃げろ、逃げろ〜!」

 そう言って蜘蛛の子を散らすように逃げていく。強いものが来ると正直だなと呆れていると信勝の行動にまた目を丸くした。

 しかしまだ信勝は立ち上がっていじめっ子を追いかけようとしていた。慌てて信長が着物を掴んで止める。しかし信勝は叫び続けた。

「おい、いい加減にしろ。傷だらけじゃ」
「逃げるな! 待てよ! 謝れ! 姉上に謝れ!」
……いいからこい!」

 自分がなんだというのか。

 信長はまだ暴れる信勝を引きずって木陰に運んだ。あちこち血が流れているので信長は新しい手拭いで拭う。やはり痛いのだろう。目端に涙が滲んでいる。

「まったく、三人相手に正面から向かうからこんなことになるんじゃ……おい?」

 信勝はボロボロと大粒の涙を流した。

「ごめんなさい、姉上。僕、なんにもできなかった……いつも姉上に助けてもらってるのに」
……全く、今日はどうしたというのじゃ。一体、なにがあった? 泣き虫のくせに噛み付いたりして」

 その涙は自分の痛みのためではない。それは感情を読むことが苦手な信長でもわかった。弟は自分の無力が悔しいのだ。

「だって……あいつら、姉上のひどい悪口言ってたから。姉上に謝らせたくて必死に掴みかかったけど……結局負けちゃって」
……

 大体内容は予測がつく。大人たちだって奇抜なことばかりする信長の陰口を言うのだ。それを家で聞いている子供がなにを言うのか想像はつく。

「僕、なんにもできなかった。あ、あんなひどいこと言う奴らやっつけてやりたかったのに。姉上の前に連れていって謝らせることもできなかった」
「信勝」
「僕は助けられるばっかりで、姉上の足手まといで、一体いつになったらあなたを助けられるようになるんだろう。ごめんなさい、僕は……姉上?」
……もういいから休め」

 信長は信勝の肩を抱いた。そして頭をぽんぽんと撫でた。……いつも泣いて後をついてくるだけの弟だと思っていた。

「わしはなにを言われても気にせん。お前は帰って傷の手当てをしろ」
「これくらい僕は平気です。ほら……い、痛っ!?」

 無理に立ち上がって足の痛みに信勝は今日初めて自分の痛みに泣いた。信長はなにも言わず弟をおぶって帰った。

(臆病なくせにこんな怪我するまで戦うなんて変なやつ)

 不思議な気持ちだった。自分は遥かに強い姉なのにそれでも弟はそんな姉を守ろうとしたのだ。守られるというのは妙な心地がする。






 弟の世界はヒトの世界、姉の世界はヒトの異端者の世界。
 その二つは交わらぬと理解していたのに、その笑顔を見ると、その言葉を聞くともう少しだけと決意が先延ばしになっていった。





 信長が十五になり元服する頃、十二になったばかりの信勝にいつものように笑顔で話掛けられた。

「なんの用じゃ、信勝?」
「姉上、ーーーーーーーー、ーーーーーーーーー」
……?」
「ーーーーーー、姉上、ーーーーーーーー」

 ああ、この時が来てしまった。

 弟の声が完全に聞こえなくなった。元々最近はぶつ切りでしか聞こえなかったがぷつっと完全に消えた。内容はわかっている。いつもの今日はどこに行きますか、だ。信長の「聞こえない」は人の言葉の内容が分からないのではない。その価値が感じられなくなるのだ。だから信長は少しづつヒトに価値を感じられなくなった。

 昨日まで感じられていた弟の言葉の妙な気持ちになる温もりや距離が近過ぎて面倒に感じる心すら消えた。

 弟はこれでも大分マシな方だった。他の人間は父を除き十を過ぎた頃にはヒトの言葉の価値が分からなくなった。顔を合わせるとなじる母の言葉も面倒だとすら感じなくなった。信勝の言葉も十を過ぎた頃から半分は価値が分からなくなったがそれでも半分は価値が心に感じられた。何故だったのだろう。家族だからだろうか、信勝が普通のヒトより聡明だったからだろうか、ずっとそばにいたからだろうか。

 なんにせよ、それももう終わりだ。

「ーーーーーーー、ーーー、姉上!」

 じっと見ると弟の顔はぼやけ、白く塗りつぶされていた。それでも分かる。さっきまで笑っていたからいつもの少し困ったような笑顔だろう。

……姉上?」
……信勝?」

 なぜか信勝の「姉上」という言葉だけはそれまでと同じように聞こえた。

 こうして信長は弟の言葉と笑顔を感じることはできなくなった。

 そして少しずつ距離を取るようになった。距離を詰められるとこれまでより強く拒絶した。ただ……時々聞こえる「姉上」という声につい時々ついてくることを許してしまった。





 もう弟の声を聞くことはできない。けれど弟を見るといつもあの日見せた春の花のような笑顔を思い出すことができた。痛みを顧みず姉のために戦ってくれた。その記憶だけで十分だった。





 父が死んだ。死ぬ前に女の信長を後継に指名して。

 すると織田家は信長派と信勝派に別れた。

 誰の言葉の意味も感じられず、すっかり無気力になっていた信長はこう思っていた。

(織田の家督に興味はない。誰の声も聞こえんし、誰の言葉も心に響かない。お前たちの好きにしろ。……父上のやつ、余計なことを)

 そう思って父の葬式で抹香を位牌に投げつけた。驚きと軽蔑の眼差しが心地いい。どうせ自分にはヒトの声が聞こえない。そんなヒトを治めることに興味など失せた。

「お前たちの好きにしろ、わしは知らん」

 そう言って父の葬儀を立ち去った。かつては信勝に天下の新しい形を語った。自分にはそんなほら話をした思い出だけで十分だ。

(昔からの保守派は信勝を推すだろう、好きにすればいい。どうせわしにヒトの声は聞こえない。信勝が継げばいい)

 葬式の後信勝はよくヒトに囲まれていた。

「信勝さま」「信勝さま、お話が」「信勝さま、やはりあなたさまの方が」
「ど、どうしたんだ、お前たち。急に……

 そうだ、そっちがいい。

 重臣たちに戸惑うような笑顔を浮かべる信勝に信長は背を向けた。

(信勝、やっぱりお前の世界はそっちだったろう、ヒトよ)

 そうして信長は無気力に多くの家臣たちが信勝を囲んで怪しげな話をする光景を放置した。





 とはいえ、今更女の生き方などできない。どこかに嫁いで子を産むなど考えられなかった。元々形に嵌れないのが信長なのだ。

「信長さま、此度の鷹狩りはいかにしますか」
「ふむ、陣形を組め。形はこれにしろ」

 鷹狩りを戦に見立てて手下たちに指示を出す。形に嵌れない自分に一番向いているのはやはり戦だ。自分は男で通っている。家督は信勝に渡し、その下で一族のものとして型破りな戦をするくらいがちょうどいいだろう。

 鷹狩りが成功すると参加していた織田の家臣に話しかけられた。確か戦で成果を上げ、結構いい地位についた男だ。

「信長さまは見事です! これが戦でしたらこちらの圧勝でしょう!」
「ふむ、それもいいな」
「やはり信秀さまは正しかった……確かにあなたさまは女子ですが、間違いなく織田の家を継ぐのはあなたさまがふさわしい! あなたさまならこれからの戦を勝ち抜けます!」
「ふん……そんなもの興味はない」

 信長は誰の声も意味がわからないことに何処か自暴自棄になっていた。

 だから自分の才能が昔からの織田の家臣や地位に関係なく集めた手下たちを魅了していく姿を無視していた。
 信勝を推す家臣たちの冷ややかな視線をどうでもいいと視野に入れなかった。
 そして織田の家の信長派と信勝派の対立が激化して行くことを他人事のように眺めていた。

(わしは織田の家督などいらん。派閥など無意味なことを。わしが欲しがらんのに争ってなんの意味がある)

 だからそのことについて一度も信勝とちゃんと話をしなかった。