桐子
2024-06-17 23:19:53
2110文字
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最愛②(父水)


朝から気分が悪く、胸がむかむかしていたが、昼過ぎに出先から帰るといよいよ吐き気が酷くなってきた。
昼食の弁当も食べずにトイレで嘔吐いても、出てくるのは胃液ばかり。見かねた同僚が「早退したらどうだ」と言ってくれたが、ただでさえ休みがちなのだ。早退すると言ったら上司は嫌な顔をするだろう。
なんとか午後の仕事を終え、定時が来たらすぐにタイムカードを押す。職場の人間は皆、「またか」という目でこちらを見てきたが、かまっている余裕はなかった。
(早く帰りたい……
水木はふらつく足取りで駅に向かった。改札を抜け、ホームへの階段を上る。幸い、帰宅ラッシュよりも少し早い時間なので車内は空いている。椅子に腰掛け、吐きそうなのを我慢しながら電車が到着するのを待つ。
ようやく家が見えた時には、ホッとして足元がおぼつかなくなっていた。玄関を開けてすぐ、靴を脱ごうとするがうまくいかない。よろけているところを鬼太郎に見られてしまった。
「水木さん!大丈夫ですか!?」
鬼太郎は慌てて水木を支えようとするが、身長差がありすぎてうまくできない。
「鬼太郎、あんまり揺らさないでくれ……
「あ、すみません」
鬼太郎は水木の腕を取り、肩を貸しながら居間まで連れて行ってくれた。上着を脱ぐなりぐったりと横に倒れ込む。鬼太郎はそんな水木に水を汲んで持って来てくれた。
「ありがとう……
冷たい水が喉を通ると、少し気分が良くなった。
「水木さん、どうしたんですか」
「朝から気持ち悪くてな。悪いがゲゲ郎もいないし、夕飯は適当に米を炊いて、商店街でコロッケでも買ってきてくれ」
「そんなこと気にしなくていいですよ」
心配そうに眉を下げる鬼太郎に、水木は弱々しく微笑んでみせる。
「俺も腹が減ってるから、ちゃんと食べるよ。頼む」
「わかりました」
鬼太郎は財布を持って出て行った。一人になった途端、水木は再び激しい吐き気に襲われる。
「うっ……
トイレに駆け込み、便器に向かってえずくが、何も出てこない。苦しくて涙が滲んできた。身体がだるくて、立ち上がることもできない。もしゲゲ郎が、古い馴染みに呼ばれて出かけていなければ、心配して慌てふためきながら介抱してくれていただろう。
涙目になって「死ぬな水木」と叫ぶゲゲ郎の姿を想像すると、なんだかおかしくなって笑みがこぼれた。



「水木さん!」
「おお、目が覚めたか」

目を開けると、鬼太郎と砂かけ婆が顔をのぞきこんでいた。トイレで倒れていたはずなのに、布団に寝かせられている。
「鬼太郎……なんで、砂かけさんが……
「水木さんが倒れてて、父さんもいないし、それで」
帰宅した鬼太郎は、倒れている水木を見てすっかり気が動転してしまったのだそうだ。人間の医者を呼ぼうにも、水木は普段医者にかからないためどこの病院へ行けばいいか分からない。結局、いつも親身になってくれる砂かけ婆を呼んだのだそうだ。
「わしは妖怪医術を学んでおるからの。妖怪も人間もまあ変わらんじゃろ」
いや、妖怪と人間は全然違うだろう。そう思ったが、口には出さなかった。
「はあ、助かりました。風邪だと思うんですが」
「吐き気と、熱も少しあるようじゃな」
「それと……ずっと身体がだるくて」
営業で駆け回っていた時だって、こんなことはなかったのに。
「うーん」
砂かけ婆はうなりながら、水木の体をあちこち検分した。そして、心配そうな顔をしている鬼太郎に言いつけた。
「安心せい。水木殿は悪い病気というわけではなさそうじゃ。水と、濡らした手ぬぐいを持ってきておくれ」
鬼太郎は頷くと、とたとたと軽い足音を立てて台所へ向かった。そして、鬼太郎が部屋を出て行ったのを確認してから、砂かけ婆がひそめた声で言った。
「水木殿……あんた、腹の中に子ができておるぞ」
水木は目を見開いた。
「ど……どういうことだ!?」
思わず飛び起きると、砂かけ婆が慌てて止めた。
「急に動くでない!まだ安静にしておれ」
「子どもができたってのか!? 俺の!?」
「そうじゃ」
水木は呆然として、まだ薄い下腹を凝視した。ここに赤ん坊がいるなんて信じがたいことだった。
「なんで……
「あんた、親父さんの連れ合いなんじゃろう。なら、あんたと親父さんの子じゃろう」
確かに、ゲゲ郎とは体の関係もある。その上、“雄”のゲゲ郎に引きずられて“雌”になってしまったらしいが、『奇跡が起きない限り』子どもが出来ることなんてないと言っていた。

――――奇跡が起きたということか。

水木は恐る恐る下腹に触れた。そこからは胎動も何も感じない。でも、砂かけ婆の言うことが本当なら、ここに新たな命が宿っているのだろう。
「水をしっかり飲んで、食べられるものを食べておればよい。それと、親父さんに早う帰ってきてもらって、あとは二人で相談すればよい」
驚き、戸惑っていた水木は、どうして砂かけ婆が鬼太郎の前で子どもの話をしなかったのかまだ分かっていなかった。
長く生きてきた彼女には分かっていたのだ。
子どもができるということが、決して幸せなことばかりではないということに。