桐子
2024-06-22 22:11:24
1948文字
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最愛③(父水)


昨日よりはいくぶん気分が楽になった。
満員電車に揺られ、会社へ向かいながら、水木はずっと考えていた。
(本当にここに、子どもがいるのか)
下腹を見下ろしても、そこには何の変化もない。しかし、確かにこの中には小さな生命が息づいているのだという。
男の身で子どもを産むなんて恐ろしいし、不安しかない。だが、子どもができたと知ればゲゲ郎はきっと大喜びで、「産んで欲しい」と言うにちがいない。ゲゲ郎の喜ぶ顔を思い浮かべて、水木はふっと微笑んだ。
鬼太郎のことをあれだけ可愛がっているのだから、きっと子どもが好きなのだろう。それに、この世でたった二人になってしまった幽霊族の末裔として、子孫が増えることは純粋に喜ばしいだろう。
何よりも、ゲゲ郎に今度こそ赤ん坊を抱かせてやりたかった。鬼太郎が赤ん坊の時には、体が朽ちて目玉だけだったのだ。生まれたばかりの赤ん坊を抱いて嬉し涙を流す――――そんな男の姿を見ることがかなうかもしれない。
相変わらず胸のむかつきはあったが、理由が分かっている分、昨日までとは気持ちがまるで違う。今日家へ帰ったら、ゲゲ郎も戻っているはずだ。どんな顔をするか想像すると、満員電車も少しも苦にならなかった。


「おお、水木。おかえり」
「おかえりなさい」
水木が帰宅すると、予想通りゲゲ郎が帰宅していた。ちゃぶ台に頬杖をついて座り、鬼太郎が宿題をしているのを見ていたらしい。
「烏に呼ばれて慌てて帰ってきたのじゃが、どうした?」
「あー……まあ、大したことじゃないんだが」
水木はちら、と鬼太郎に目を向けた。さすがに鬼太郎の前で子ができたという話はしにくい。ゲゲ郎もそれを察してくれたのだろう、それ以上は追及してこなかった。
食事を終え、風呂をつかって居間へ戻ってくると、鬼太郎の姿はなかった。
「鬼太郎は?」
「墓場へ遊びに行ったぞ」
水木は渋い顔をした。子どもが夜に出かけることに抵抗があるのだが、幽霊族とはそういうものだと言われてしまうと、強く注意することもできない。
「ところで水木よ」
「なんだ?」
「わしに何か話があるのではないか?」
穏やかだが、いくぶん心配げな表情でそう切り出された。水木はゲゲ郎の横に腰を下ろすと、意を決して口を開いた。
「実は、ちょっと具合が悪くてな」
「風邪か? 医者には行ったのか」
心配そうな問いかけに、水木は首を横に振った。
「吐き気がして、熱っぽいんだ。それで、砂かけさんに診てもらったら……妊娠していると言われた」
気恥ずかしくて視線を下に向けたままそう言うと、息を飲む気配が伝わってきた。そのまましばしの沈黙が続く。まさか驚きすぎて気絶でもしているのだろうか。何も言わないゲゲ郎に焦れて、水木はおそるおそる顔を上げた。
だが、彼は水木の全く予想していない顔をしていた。薄い眉をひそめ、暗い顔をして水木の腹を見つめている。――――明らかに水木の妊娠を喜んではいない顔だった。
「すまん」
ゲゲ郎はぽつりと言った。
「水木や、その子は堕ろしてくれ」
今度は水木が言葉を失う番だった。
「な、んで……
かすれた声でそれだけ絞り出すと、ゲゲ郎は静かな声で言った。
「理由を言ったところで、お主は納得できんじゃろう。何も言わずに堕ろしてくれ。……だが、全てはわしのせいじゃ」
ゲゲ郎は畳に手をついて頭を下げた。
「お主につらい思いをさせて、本当にすまん」
ゲゲ郎がこんなに必死に謝る姿を初めて見た。水木は呆然と、ただその背中を見ているしかなかった。
この子どもは父親に望まれていないのだ――――そのことがただただ悲しい。だが、ここでごねたり、ゲゲ郎を責めたりしても仕方がない。これは二人の責任なのだから。
水木は、まだ下げたままになっているゲゲ郎の後頭部に話しかけた。
「分かった。次の休みに堕ろしてくる」
「そうか」
ゲゲ郎は水木の返事を聞いて、明らかに安堵した様子を見せた。それがまた悲しかった。
「妖怪病院へ行くといい。わしも付き添う」
「一人でいい」
「いや、しかし」
「自分でちゃんと始末をつける」
ぴしゃりとそう言って立ち上がり、隣の部屋へ行って襖を閉めた。ゲゲ郎は追いかけてこようとはしなかった。
暗い部屋の中で布団の中にくるまり、水木は声を殺して泣いた。どうして――――という言葉ばかりが頭の中に浮かんでしまう。どうしてこの子を喜んでくれないのか。暗い顔をして「堕ろしてくれ」と言うのだ。ゲゲ郎に子どもを抱かせてやりたかった。だから、子どもが出来たことを喜ばないわけはないと思っていた。それなのに、どうして……
水木は、自分の腹にそっと手を当てた。そこにいるはずの小さな生命は、今の自分にはひどく遠い存在に思えた。