【化菫】『攫うにはいい夜だと思いませんか?』

扉一枚隔たれた彼方側にいるのはだぁれ?化菫👁️‍🗨️📚編。

 暇を出しているエアコンに変わり開け放たれた窓から入り込む人体にとって快適な温度と湿度を纏った夜風が部屋の空気を循環させる。カーテンの裾がおろしたてのスカートを穿きはしゃぐ少女のように靡き、薫風が納まると同時に慌てておしとやかを取り戻した。
 静寂さが染み渡る部屋に小気味よく奏でられるタイピング音。軽快に走り打ち込んでいた文章を目で追い、時折り逡巡の一時停止をしては再びアクセルペダルを踏む。
 紫縁眼鏡にパソコンのディスプレイ画面が白く反射したレンズ向こう、没頭していた意識が不意に途切れ一度瞬きした半眼がデスクトップを挟んだ向かい側にある本棚に視線を投げた。
 「もうこんな時間か」
 丁度目線の高さに置かれたデジタル時計に表示されている時刻に浅く息を吐く。
 筆が乗りに乗った結果、夜更けまで執筆活動に勤しんでいた菫子が凝り固まった腕と背筋を伸ばす。グッと息を止め脱力すれば、傍に控えていた眠気がひょっこり顔を覗かせる。そろそろ寝るかと欠伸を噛み殺し身に染み込んだ流れ作業で執筆途中の小説を保存後パソコンをシャットダウンさせた矢先、突如ドアチャイムが鳴らされた。
 首を捻り照明の落ちている玄関口を覗き込む。寝室から伸びる明かりが途中で途切れた短い廊下の終わり、薄暗い中ぼんやり輪郭が浮かぶ何の変哲もない玄関扉を目を凝らすもフッと力を抜いた。
 大方隣の部屋のものを聞き間違えたか、はたまた脳が勝手に”鳴った”と勘違いしたか。胸中独り言ちた菫子は今度こそ就寝すべく気を緩めた瞬間二度目のドアチャイムが鳴り響く。
 単なる気のせいだ、と鼻で笑い飛ばすにはあまりにもはっきり聞こえる音に息を顰め身構えた。
 時間も時間、珍しい正体不明の訪問客に訝しむ菫子の耳に届く聞き馴染んだ声。忘れたくても忘れられないその声音は常日頃やれ熟女だの恵体だの短太眉毛だの兎角楽しげに人の容姿を揶揄う友人のものだった。緊張していた心身を緩め、扉一枚隔たれた共同廊下にいるであろう彼の言葉に耳をすませる。
 近所迷惑にならない程度に声量を抑えられた主張を聞くに急な用事で訪れたという。以前彼の妹を急遽預かった身としては、今回も怪異関連の何かであると菫子は結論付けた。
 「情けない声を玄関先で出さないでくれ。今開ける」
 恰も同情を誘う演技染みた声色に不承不承腰を上げ玄関に向かう。呆れた表情で短い板張りの廊下を歩いている最中、ローテーブルに置かれたスマホが着信音を奏で画面に一通のメッセージを表示させた。

 ──出ては駄目です菫子さん

 だが、残念な事に菫子が玄関の鍵を開錠したのと同時にスマホの電源が不自然に落ち、菫子はメッセージが来た存在自体知る由もなかった。玄関照明のスイッチを見ずに点けドアノブに手を掛け扉向こうにいる訪問客にぶつからぬようそっと開ければ、やたら大袈裟に安堵している彼が佇んでいた。
 「こんな夜分遅くにすみません」
 「気にするな。私と君の仲だ」
 共同廊下に等間隔で設置された灯りの下。煌々と照らされる癖っ毛の黒髪、閉じ続けている目は口許と一緒に緩く弧を描き、小柄で背の低い童顔な彼の顔が嬉しそうに菫子を仰いだ。
 廊下で立ち話もなんだ、中に入って話そう。そう菫子に促され入室許可を得た彼の顔は益々喜色に染まる。
 やれ今度は正式な手段で部屋には入れるや、前回じっくり拝見出来ませんでしたが今回は隅から隅まで探索させてもらいますなどと宣う彼に菫子の眉間に皺が寄ったのは言うまでもない。いっそ追い返したい気持ちを頭を振い追い払った後、菫子は念のため放りっぱなしの下着がないか確認すべく足早に部屋に戻っていく。
 踵を返して顔だけ振り返り「すまない、鍵を閉めておいてくれないか」と後方にいる彼に言えば二つ返事が返ってきた。背中で玄関扉が閉まり鍵が施錠される音を聞き、ひとまず見られて困る物が部屋に散乱していないのを確認。
 律儀に部屋へ上がらず玄関口で待機している彼を呼ぶため振り返ろうとしたその時、菫子の肌が粟立ち背筋が凍り付いた。嫌な、とても嫌な気配に生唾を飲み込む。

 「どうしました菫子さん」

 ガラスを引っ掻く不快な音に酷似する聞き慣れない声音。
 使い古された表現もいい所だ、なんて変に冷静さを保っているもう一人の自分が「錆びついた秒針のように顔を、不規則に揺れる瞳孔を玄関口にいる彼に向けた」と頭の中で文章を打ち込んだ。
 自棄に五月蠅く身体中に響く鼓動。呼吸の仕方を忘れ、ぎこちなく息をしている間に靴を脱いだ彼が部屋に上がり此方に近付いてくる。勝手知ったる我が家の如く彼もまた玄関照明のスイッチの場所に目も向けず消した。途端、薄闇に包まれた廊下に浮かび上がった橙黄色の瞳が怯えた赤銅色の瞳と交錯する。
 「、っっ……
 突如襲い掛かる異常なまでの喉の渇き。膝を付き上手く声を発せられない喉を手で押さえている間に菫子の傍まで歩み寄った彼が目線の高さを同じにすべく腰を屈めた。今も尚、菫子は自身に降り掛かっている普通ではない現象を心配そうに窺っている彼に目と声にも満たない風鳴声で訴え続けた。
 顔を傾げ菫子の名を呼ぶ声は先程と変わらないものの、それでも気遣う気持ちは十二分に伝わってきている。
 不快な音に酷似する声音に紛れ、菫子の鼓膜を違う音色を拾う。開け放たれている窓から入り込む夜風が湿り気を帯び、その冷ややかな手が菫子の背中をそろり撫でた。弱々しかった雨脚が次第に篠突く雨へと変貌を遂げ、排水溝が急激に飲まされた雨水にごぽごぽ呻き始めた。
 部屋の湿度も上がり口腔内にある唾液をありったけかき集め微かでもいいから張り付いた喉を剥がすのに躍起になった。悪足掻き染みた動きで微量で泡立った唾液を喉奥に押し込み、何度目かの正直で漸く喉が張り付いていた違和感が消失する。
 「……化野くんっ」
 掠れ声も甚だしい。それでも、菫子は次の言葉を紡ぐため唇を閉じるのを狙っていたかのように沈黙を貫いていた菫子のスマホが無機質な着信音を歌う。デフォルト設定の着信音。あまりにも良すぎるタイミングに菫子の胡乱な目線が表示されている着信相手の名前を黙読するや否や半眼の目が大きく見開いた。
 そして、操作はおろかスマホに触れていないにもかかわらず通話アイコンがスライドされ通話が開始される。

 ──菫子さん、僕を部屋に上げてしまいましたね

 電話口の向こう、たしかに聞こえる同じバイト先で都度一緒のレジに入る口達者な友人の声に菫子は視線をうっそり微笑んでいる彼に戻した。
 一体何が起こっている。着信相手は友人本人のものだというならば、現在進行形で目の前にいる彼は誰だ。畏れ戸惑う思考とは裏腹に冷静に置かれた状況を推理し始める菫子の口角がやおらつり上がる。
 そして、そんな彼女の態度にやれやれと云わんばかりに電話口の向こう側から隠す気皆無の嘆息を吐いた友人は淡々と説明をし始めたのだった。



 菫子さん。そこにいるのは僕であって僕ではありません。いや、僕には変わりないのですが正確には”アダシノ レン”という存在が複数体に分裂した内の一体です。今あなたのスマホに電話を掛けている僕が主人格なのですが、生憎想いと執着が強い方が存在を維持する力を引っ張るのが強いみたいで……、綱引きに負けてしまいこのザマです。
 肉体は菫子さん、魂は乙、精神は情けなくしがみ付いてスマホから通話とそれぞれ振り分けられています。
 本来なら僕の警告があなたに届くはずだったのですが。流石僕と言わざるを得ない、まんまと妨害されてしまいました。
 しかし、オカルト好きを謳って置きながらこの体たらく。危機管理能力ガバガバじゃないっすか。
 丑三つ時に、何の連絡も入れず突如訪れ、玄関扉一枚隔たれた彼方側から聞こえる交流関係のある者の声。
 此処まで綺麗に揃っているんですよ? 気付けなくても呼び声に応じず、扉を開けず、部屋に招き入れなければ最悪な状況を回避出来たというのに……、本当に、あなたという人は……

 僕を信頼してくれて、とても喜ばしい限りです。

 複数体に分裂しても感情は共有されているようで菫子さんが僕の呼び声に答え躊躇なく玄関を開けてくれた時の嬉しさといったら。
 丁度肉体の僕があなたの手を取り、僕の胸に手を当てさせていると思いますが如何です? 心臓が馬鹿みたいにドクドク鼓動を打ち鳴らしているでしょう? それくらい嬉しかったんです。
 嗚呼、心配しないで下さい。分裂しても僕は僕ですから乙や菫子さんに命を脅かすような危害を加える事は一切ありません。特に乙に限っては未練たらたらに彼女の傍に漂うだけで何の力もない無力な存在。無様極まりない。

 ──菫子さん、あなたは優しい人だ。恐怖心を押し退け僕の身を案じてくれている。

 必死に解決策を考えてくれるだけで十分です。このスマホから話している精神もそろそろヤバくなってきました。安心して下さい消えやしません……、ただ、菫子さんを押し倒して馬乗りになっている肉体に引っ張られ混ざり合うだけです。
 いやー、凄いですね。全然舵がきかなければ手綱も引けません。しかも、あれだけ抑えていた情動が堰を切ったみたいで止まらない。止まる気配が全くない。これはもうお手上げもいいところです。
 なので菫子さん、諦めて僕にそのふかふか恵体の純潔を捧げ、って今更花も恥じらう乙女ぶっても熟女には変わりないので諦めた方が身のためですよ。
 嗚呼、肉体のキンキン声じゃ雰囲気もへったくれもありませんね。っ、すぐ、に……





 再びスマホの画面が暗くなったのに合わせ、菫子に跨っている化野が喉を擦り控えめな発声練習後、柔和で耳触りの良い声音で自身の下にいる菫子の名前を愛おしげに呼ぶ。
 「菫子さん、お待たせ致しました」
 刹那、菫子の自室に犇きあっていた肌寒い雨の匂いを纏う空気が急速に湿度が下がり熱を帯び出した。鼻につく何かが焼き焦げる臭い。一度だけ火災現場横を通り過ぎ嗅いだ臭いとは比べ物にならない、死の気配が漂う悍ましさに似た臭いに菫子は顔を強張らせた。勝手に奥歯がカチカチ鳴り、周囲が熱いにもかかわらず冷や汗が噴出す。
 「そう怖がらないで下さいよ、傷付くなァ。うんっと優しくしますから──、僕を受け入れて」
 翳った橙黄色の瞳から流れ落ちる、大凡人間が流すとは思えない煤色の涙が菫子の無防備な鎖骨に落ち溝に沿って彼女の肌を穢していった。涙が肌を伝う感触にビクつくしか出来ない菫子を見下ろす三日月目は慈愛に彩られ、汗で額に張り付いた前髪を整える男らしい指先も割れ物を扱うかの如く繊細なものだった。
 過呼吸になりつつある菫子を自身の胸に閉じ込め、深呼吸を促す化野が何てことのないように思い出した事を舌先に乗せる。

 「忌々しい事この上ないですが、この状況実に”らしい”と思いませんか菫子さん」
 「な、にが……?」


 神隠し、ですよ。 








 ■月■日 △△△マンション×××号室で一人暮らしをしていた女性が突如として行方不明になる事件が起きた
 警察は、事件と事故の両方で捜索をしているらしいが未だ解決に至っておらず、この行方不明事件ももうすぐ時効を迎えるためテレビでその概要が数分間、当時のことを痛まし気に思い出したかのように流れるだけだった