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千代里
2024-06-20 12:57:56
14251文字
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リーブラ13話
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リーブラの針は問う・13話・その18
「私がメリュジアヌ様に出会ったのは、ノエ様が生まれる少し前のことでした」
食堂の二階に上がり、仲間たちから少し離れた席に着いた後。ノエの向かいに座っていたプリシラは、運ばれてきた紅茶を一口含んでから、ゆっくりと口火を切った。
それまで、プリシラは場を繋ぐかのように、当たり障りのない世間話を口にしていた。
とはいえ、時間は有限だ。もう十分に場が整ったと判断したのか、一線を画したプリシラの気配にノエも居住いを新たにする。
「当時、私はメリュジアヌ様が住まわれている別邸のそばにあった、小さな村で暮らしていました。わけあって、私は実家に戻ってきた所だったのです。働き口が見つからずに途方に暮れていた私の元に、領主様が召使を募集していると知らせが来たのが、全ての始まりでした」
その求人は、プリシラの目からも少し奇異に映るものだった。領主の代替わりは先日行われ、その際にいくらか求人もあった。それなのに、再びこのような辺境で召使を募集するのかと不思議に思うのは当然だ。
だが、働き口がなかったプリシラにとっては、この上なくありがたいことでもあった。
だが、今思えば、とプリシラは付け足す。
「
……
あれは、きっと表舞台に出られないメリュジアヌ様のために、新たに召使を雇い入れる必要があったからこその雇用だったのでしょうね」
ノエも、プリシラの意見には賛成だった。
ベルナールの話からも、彼は正妻として平民の女性を迎え入れることはできないと分かっていたようだ。
しかし、秘密裏に妾を養うとしても、平民と同じような質素な暮らしをさせたくないとも考えた。それが、彼なりの責任の取り方だったのだ。
故に、ベルナールは貴族の基準で「最低限」と思える暮らしをメリュジアヌに与えることにした。その中には、自分の妻のの世話をする召使の存在も当然含まれていた。
「初めて私がメリュジアヌ様にお会いしたとき、正直少し驚いた覚えがあります。私は、以前別の家で下働きをしていたので、なおさらそう思ったのかもしれません」
プリシラにとって、貴族とは平民と一線を画する存在だった。際立って傲慢な性格ではなくとも、彼らは自分と平民の間に線を引いてしまう生き物だ。そのように、プリシラは理解していた。
「ですが、メリュジアヌ様はそうではなかったのです。私よりも年下だったからかもしれませんが、彼女は貴族という肩書きが似合わない、素朴な人に見えました。着ているドレスにも馴染んでいなくて、佇まいも平民のそれと大して変わらなくて
……
。ですが、それが彼女が貴族に見そめられた平民上がりの娘だからだと、私たちも程なく知りました」
「僕のお母様が、父の
……
愛妾に過ぎなかったことは、公然のことだったのですか」
「流石に、旦那様の前で大っぴらに口にする者はいませんでしたよ。ですが、噂というものはどこから伝わるか分かったものではありませんから」
プリシラの顔に浮かんだ苦笑いからも、当時の屋敷の様子が窺い知れる。
皇都と違い、平穏な生活が続くばかりの辺境では、噂話ですら格好の娯楽の種だ。領主様の愛妾の存在は、それだけ人々の好奇心を刺激したのだろう。
「それでも、メリュジアヌ様は私たちの振る舞いなど気にせずに、屋敷の女主人とはかくあるべしといった様子で振る舞われていました。屋敷に来た当初こそは、気後れしているようにも見えましたが、ちょうどノエ様がお生まれになった頃には、自分こそがこの家の主人だと強く自覚されたようです」
「
…………
」
一瞬相槌すら忘れて、ノエは自分が生まれた頃の記憶の中にある母の顔を思い出そうとした。だが、当然ながら生後間もない自分が目にした光景など、記憶にあるわけがない。
そもそも、母が存命だったのはノエが八つの頃までだ。何度も心に思い浮かべていた母親の顔が、本当にありし日の母と全く同じであると言える保障すら、今となってはどこにもない。
「ノエ様という子供を得て、メリュジアヌ様は母として強くあらねばと思われたのかもしれませんね。彼女自身、身寄りのない身だったからこそ息子を大事にしたいと話していました」
「お母様の家族は、亡くなっていたのですか」
思わず、といった様子で、ノエはプリシラに問いかける。
「ええ、そう仰られていました。雲霧街に残している家族もいないからこそ、メリュジアヌ様はベルナール様の申し出がとてもありがたかったと話していました」
考えてもみれば、ノエは父の両親のことも、母の両親のことも、真剣に意識したことがなかった。
ヒトが虚空から生まれるわけがないので、彼らにも両親はいたはずだと分かっていても、ノエにとっては顔も合わせたことのない相手を関係者だと思えなかったのだ。
だが、父のベルナールにとって実の父親や母親から向けられた息子に向けられた期待は、最終的にノエを見捨てる遠因にもなった。
ノエの人生において、ノエの祖父母は全く無関係というわけではないことは、既に示されている。
「身よりがないからこそ、子供を宿した自分がこの先どうなるか不安だった
……
ということですか」
「はい。メリュジアヌ様は、自分がどのような場所で生活していたかについては、普段はほとんど話をされませんでした。きっと、あの頃の暮らしを思い出したくなかったのでしょうね」
ノ母が貴族の生活にのみ意識を傾けるのは、昔の生活に戻りたくないからだと、ノエはそう思っていた。貴族の贅沢を知ってしまった母は、それに執着し、惜しんだのだと。
だからこそ、最初からそんなものを知らなければ、母は大人しく雲霧街でノエと慎ましやかな生活を送れたのではないか
――
などと、母を無責任に囲った父や伯父を恨んだものだったが。
そんな考えは、実態を知らないからこそ言えることだったのではないか。
「かつての生活については頑なに口を閉ざしていたメリュジアヌ様が、一度だけ、私に当時の様子を詳しく教えてくださったことがあったのです。ノエ様がお生まれになった直後で、メリュジアヌ様は産後の疲れもあって熱を出して、しばらくノエ様と離れて療養されていたときでした」
その場面を見ていたわけでもないのに、ノエの瞳にはありありと当時の光景が浮かんでくる。
暖炉に赤々と火を灯した部屋の中、ベッドに横たわる母。息子から離され、思うように動かない体に苛立ちを覚え、この先自分が命を落とすようなことがあったら息子はどうなるのだろうかと不安を抱えた女性の姿が、手を伸ばせば届くかのように明確に浮かび上がる。
「メリュジアヌ様も、不安だったのかもしれません。もし、このまま命を落とすようなことがあれば
……
そんな想像が、彼女の口を軽くしたのだと私は思っております」
自分のことなど何も知らないヒトたちばかりのこの邸で、もしこのまま己のことを語らずに命を失ってしまったら。
自分の歩んできた人生は、誰にも知られずにつゆと消えるのか。
息子は母親の生きた軌跡すら知らずに、母の存在を忘れていくのか。
それは、当時のノエの母にとっては到底無視できない恐怖となって彼女を蝕んだのだろう。
「母は、父に会う前にどのような暮らしをしていたと語っていましたか」
「メリュジアヌ様は、皇都の下層にある雲霧街で生まれ育ったと話していました。物心ついた頃には父も母もおらず、同じような境遇の子供たちと身を寄せ合って暮らしていたそうです」
「ご両親は、病で亡くなられたのでしょうか。あの場所は、あまり衛生的とは言えないと聞いています」
雲霧街とは、きらびやかな皇都の上層部と対極をなす場所だ。上層部の貴族は、豊かな財源をもとに自らを飾り立て、豪奢な生活を送っている。
一方で、雲霧街の人々は明日の食べ物にも事欠く生活を送っている。近年の寒冷化により、眠ったまま凍死する人も増えているようだ。それは、確かにイシュガルドが抱える闇の一つの形だった。
しかし、ノエの予想に反してプリシラは首を横に振った。
「では、事件か事故に巻き込まれて?」
「いいえ。メリュジアヌ様ははっきりとは申し上げませんでしたが
……
おそらく、奥様のご両親は、幼かった娘を捨てて蒸発したようです。そもそも、父親の方は顔も覚えていないということでしたので、母親が子供を宿したと知った時点で姿をくらましたのでしょう」
「
……
そう、でしたか」
自分の母方の祖父は、そもそも幼い母を顧みることすらしない人物だったようだ。
一時の関係に過ぎないのに、子供を宿したとなれば少なからず責任が付き纏ってくる。そこから逃れるために、父親になるはずだった男は母子を放棄する道を選んだ。
「そして、母親の方もメリュジアヌ様が物心つくかつかないかの頃に、彼女の元に帰ってこなくなったそうです」
両親に共に望まれず、残された小さな娘は同様に見捨てられた子供たち同士で身を寄せ合って、どうにか命を繋いでいた。それは、ノエの全く知らない母の姿だった。
「小さな頃は、夜中に上層の商店に忍び込んで、仲間と共に残飯を探して店の勝手口を覗き回るのが日課だったと仰っていました。まるで、冗談を口にするかのように軽い調子でしたが
……
辺境ではあっても、一介の農家として両親と共に生活していた私には想像もできないような苦労だったことは、すぐに想像できました」
ノエの目にも、痩せ細った少女が商店の勝手口に忍び込み、ゴミを漁っている姿が容易に想像できてしまった。
ノエの記憶に残っている母との思い出が、不意に痩せ細った少女のそれと重なる。砂糖をたっぷりと淹れた紅茶ばかりを望んでいた彼女の横顔が、凍える指先で必死に残飯を漁る姿と重なり、混ざり、滲んでいく。
「大きくなる頃には、安宿の従業員として雇われて、そこで生計を立てていたようです。とはいえ、それも小鳥が啄む麦穂のようにささやかな金額だったそうです。体調が悪くなっても、仕事を休もうものなら食事を得るお金もなくなってしまうので、熱が出ても仕事はしなくてはならなかったと仰っていました」
「それなら、母にとっては弱った体をベッドで休んでいられることも。、休んでいる間に食事が運ばれることもとてもありがたいことだったのでしょうね」
「ええ。まるでお姫様のようと、子供のようにはしゃいでおられましたよ」
当時のメリュジアヌの振る舞いを思い出してか、プリシラは目を細めて何度も頷く。
プリシラは、ノエの母より少し年上の頃合いだ。メイドだった頃の彼女の目には、平民上がりの女主人は自身の妹のように見えていたのかもしれない。
「宿に立つ女として、より稼ぎを得る方法はあったそうですが、メリュジアヌ様はその仕事だけは嫌がっていたようです。その選択をしたら、自分は母親と同じ選択をしてしまうかもしれないから、と」
それが一体どんな仕事なのか、プリシラに説明されるまでもなく、ノエも察していた。
性別を問わず、肉体的な関係を持つのは、最も手軽に金銭を得る方法の一つだ。
しかし、メリュジアヌの母がそうだったように、望まぬ形で子供を得る可能性もある。自身の子供を、『要らないから』という理由だけで捨てるような人にはなりたくない。メリュジアヌは、自身の母の姿を思い出して、自分なりの道を貫いていたのかもしれない。
「ですが、確か父と母は雲霧街で出会ったと聞きましたが
……
商売をしていたわけではないのなら、一体どのような経緯で二人は知り合ったのですか」
「メリュジアヌ様のお話によると、お忍びで雲霧街にきていたベルナール様が、メリュジアヌ様を酔漢から庇ったのが、最初の出会いだったそうです」
ベルナールとしては、騎士道精神に従ってか弱い女性を悪漢から守ったつもりだったのだろう。だが、酔っていたはいえ、相手は客でもある。メリュジアヌが原因で客に迷惑をかけたなら、咎められるのは従業員である彼女の方である。
宿から賠償金を求められた女性を、ベルナールは再び庇おうとした。金の問題なら、自身の手持ちにある金で解決してしまおうとした。
「だけど、メリュジアヌ様は断固としてベルナール様の施しを受け入れなかったそうです。何の理由もなく渡されるお金など、怪しくて到底受け取れないと。それくらいなら、正当な形で自分から対価を差し出すと言い張ったそうですよ」
「それはまた
……
僕の母は随分と頑固な方だったのですね」
「とはいえ、メリュジアヌ様としては、そんな風に言われたらベルナール様が怖気付いて逃げ出すと思ったと仰っていましたよ。あまり頼もしい殿方には見えなかったとか」
プリシラが思わず笑い出しそうに口元を綻ばせているのは、当時のやり取りを思い出したからだろうか。ノエも、父と母の馴れ初めを細かに聞けるとは思っていなかったので、思わず目を軽く見開き、言葉の続きを待った。
「ベルナール様は、メリュジアヌ様のお言葉はもっともだと受け入れて、メリュジアヌ様が提示した一夜を買ったそうです。
……
実際は、単に夜通し話をしていただけだったそうですけどね」
メリュジアヌのような平民から挑発されても怒りもせずに、ベルナールは彼女の言葉に従った。その様子に、メリュジアヌはすっかり毒気が抜かれてしまったらしい。
彼女としては、馬鹿な貴族の坊ちゃんが身の程知らずにも、面倒ごとに首を突っ込んできただけだと侮っていたのだ。なのに、私と一晩過ごすなら金を受け取ってやると言われて、律儀に一晩を買う貴族の男に呆気に取られてしまった。
しかし、このような貴族の誇りに泥を塗るような目に遭えば、再び訪れることはないだろう。そう思っていたメリュジアヌの元にベルナールが再度姿を見せたのだから、彼女は一体何でまたやってきたんだと呆気に取られてしまった。
呆然とする彼女に、ベルナールはまた自分と一晩共に過ごしてほしいと頼んだ。その意図を最初こそメリュジアヌは理解しかねたが、やがて言葉を重ねるうちに彼女は気がついた。
「メリュジアヌ様の目にはベルナール様がどう映ったか。その全てを私が知っているとは言えません。ただ、奥様がおっしゃるには、あの時の旦那様は非常に疲れ切っていて、自身が休める場所を必死で探している敗残兵のように見えた、とのことでした」
貴族でありながら、思うように生きることもできない男の姿に、ノエの母は一体何を感じたのか。具体的な形を知ることはできなくとも、ノエは今ここにいる。それが、まさに一つの答えだ。
「奥様は、自身が懐妊したことを、なかなか伝えられなかったと話していました。ベルナール様が自分を見捨てるのではないかと危惧されたのだとか。きっと、ご自分のお父様のことを思い出されたのでしょうね」
「でも、父さんはお母様を見捨てなかった」
「ええ。メリュジアヌ様は大層安堵したと話していました。自分に魔が差して、かつての母のように息子を疎むような日が来ずに済んだことが何よりの救いだと、彼女はそう言っていましたから」
ノエの母にとって、自分が生きるだけでも必死な雲霧街では、息子を育て切る自信がなかったのだろう。
それでもゆきずりの貴族の男と関係を持ったのは、せっかくできた貴族との繋がりを強くするための打算だったからなのか。それとも、純粋な愛情からだったのか。
できれば、後者であってほしい。実際、プリシラが語る母の言葉を信じるなら、彼女は夫となる男を愛していたのだろう。
しかし、語られる言葉の全てをノエは信じられなかった。
なぜなら。
「
……
だったら、どうしてお母様は、僕が男じゃなかったら殺していたかもしれない、などと言ったんでしょうか」
プリシラに言っても仕方ないことだと分かっていながらも、ノエの口からそのような言葉が飛び出していた。
「ノエ様
……
?」
「プリシラさんは、ご存知でしたか。お母様は、確かに僕をとても大事に育ててくれました。今思えば、少し過保護なぐらいに。でも、あの人は確かに言ったんです。僕が男でなかったら殺していたかもしれない、と」
プリシラの驚いた様子に、彼女が直にその言葉を聞いたことがないのだと知る。
だからこそ、今一度自分の中に根差した感情を言葉にしなければならないと、ノエは溢れ出る感情を吐き出す。
「どんな理由があれ、都合が悪くなったからとお母様を切り捨てた父さんのことを、僕は認めたくない。けれども、同じくらい、分からなくなるときがあるんです。お母様にとって、僕は貴族の男との繋がりを作るための楔に過ぎなかったんじゃないか、と。僕も、お母様にとって都合のいい道具の一つに過ぎなかったのではないかと
……
そう、思うんです」
「
――――
……
そう、だったのですね」
どうにか、プリシラはそれだけの言葉を絞り出した。彼女に当たっても仕方ないと、ノエは一瞬乱れかけた息を無理やり整え、頭を下げた。
「
……
プリシラさんにとって、僕の母は大事な主人だったのでしょう。なのに、すみません。こんなことを言って」
「いいえ。私も、あの方が何も間違えない完璧な聖人であったとまでは思っていませんので」
プリシラは俯いているノエに寄り添うように、声のトーンを落として続ける。
「それに、ノエ様のお言葉を聞いて、正直私は
……
そのようなことをあの方が仰られても不思議ではないなと思っています」
「ですが、僕のお母様は、生まれる前から僕のことを案じるような方だったと」
「ええ。確かに、あなたがお生まれになった直後はそうでした。ですが、人がいつまでも一つの気持ちを抱けるかというと、それは難しいことだと言わざるを得ません」
「お母様が、心変わりをしたということですか」
プリシラは厳しさを残した面持ちで、それでもはっきりと頷いてみせた。
「心変わり、というほど明確なものではなかったのでしょう。ただ、彼女が不安を抱くようになったのは事実かと思います。好いた男が、いつまでも出会った時のような強い恋心を自分に対して抱いてくれるだろうかと不安を抱くのは、貴族だろうが市井の娘だろうが同じ感情だと私は思います」
しかし、メリュジアヌの場合は、その不安こそが大きな問題だった。
平民同士ならいっときの憂鬱で済んだものでも、彼女の場合は生活の変化と直結となってしまうのだから。
「メリュジアヌ様を別邸に住まわせてから二年ほどした後に、旦那様は正妻として貴族の女性を娶りました。旦那様は、それでもメリュジアヌ様を優先してくださっていたようですが
……
やはり、正妻とその子供の存在は、彼女にとって無視できないほど大きかったのでしょう」
正妻が容易に妾の存在を悟るほどには、ベルナールはメリュジアヌの元に通い続けた。それでも、世間体や領主としての仕事の多忙さもあって、その回数はかつてほど密ではなくなっていた。
どうしようもない理由があると分かっていても、メリュジアヌにはその変化が自分を捨てる前兆ではないかと危ぶんでしまった。
「その上、フィリベール様がお亡くなりになったことが、メリュジアヌ様にとっては大きな懸念の種となったのでしょう」
「伯父上が? どうして、そこに伯父上の名前が出てくるのですか」
夫妻だけの問題ではないのかと思いかけたノエは、ふと思い出す。
ベルナールは言っていた。自身の兄が足繁くメリュジアヌの元に通う姿を見て、自分の妻や息子すら兄がとっていくのではないかと嫉妬に駆られた、と。
「フィリベール様は、旦那様に対して、メリュジアヌ様を無責任に放り出すような真似はするなと忠言した方です。貴族そのものとは言わずとも、豊かな暮らしを与えるのが責務であると弟である旦那様に語っている姿は、メリュジアヌ様も何度か目にしていました」
「
……
けれども、伯父上は任務から帰ってこなかった。お母様は、自分の夫にアドバイスをしてくれた伯父上がいなくなることで、改めて貴族としてのあり方を思い直した夫が、自分を捨てるかもしれないと思ったのですか」
「その考えに一足飛びに至ったかは定かではありません。ですが、不安を加速させる原因になったのは確かでしょう」
何とかして、メリュジアヌは己の力だけで、貴族の夫を繋ぎ止めなければならなかった。
助けとなってくれる夫の兄は行方を絶った今、自分の手札だけでこの先続く人生を保障する何かを得なければならないと焦った。
そうでなければ、自分はまた寒々しい世界に追いやられる。一度あたたかな世界を知ってしまった以上、メリュジアヌにとってそれは耐えられない変化だ。
とはいえ、彼女には後ろ盾もない。夫を惹きつけ、己を安心させられる材料など数が知れていた。
それでも、彼女は後ろ盾を持っていない身を最大限活用して、領主の仕事で疲れたベルナールをもてなした。貴族の縁とは関係ない温かな時間を提供し、夫の心が少しでも長く己に傾くように、夫が望むような幸せな時間を提供し続けた。
正妻が産めなかった息子の存在すらも、メリュジアヌにとっては自分と夫を繋ぎ止める大事な『材料』となっていたのだろう。娘しか産めなかった正妻より、跡取りを産んだ自分の方が優れている。己を安心させると同時に、己が正妻より優れていると誇示するための題材。それがノエだった。
地位がない妾であるからこそ、そのほかのところで優れていると声高に主張せねば、メリュジアヌは正妻と『対等』に向かい合うこともできなかったのだ。
その言葉を、考えの断片を、ノエが聞いているとも知らず。
「
……
あなた様が生きていると知った時、あなた様の心の中には一体どんな形で奥様が残っているか、私にとってそればかりが気がかりでした」
第三者の目線で親子を眺めていたメイドだからこそ、プリシラは親子の別れを悲しみ、残された子供の中にいる母親の像がどんなものとなってしまっているかを危ぶんだ。
「ノエ様にとって、最も強く記憶に焼き付いている奥様の姿は、あの事件が起こった直前の頃のことでしょう。あの頃のメリュジアヌ様は、ノエ様が先程おっしゃったように、自分の地位を守るために必死でした。それがノエ様のためなのか、ご自分のためなのか、それとも両方のためなのかは
……
私のようなものには推測しかねることではございますが」
「
…………
そう、ですか」
プリシラの言う通り、ノエの記憶にはどれだけ意識して遡ろうとしても、かろうじて自身が七つだった頃の母の記憶しかない。それすらも、父に見捨てられたショックから、できる限り温かな記憶に触れたいと思うばかりに、無意識で捏造したものかもしれないのだ。
「ですが、確かにメリュジアヌ様はノエ様を慈しんでおられたと、私はそう思っております。ノエ様が初めて言葉を発した時は、何度も『もう一度ママと言ってごらん』と繰り返して、子供のようにはしゃいでおられました。メイドの私が面倒を見ておくから休むようにと言っても、『私の見てないところで、ノエが新しいことをするかもしれない』と言い張って、なかなか休んでくれなくて困ったこともありました」
プリシラの言葉の中には、赤子の成長の一挙一動をすべて目に収めようとする母の姿があった。
ノエの記憶の中にはなくても、それを覚えている人がノエに伝えてくれたことで、ノエもまたかつての母の姿を思い描くことができる。
「ノエ様は、活発な男の子でしたから。歩けるようになったら、それはもうどこまでも歩いて行こうとして、召使も奥様も始終ハラハラしていたものです」
「そうだったのですか? えっと
……
全く記憶にないのですが」
「記憶にないのは、ある意味幸せかもしれませんね。ノエ様が転んで大泣きしたことですとか、絨毯の毛を毟りすぎて房飾りを全部取ってしまったこととか、メイドの私が抱き上げようとすると大泣きして奥様に抱かれるまで泣き止まなかった話とか、覚えていても困りますでしょう?」
プリシラは当時の様子を思い出してか、目を細めて口元を緩める。対するノエは、幼い頃の自分の失態を知らされて、カップを持ったまま真っ赤になっていた。
「旦那様にも、なかなか懐かなかったのですよね。知らない大人だと思ったのか、すぐに奥様にしがみつかれて、旦那様の腕の中ではずっと大泣きしていたのですよ。随分な甘えん坊だと、旦那様も困っていたものです」
「そ、そうですか
……
」
話しながら、何となくノエも想像できてしまう。
母の腕の中で穏やかに眠っていた赤子が、父の腕に渡された瞬間火がついたように泣き出す。それを見て父は慌てて、どうしたものかと母で目線で問いかける。母は面白がって、くすくすと笑うばかり
――
。
(
……
きっと、そんな光景が当たり前の時もあったんだろうな)
プリシラの語った母親の姿は、ノエが必死に縋り付いていた優しい思い出とは、やや趣が異なる。かといって、あまりに強烈な言葉のために焼き付けられた、打算的で冷酷な母親の姿とも違う。
おそらくは、ノエの母も、先日対面したベルナールと同じなのだ。
(子供から片時も目を離したくないと思うお母様も、子供すらも夫を繋ぐ道具のように思ってしまったお母様も、きっとどっちも
……
確かに、お母様の姿なんだ)
ノエはメリュジアヌとベルナールの子供であるが故に、子供の目線から二人を見てしまう。見捨てられたと思えば、なぜそんなことをしたと怒りを抱くし、ただ利用していただけだと言われれば悲しくなってしまう。
けれども、ベルナールやメリュジアヌらには、彼らの目線からしか見えない未来があり、彼らだけが経験した過去がある。それもまた事実だ。
ちょうど、ノエが両親に対して怒りや悲しみを抱いたことが、誰にも否定できないのと同様に。
「ノエ様は、少しでも苦味がある食べ物は、絶対に食べようとしませんでしたからねえ。私の作ったサンドイッチをノエ様がぺろりと平らげている姿を見たときは、我が目を疑いましたよ」
「プリシラさんの作った、サンドイッチ?」
「ええ。お連れのお嬢さんが怪我をされて、ノエ様が初めて教会に来たときにお出しした料理は、私が作らせていただいたものなのです。あの時、ちらりとノエ様のお顔を拝見しましたが、その時はまだノエ様がノエ様である確信が持てていませんでした」
「ああ
……
あのとき、アラン司祭の元にやってきた方が、プリシラさんだったのですね」
オデットと一緒にお詫びとして出された昼食を口にした後、その場を後にするノエたちと入れ違いで、一人の女性が入ってきたことは覚えている。それが、プリシラだったのだ。
思えば、部屋を去る前にやけに視線を感じたが、あれはプリシラがノエの姿を目で追ってしまったからなのだろう。
「顔を目にした時間もほんの数秒でしたから、全く確信は持てませんでしたが
……
今こうして見ると、ノエ様は間違いなくノエ様であると確信が持てました。だって、お顔がそっくりですもの」
「それは
……
父に、でしょうか」
ノエの髪色や目の色は、父であるベルナールから継いだものだ。だが、プリシラはゆるゆると首を横に振る。
「色は確かにそうですが、それだけではありませんよ。目元の柔らかな様子や口元は、奥様のメリュジアヌ様によく似ておられます。お嬢様に笑いかけておられる姿など、まるで奥様を見ているようでした」
懐かしさに目を細めるプリシラ。対照的に、ノエはやや戸惑いを滲ませながら、自分の顔に手を伸ばし、その頬に触れる。
(
……
僕は、やっぱり二人の子供なんだな)
当たり前の事実だが、ノエは改めて噛み締めるように思う。
幼い頃に起きた事件のせいで無惨に引き裂かれてしまった、母と父に繋がる部分。そこが、見えない糸で繕われ、少しずつあるべき姿を取り戻そうとしているのが自分でもわかる。
けれども、そこに描かれる繋がりは、幼いときに描かれていたものとは異なるのだろう。
あるいは、何も起きずに両親と共に暮らしていたノエとも異なる姿であるのかもしれない。
家から放り出され、ウヴィルトータと寒空の下、各地を彷徨ったノエだからこそ描ける世界。母と父のつながりを見つめ直して、新たに紡ぎ直した自分が、幼い自分よりも良いものであってほしい。今、ノエが思えることがあるとしたら、それだけだ。
「
……
プリシラさん、今日はありがとうございます。僕のために、貴重な時間を使っていただいて」
「いいえ、構いませんよ。あの頃のことを覚えている者は、殆ど残っていませんでしたから」
「
……
そうですね。形はどうあれ、僕のお母様の存在は、正妻の女性を異端の道に追い込んでしまった。だから、彼女は」
その後の顛末は、わざわざ語るまでもない。当時の混乱は、現場にいたノエもよく知っている。
プリシラもノエの意見に賛同するように頷いてみせたが、カップを置いて暫しの沈黙を挟んだ後に、
「
……
確かに、私たちは正妻であるワルギリア様が心を病んで異端者の囁きを受け入れてしまったものと思っていました。旦那様もそう思ったからこそ、メリュジアヌ様が異端者であると吹聴したのでしょう」
「もしかして、事実は違うのですか?」
当時、大人として現場にいたプリシラなら何か知っているのではとノエは問う。しかし、プリシラはゆっくりと首を横に振った。
「十五年も前のことです。事実は定かではありません。ただ、異端者がどのような扱いを受けるか、そのリスクを十分に知っているはずの、貴族として育ったワルギリア様が、メリュジアヌ様への嫉妬に駆られたとはいえ、軽々しく異端の道に堕ちるものだろうか
……
と思うことはありました」
「ですが、事実、彼女はドラゴン族に変異していました。それは、僕もこの目で見ています」
「はい。ですが、もし望まぬ形でドラゴン族に変異する方法があるとしたら
……
ワルギリア様を陥れようとした何者かがいたのかもしれません」
「それは
――――
……
」
ノエは、自分の喉元まで出かかった推測を喉の奥に押し込む。
プリシラは、一番可能性が高い人物の名前を敢えて口にしなかった。それは、本人がどうであってほしくないと、無意識で拒絶しているからか。それとも、わかっていても口にしてしまっては己の中で事実として固まってしまうのを恐れたからか。
どちらであったとしても、プリシラはそれをノエに伝えようとした。あの事件の生き残りであるノエには、知る権利があると思ったのだろう。
事実や最も高い可能性を提示しても、成長したノエなら受け入れた上で、己の意思で過去に向き合える。そのように思ってくれていたのだとしたら、かつて自分を育ててくれた人からの信頼に向き合いたい。ノエも、自然とそう思っていた。
「
……
形はどうあれ、正妻のワルギリア様も亡くなった。僕のお母様も亡くなった。その事実は変わりません」
「はい。おっしゃる通りです」
「どれだけ願っても、時を巻き戻すことはできない。でも、過去を知ることはできます。昔過ごした日々を、こうやって教えてもらうことも」
プリシラと正中に向かい合い、ノエはふっと口角を緩める。不思議と、心は自然と凪いでいた。母親がかつてどんな人物であったかを知り、彼女が歩んできた日々の一端を知れたことを、ノエは純粋に聞けてよかったと思っている。
きっと、父親と対面した日の夜のように、しばらくは苦しみ、思い悩むだろう。自分の中にあるさまざまな思い出が混ざり合い、重なり合い、どれが真実なのかと苦悩してしまうだろう。
それでも、また立ち上がっていけると、今度は確信を持ってそう言えた。
これまで何度も自分を支えてくれた仲間たちの存在が、ノエ自身が積み重ねてきた歴史が、ノエの確信の理由となってくれた。
「改めて、こうして話を聞けてよかったと思います。プリシラさんに出会わなければ、きっと僕は母のことを一面的な部分でしか、見ることができなかったでしょうから」
「そう言っていただけたのなら、これ以上嬉しいことはございません。私がこうして教会に勤めていたのも、きっと運命神のお導きだったのでしょう」
「そういえば、どうしてプリシラさんは教会に勤めるようになったのですか。こう言っては何ですが
……
引き続き、貴族のメイドとして働くこともできたのではありませんか」
教会の下働きの給金と、同じ下働きでも貴族の元に仕えた場合の給金では、明確な差があるはずだ。ノエの質問に、プリシラはひょいと肩をすくめて、
「私は、旦那様にとって都合の悪いことを知っている者です。そのような者を、当時の旦那さまは手元に置きたがりませんでした。むしろ、口封じをされなかっただけ幸運だった方でしょう」
プリシラの言う通り、もし彼女が異端者のすり替えの件を吹聴すれば、ベルナールは間違いなく失墜していた。それでもプリシラを自由にさせていたのは、彼女を信じていたからか、それとも自分が陥れた妻への引け目からか。
「とはいえ、私もメリュジアヌ様に罪を押し付けた旦那様の元で仕える気にはなれませんでした。それならばと、この教会に身を寄せたのです。ここならば、墓を作ることも許されなかった奥様とぼっちゃまのことを思って、静かに祈ることもできるだろうと思ったのです」
「
……
ありがとうございます、プリシラさん」
礼を言うのも変な話かもしれないが、ノエの口からは自然と感謝の言葉が形となっていた。
それは、今はここにいない母の代わりの言葉でもあった。
プリシラは「当たり前のことをしたまでです」と、ゆっくりと首を横に振る。否定ではなく、それは謙遜の所作だ。
「私の夫も息子も、私が奉公に出ている間に、竜によって殺されてしまいましてね。失意の私が実家に戻ってきたときに、女中として雇ってくれたのがメリュジアヌ様でした。ノエ様と奥様の存在は、私にとってはもう戻ってこない幸せがもう一度形になって、目の前にあるように思えたのです」
しかし、それは再びプリシラの元から奪われてしまった。ハルオーネ神が下す試練は、なぜかくも無慈悲で辛辣なのかと、世界を呪ったこともあった。
けれども、今、長い悲嘆の道を歩いてきた女性の前に、在りし日の輝きをまとった子供がいる。十五年の時を経て、成長した姿をプリシラに見せてくれている。
「本当に
……
ノエ様が、生きていてくださってよかった」
しみじみと、噛み締めるように彼女は言う。水気が薄れ、少し皺が目立ち始めた手がノエの手を包む。ただ一心に祈りを捧げ続けた女性の手を、ノエもまた柔く握り返す。
「あなたは不要と思われるかもしれませんが、何度でも言わせてください。ありがとうございます、プリシラさん。僕のために祈ってくれて。
……
お母様のために祈ってくれて」
そして、母の記憶をこうして繋いでくれて。
ありがとうございます、とノエは言う。
色ガラスから薄く差し込んだ光が包む空間の中、プリシラの目尻に淡く光るものが浮かび、静かに流れ落ちていった。
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