2024-06-17 21:05:49
13417文字
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伝心

タヴのためにはなんだかんだと甘いアセンダリオンの話。
「The First Light」の世界線。タヴに固有名がついています。
新刊収録予定なのでサイレント修正するかも。

色々と捏造設定だしアスタは嘘をついているので、設定っぽいとこは全部雰囲気で読んでね。
名前を付けて外から見た"感情"は、虫の標本に似ている気がする。

硝子越しに、幾らか柔らかくなった西日が水平線に切り取られていくのを見つめていた。
細波が沈む日を照り返してきらめく。港へ急ぐ帆が海を切って少しずつ大きくなる。小さな点があちこちで集まって離れて、街を行き交う人影と潮風に乗った海鳥の影。どれほど眺めていても飽きることはない。夏の名残も薄らいで、もう随分と日の入りも早くなってきている。
ただ今日は、この日暮れがもっと遅ければよかったと思った。時間切れだ。

眺めのいい屋上庭園は、アスタリオンが連れてきてくれたその日から第二の私室と言っていいほど入り浸っている。
この日当たりの良い場所に居着いているのは、嬉しかったのも気に入ったのもあの日の思い出もあるけれど、それだけではない。新参貴族を冷やかしに上階で長居する人も減った今、昼間の屋上庭園が一番この宮殿の中で人目を避けられる場所だった。周りを見下ろす高さの屋上とはいえ、アスタリオンも外に見張りのスケルトンを置く気にはならなかったのだろう。それに、私の目付を言いつけられているだろうミリアムは日差しのあるここへは来られないし、いくら勤勉なヴェスレイも老体に鞭打ってまで始終見張りには来ない。一人でいる方が気が楽なんだ、なんて言ってしまえばアスタリオンは呆れるだろうしミリアムを徒に傷つけることになる。
だからただ、陽が恋しいということにしていた。何も言わなくとも、私の過去を視ているアスタリオンであれば咎めかねるのもわかっていた。
毎日訪れていれば数日も空かずテーブルセットが用意され、とうとうひと月も経つ頃には簡単なティーセットまで備え付けられていた。今まで旅先で使っていたような簡素なマグがないからと、ゴブレットを持ち出して一人で楽しんでいたのを誰かが見かねたらしい。準備も後片付けも慣れているのに、昼日中から屋上で過ごして世話をさせてくださらないとミリアムがこの前ぼやいていたっけか。そんなことを思い出しながら一人分のハーブティーを淹れる。私以外のスポーンに、アスタリオンは何故か恩寵を分け与えない。
訳は聞いていなかった。
日光を気にせず食事も出来るようになれば、ミリアムも娘に会いに行けるだろうけれど。たった一人の定命の老執事では当然宮殿の全てにまで手が回りきらず、渋々見習いを探していたほどなのだから、恩寵を分け与えればアスタリオンにも利点はあるはずだった。昼日中も街で活動できるスポーンなんて、いくらいてもいいだろうに。

夕陽は沈みきる一瞬に向けて輝きを増していく。眩しくとも肌を焼かない余燼のような赤が、街を彩っていく。

一体、何を犠牲にしたんだろうか。
昇格の儀式に必要だった物を思えば、その一部を分け与えるのに追加の代償があってもおかしくはない。予感を現実にしたくなくてそれとなく探るに留めていたが、数年経っても見当すらつかないままだった。数人の命で足りるなら、時折アスタリオンが食事代わりに狩っている悪人で賄えるけれど。と、思考が進む。比して軽い代償であるなら恩寵を分け与えない理由には弱い。

一日空けることすら稀なアスタリオンには珍しく、また大変嫌そうだったが彼は数日この宮殿を不在にしている。またとない機会のうちに、カザドールや歴代のヴァンパイアが遺した"遺産"を探していた。
前にカザドール討伐で訪れたときには見逃していたが、貴族の動向を記録していたほどなのだから他にも何か残っていておかしくない。いや、先々代の頭蓋骨とインクがあったのだから何かしらはあったはずだった。ヴァンパイアの本能とやらであれば別だが、市井に出回る真偽不明の噂話だけではスケルトンもスポーンも作れるはずがない。ウィザードの魔術ともクレリックの秘蹟とも違う、公に残しようのない業であればなお。あるいは宮殿がかつての名残も残さないほど造り替えたように遺産を捨て去っていたのだとしても、アスタリオンが書き留めたか"実験"をした記録が、できればそんなことがないようにと願うが、あって然るべきだろう。
丹念に、慎重に、日中の数時間に留めて怪しまれないように。いつものように屋上庭園にいるフリをして、人目を盗んで上階の探索を終わらせたのが今日。比較的私が居着かない上階の、大方アスタリオンの私室のどこかにあると踏んでいたのだが当ては見事に外れている。
執務室にあった、一向に慣れそうもない貴族生活を逐一皮肉っている日誌のような書き付けの束だとかは面白かった。この城に来たときの手荷物や装備は、私が持っていたときより余程丁寧に手入れされて彼の寝室にしまわれていた。ちょっとした服のかぎ裂きも目立たないように繕われている。呪文書の装丁も見覚えのない補修の跡がある。相変わらず器用な仕事だ。居室や地下のどこかではなく彼の寝室に置いているのは、この宮殿から私を出したくないアスタリオンの本心だろう。だから見なかったことにして元通りに戻しておいた。
くまなく探したはずだがしかし、求めていたヴァンパイアに関する記録も書き付けもない。スケルトンの見張りこそいつもどおりに執務室前で佇んでいたが、ヴェスレイもミリアムも、窓際やら大扉の側にいる時以外に私を見張る様子はない。そこに違和感があった。事の次第を知らない二人はともかく、アスタリオンが警戒していないなんてあり得るだろうか。彼の性格からして、何より自らのスポーンに弑され改められるザールの歴史からして、弱みを私に握らせるはずがない。まるで隠す物ひとつないような振る舞いに首を捻る。貴族になったのに旅人のような荷物袋を背負って出歩くはずもなく、銀行に入り込んだ記憶も生々しい中で金庫に預けてくるとも考えづらい。
見つけておきたかった収穫物がないまま、アスタリオンがいない折角の機会は終わってしまった。彼は帰ると言った時間どおりに帰ってきたためしがない。夜になるから夕餉は不要と言っていた今回もどうせ、日が落ちきらないうちに戻ってくるだろう。気にこそなっているものの、アスタリオンに疑わせたいわけではない。探索は当面お預けだ。

(目星くらいは、つけておきたかったな)

落ちきらない日も徐々に弱まって、暮れなずむ空もいよいよ夜の気配を強めていく。ここまで沈めばミリアムも日差しを避けずに済むはずだ。そろそろ迎えに来る頃だから、ずっとここにいたようなフリをして本を開く。淹れておいたハーブティーを飲み干して、茶渋を拭いながら水で流す。最後に魔法で水溜まりごと消してしまえば、何も残らない。
ヴァンパイアにとって血以外は口に入れられた物じゃないとアスタリオンから旅の途中で聞いていた気がするけれど、これも彼が分け与えた恩寵のひとつなのか味覚は変わらないままだった。胃が物を受け付けない、なんてこともない。体温がなくなっていなければアンデッドになったことすら忘れてしまえただろう。それすら、天気の良い日や暖炉の前では人並みになれた。流水を厭わず鏡にも映るこの身は、かつて命で購った恩恵を分けられたと思えないほど血も嘆きも程遠い。そこに一抹の、染みのように拭い去れない不安があるだけだった。
他には話せる当てもないし、アスタリオンに言えば馬鹿馬鹿しいと一蹴されることだろう。自らの選択で踏みしだいた骸を今更哀れんでみせるのは滑稽でしかないし、何よりそんなことを頭の片隅であれ考えていたと知れば良い気分はしないはずだ。相変わらず水を差すのが好きなのかとか、カビでも生えそうな悲観主義だとか、言いそうな言わなさそうな。
渋い顔をしてへそを曲げているアスタリオンを想像すると、少し面白い。本人に知られれば怒り出しそうだがミリアムならわかってくれると思う。ヴェスレイも案外お茶目なところがあるので、口真似をしながらそれっぽいセリフを考えてくれるかもしれない。
旅をしている間にも片鱗は覗かせていたが、アスタリオンは目の前にない出来事とどうにもならないことについて楽観的なところがある。不確定な暗い話はどうも好まないし、無い手札や未知の盤面について仮定を重ねるよりある手札と現状を見ている方が性に合っているようだった。そういった少し近視眼的な現実主義や行動を是とする資質は彼の持つ特長のひとつだと思う。失うことを恐れるより天運を望んで賭けに出た結果が今なのだから、否定する気は毛頭なかった。そんな彼が見落とすところを補っていくのは側にいる私たちの役目だろう。だから不安にもなるのだ、とはわかってもらえないかもしれないが。

軽く、足早に階段を上がる音がする。スカートをたくしあげてせっせと駆け上がるミリアムの姿が容易に浮かんだ。扉に手をかけて、そっと引く。
気を利かせすぎてはいけないと教えてくれたのは彼女だった。なんでも、貴族とはそういうものらしい。ふと木の洞にいた頃を思い出すが、もう身に馴染まない習慣となっていた。そのうちまた慣れるのだろうか、と何事もなかったように椅子に座り直しながら考える。
奥方様、といつもの明るい声が聞こえる。地下からここまでは随分と長い階段なのに息の上がった様子はない。アンデッドと生者との隔たりのひとつだった。

「旦那様がお戻りになりましたよ。いま馬車を裏に回しております」
「そう、すぐ降りるよ」

もう片付けは終わっているのだけど、ミリアムに後を任せて先に階段を下りる。またやることがないとぼやかれるかな、なんて一人苦笑する。窓の向こうでカラスの群れが鳴き交わしながらねぐらへ向かって飛んでいった。影と夜の境が階を下るごとに曖昧になって、広間に着く頃には消えかけの蝋燭のような一筋だけが昼の名残になっていた。

「見慣れねえな……?」
「こほん」

聞き慣れない声と、小さく窘める声。二人で装飾の手入れをしていたところらしい。雰囲気からしてヴェスレイの知る人物だろうが、彼の横で目を丸くしているドワーフには全く見覚えがない。執事見習いになるとかならないとかで聞いていたのはヒューマンだったような。小さくがっしりした体躯、豊かな白髪と髭はどう見てもドワーフのそれである。

「そいつぁ失敬。それにしてもあんた、……細っこいな」
「イェルク」
「すまねえ」

思わず吹き出してしまう。ドワーフからすれば確かにひょろひょろだし、よく見れば、イェルクと呼ばれたドワーフは随分と同種族の中でもがっしりした体格だ。これは細っこいという評価も多少考慮あっての言葉だろう。目を見てもそこに悪意は一切なかった。

「奥方様は大変寛容なお方ですが、もう少し言葉を選びなさい。旦那様がいたらこれで済みませんよ」
「わあってらあ」

ドワーフにしては根が気さくなのだろうか。イェルクが胸を張って答えた側からヴェスレイが渋い顔をしている。こんな表情をしているのは新鮮だった。微笑ましく見ているとヴェスレイに促されてこちらにイェルクが歩いてくる。後ろでヴェスレイが黙礼をした。アスタリオンを迎えに行くのだろう、目礼を返して行かせる。
エルフの歩幅では十と少しの距離も、彼の歩幅では二十に欠けるくらいになる。こちらからも歩いていくと、妙なところに気付いた。ドワーフにしては顔色が悪い。蒼白とは言わないが、編んだ白髪と蓄えた長い白髭の間から覗く肌は燭台の灯でもわかるほどに生気がない。

「俺はイェルクだ。ここの改装に付き合った縁で旦那様に雇ってもらってな」
「よろしく、イェルクさん」

煤を拭って差し出された手は冷たい。鍛冶神モラディンの火とともに生きるはずのドワーフなのに。
彼もまた、スポーンだった。

「日光浴帰りか」
「そんなところ」

豪快に笑うドワーフに不審な点はない。握手した手や指を物珍しそうにぺたぺたとひっくり返しては眺めているが、何か前評判でも聞いていたのだろうか。

「それにしても旦那様より細っこいなあ、旦那様も随分細いが」
「エルフだからどうしてもね」
「難儀だな」

確かに坑道を掘り進むには向かない体躯だ。岩を割り鋼を打つのもあまり向かない。魔法を紡ぎ、森の声を聞いて弦を鳴らすこの指はなるほど、ドワーフからすれば乾いた小枝より頼りなく見えるのだろう。

「不自由はない?」
「全くねえな、おかげさまで。元々俺たちは坑道か工房に籠もってるか酒場で飲んでるかでさあ、日に当たれないくらいならどうってことねえ。一番下の階で水も炭も好きなだけ使わせてもらって。ケチがあるとしちゃあビールがまずくなったくらいだあな」
「お酒は仕方ないね」

握っていた手を離されて、赤い視線がこちらに寄越される。にやりと笑うところを見るにかなり付き合いやすいドワーフのようだ。少し安心して息をつく。私が気を張っていたのがバレたのか、またイェルクの笑い声が広間に響いた。

「気になるか?」
「少しはね」
「旦那様に頼み込んでスポーンとやらにしてもらったんでさあ、まだまだ俺には時間が足りねえんで」
「そっか、職人?」
「ドワーフってのはそういうもんでさあ。家庭を持つか、神に誇れる仕事をするか。俺はこの腕を選んだってこって」

そう言ってイェルクは腕を叩いてみせる。余程覚えがあるのだろう。聞けば、宮殿改装では総指揮にあたり、大型の彫刻は全て彼が図面を引いたのだという。ドワーフの見た目は年を測りかねるが、語り口は恐らく老練した職人と思わせた。ついでに商売ごとも明るそうで、腕一本で生きてきたのも頷ける。

「地下の客間なんかは全部俺が設計したんでさあ、ありゃあ倉庫の予定だったのを途中で変えたから難儀だった」
「アスタリオンも酷いことするね」
「客の注文に応えてこその職人でさあ、金払いが良い客に限っけど」
「もらえた?」
「そりゃあたんまり。まあ、仕入れの他は若え衆に持たせちまった。俺は他のもんもらったんで。飯付き住み込み仕入れは好きなだけ、これ以上の厚遇もねえ」
「あはは、それならよかったのかな」

上手くいっているようだった。誰も犠牲になっていないなら、それでいい。きっとこの不安は伝わっていたのだろう。だから、わざわざ口が重いはずのドワーフなのに話してくれているのかもしれなかった。

「エルフはひょろくてふらふらしてて頼りねえけど」
「否定できないなあ」
「でもまあ、こういったことで旦那様には借りがあるんでさあ。エルフにも色々いるってこって」
「そう、だね」
「全く奥方様はあれか、心配性ですかい」
「アスタリオンは耳に痛いこと聞かないから」
「あの長い耳の真ん真ん中に刺しちゃあ痛かろうよ、奥方様も容赦がねえ!」

ひとしきり二人で笑っていると広間の扉が開く。振り返ればヴェスレイと、少々機嫌の悪そうなアスタリオンが立っていた。

「随分と楽しそうだな」
「おかえり。この宮殿って広いんだね。工房があるなんて知らなかった」
「ただいま、ダーリン。地下道の見張りも兼ねて最下層に設けた。お前は知らなくてもいい。ところでイェルク、どこまで出来た?」
「へえ旦那様。もう納品できますんでそこまで持ってきとります」
「そうか、下がっていい」
「へえ」

全く、旦那様もまだまだ若えな。と帰り際にぼやくものだからアスタリオンから更に小言をもらっていた。元は森の声を聞く耳だ。ヴァンパイアになって更によく拾うようになった耳では、視界の内にある人のぼやきなんて真横で囁かれているのと大差ない。ちなみにヴェスレイの嘆息もしっかり聞こえている。

「腕は確かだが、もう少し躾が必要だな」
「そう?」
「お前はもっと自覚を持て」

なんの? と聞けば藪蛇になりそうなので黙っておく。機嫌が悪そうなアスタリオンと視線を合わせると、すぐに呆れ顔に変わった。

「着替えてくるから部屋でいい子に待っていてくれ」
「うん」

少ない荷物をヴェスレイに渡したアスタリオンを執務室へ向かうのを見送る。地下の居室は元々プライベートな客人を迎える部屋だったそうだから、今でもアスタリオンの私室は執務室とそこに繋がる寝室を指す。今となっては居室は私が占有しているし、アスタリオンが上の寝室を使うこともないのだが。
きっと少しは仕事もあるのだろう。漁った執務室の書類を思い出すに、貴族というのはサインと手紙と金勘定に追われるものらしい。見た目と経歴に反してマメな仕事を嫌うから、多少アスタリオンが部屋に来るまで掛かることだろう。字の汚さを知られているので書類仕事を任されることはなかったが、今度もう少し暇がありそうなときには冷やかしに行っても良いかもしれない。ちょうど降りてきたミリアムを連れて部屋に戻る。

「部屋で待ってろだなんて。新しい夜着をおろしましょうか」
「そこまではいいんじゃないかな」
「何仰います。たかが数日、されど数日でございます。おめかしされるのもいいじゃありませんか」

道すがらのささやかな攻防を続けていると、すぐに居室の扉まで着いてしまった。身支度のこととなるとミリアムに勝てたためしがない。あれよあれよと香油を揉み込まれ、渡された真っ白い夜着を羽織っている間に髪を手入れされている。

「それではこれで」
「いってらっしゃい」

これからアスタリオンに夕餉代わりの軽食を用意してくるのだろう。ミリアムを見送って扉の閉まる音を聞く。
血があれば事足りるけれど、味覚のある私たちに食事をさせたがるのは彼女の癖であり、どうも誇りでもあるようだった。結婚するまでは、大店のオーナーである家でメイドをしていたのだという。前見た、スケルトンにてきぱきと厨房事の指示を飛ばす姿は確かに板についたものだった。粉になった骨が落ちないように、厨房のスケルトンたちは袖を絞ったシャツと指先がたるまない特注の手袋をつけられている。ここに至るまでは試行錯誤があったそうだが、立ち働く妙な格好のスケルトンの群れはなかなかシュールで面白いものだった。食べるのが二人と執事だけなのだからいささか勿体なくすらあったが、ミリアムのおかげで食に不自由したことはない。
そんな彼女が私の夜食用にとナイトテーブルの引き出しにしまってくれている、缶入りのクッキーを取り出す。ひとくちで食べやすいようにと小さく焼かれたそれを口に放り込めば、バターの塩気と混ぜ込まれたベリージャムの甘酸っぱさが口に広がった。もうひとつ口に放り込んで、読みかけの本を手に取る。バルダーズゲートの地下遺跡、過去ここにあった都市の研究成果論文でそれなりに読み応えがある。この本が終わるとこの前届いた本は読了してしまうのだが、次に届くのはいつだったか。明日か明後日か、ともかくすぐのことだったはずだ。羽毛布団の間に足を入れて、ガラスの水差しを逆さにして足の間に抱える。その中に魔法の火を灯せば、読書灯に困らず暖も取れる。我ながら妙案と思うしアスタリオンには好評だったのだが、見ただけで額を抑えてチオンター河より豊かなお小言を流し始めるだろうミリアムには一切見せるわけにいかないのが難しい。ベッドの足先から腰元までまんべんなく温まるように、時折即席ランプの位置を変えながらアスタリオンを待った。

もう一度扉が開いたのは終章に差し掛かる頃だった。後半の章は筆者の想像に頼るところが多く、フィールドワークの不足を思わせる。投書でもするべきかと書き付けをしていた、羽ペンの先が微かに風を受ける。

「俺より本にお熱か、ダーリン?」
「言われた通り大人しく待ってただけだよ。おかえり」
「ああ、ただいま」

顔を上げて歓待を示したが足りなかったらしい。本とペンを置いて、ベッドからソファに座り直す。折角暖めたのだから冷めないうちに戻りたいものだが、きっと難しいだろう。

(でもまあ、機嫌は悪くないのかな)

体を重ねようとする前に余裕がある時は、大概アスタリオンの機嫌がいい時だ。わかっているから水を差すつもりもない。隣に沈んだ重さに身を預ける。言葉はないが、その目は何か伝えあぐねていることがあるようだった。
彼は断じて認めないだろうが、ベッドの上で肌を重ねるよりソファで身を寄せて話している方が声音に飾り気なく負担もない、素のように見える。その不整合は意思まで縛られ自由を失っていた間に由来するのだろう。多くは語らず敢えて尋ねもしないが、過去の暗く淀んだ片鱗は時折、彼の指先や思想に滲む。何も気づいていないことにして、猫でも撫でるような手つきで私の髪を梳くアスタリオンの言葉を待つことにした。
本当は色を好まないのではないか。必要なのは誰かに護られて過ごす穏やかな時間なのではないか。私を縛り守ろうとするその行為が、アスタリオンの支配されていた過去をなぞらせてしまってはいないか。問いはあった。朧気でも解は掴みかけていた。私に与えようとするものは、私を鏡に彼が求めたものではないか。
ただ、それがアスタリオンのためであろうといたずらに踏み入るのは憚られた。綺麗事を並べたところで、それはエゴで、押し付けでしかない。一周まわって外に影響がない範囲であればせめて、やりつくしたと思えるまでアスタリオンの好きにさせるのが一番良いように最近は思っている。それが時に彼の心に影を落としたのだとしても、人には膿んだ傷の乾くまで、沈むところまで静かに心を沈ませるべき時もある。
木の洞で見てきたヒューマンたち、村を出た旅の途中にすれ違った人たち。正論だけで人は救われない。それが人で、心であると、諒解するくらいには生きてきた。

「俺がいない間、どうだった」
「少し暇だったよ。あと日が落ちるのが早くなった、秋だね」
「そうか」

また少し沈黙が流れる。言いかねるならいつまでも隣で待っていようと思った。明日でも、いつでも。急ぐ必要はない、時間なら文字通りいくらでもある。
ややあって、半ば唐突に語られたのはヴァンパイアの能力についてだった。
ヴァンパイアはその眷属と意思疎通を図るためのテレパシーを有する。それはマインドフレイヤーの幼生にも似て、使いようによっては心の裡まで詳らかにするものという。口が重かった理由はそれか、と得心がいく。二百年の間その力がどう使われていたかは知らないが、アスタリオンを苛んでいたひとつであろうとは容易に想像できた。それとも、まだライスウィンでの出来事を気にしているのだろうか。

「便利そうだね」
「俺も、ここを空けるときはあるからな」

どうにも歯切れが悪い。この数日が契機だったのだろうが、拒む心情もまた同じくらいあるのだろう。
テレパシー自体は呪文でも行使できるが、かなり高位の呪文だし評判はあまり良くない。未開地探索などで安否確認のために、探索拠点の者と繋ぐ通信役のウィザードを追加でパーティに入れる冒険者たちの話は聞いたことがあるが、好んでわざわざ使うウィザードは少ない。確か一度繋いでしまえば丸一日頭の中が騒々しくなるとか。いざという時に目の前の敵に集中し損ねるのはどんなウィザードも避けたい事態だ。ヴァンパイアの使うテレパシーがウィザードのそれと異なるのであれば随分有用なはずで、とても興味があるが好奇心だけで無理に使わせるのもなんだか気が引ける。いや、でも試してみたい。

「お前が何考えてるか当ててやろうか」
「ちょっとやってみたい」
「少しは怖いとかないのか?」
「使ってみないとわからないから。聞いている感じだと、呪文のテレパシーよりは副作用が少なそうだけど」
「まあ、使う度に頭の中が騒々しくなるならカザドールもさっさとくたばってただろうな」

カザドールの名を口にしても、アスタリオンの振る舞いには震えも恐怖もない。見たところは。恐れが見えなくなるほどカザドールが過去に変わったのは、最近になってのことだった。他人の口から聞く時はまだ微かに背が強張るようだが、いずれ時が癒やすだろう。
思えば会ったばかりの頃はずっと見えない影に気を張っていた。あの時はガー人の追手を警戒してかと思っていたが、カザドールが頻繁にテレパシーを使っていたのならずっと旅の間も呼びかけられていたのだろうか。

「さて、怖いもの見たさで落ち着きのない配偶者のために実演するとしようか」
「うん。お願い」
「全くお前は……
「ごめん、疲れてるなら明日でも」
「いや違う。面倒な仕事だったがお前のお願いに応えてやれないほどじゃない。始めるぞ、俺の気が変わらないうちにな」

まずはお互いの同意。呼ばれたような、振り返りたくなるような感覚。その感覚を頼りに更に集中していけば、テレパシーの通路が開いた。小川のせせらぎにも似た、音のような感覚に包まれる。騒音と言うほどにはひどくない。

『通じたな』
『これは……、幼生と違って頭痛も虫が動いてる感覚もないけど変な感じだね』
『長く使うものじゃないな』

勝手は違うが意思を伝えるだけなら、負担は幼生を使ったものより遥かに軽い。騒音も思っていたほどじゃない。記憶も視界も送ろうと思えば送れそうだが、幼生のものよりは集中する必要がありそうだ。

『これ、どこまで繋がるのかな。呪文なら次元界が同じだったらどこにいても繋げたはずなんだけど。ネザーブレインのサイオニックは遺物の影響もあったと思うけど距離で減衰してた気がするし、呪文と同等の通信範囲ならこっちの方が使いやすそう』
『随分はしゃいでいるのは伝わってるぞ』
『うん。面白い』
『そうか、それは何よりだな』

アスタリオンが体力の有り余った子犬に振り回される飼い主のような顔をしている。テレパシーで伝わらなくとも表情は雄弁だ。そろそろお開きにして休ませてあげるべきかもしれない。ソファから立ち上がってアスタリオンの手を引く。もう休むよね? とわざわざテレパシーを飛ばしてみれば、同意の意思が伝わってくる。やっぱり面白い。

『これなら明日出掛けてもいいかな、確か新しい本がそろそろ入る頃だよね。さっき読んでた論文にちょっと確認したいところもあったし。ねえアスタリオンも一緒に、』
『だめだ』
『?』

突如嵐が沸き起こった。それが流れ込んできたアスタリオンの感情だとすぐには気づけなかった。
怒りがあった。それ以上に、苦しさがあった。胸を突き破るような、胃を焼くような激情。言葉にしないではいられないのに、適切な音が出てこない。もどかしい、伝えたい、わかってほしい、……つらい。
嵐は一瞬で過ぎ去った。
これが、感情なのか。嵐がもたらした覚えのない感覚にただただ押し流されていく。これが、人の持つ感情だというなら、なんと生きづらく、苦しく、痛く、鮮やかなのだろう。目の前にいるアスタリオンはそれでも、表情に薄く不快と怒りを滲ませながら平静の範疇にあった。テレパシーがなければ、私は気付けなかった?
過去を振り返る。出会った人々を思い出す。誰もがこれを裡に抱えていたのだろうか。だとすれば、私は彼らのことを何ひとつ理解できていなかった。
いつだって、私に出来る範囲で理解しようと努めていた。言葉を聞き、仕草や表情を見れば判るものだと疑わなかった。浅はかだった。
茫然と、ただ立ち尽くす。眩む視界の向こうで様子がおかしいと近付く姿が見えても、すぐには声も出なかった。

「フィン、フィン!」
……
「無理に話さなくていい、俺はここにいる」

生半な心術より余程強く、重い。背中に回されたアスタリオンの腕を頼りに意識を現実に引き戻す。熱のない体温と、確かな形。深く息をする。テレパシーは切られていた。

「今日はもう休め」

その目を見て、何かを伝えなければと思った。怖くはない、大丈夫、側にいる、間違ってない、これは失敗じゃない。どれも足りない。今こそ、この心ごと伝えられればよかったのに。
ベッドまで抱えて運ばれ、戻りかけた意識もたった数歩の規則的な歩調にまた輪郭をぼやけさせていく。半ば転がり落ちるように瞑想の淵に辿り着いて、横でアスタリオンも瞑想に入るのがわかった。今日はずっと側にいてくれるつもりなのだろう。

多くの顔が通り過ぎていく。今まで会った誰かの顔だ。輪郭もパーツも朧で、どれも誰だったかは思い出せない。視線は交わらない。
何かを言っている。どれも聞き取れずに音は上滑りしていく。やがて合唱のように、雷雨のように意味をなさないまま重なって不協和を奏でる。
多くを見送った。多くを見過ごした? どこにいても私は部外者で、外から見ていた。木の洞を出ても、薄膜は依然として外と私を隔てていた。
瞑想というよりは、幼いころに見た"夢"のようだった。制御できない前世の記憶の奔流。数度しかなかったそれの度、あの時はまだ元気だったおじいさんが背中をさすってくれていた。懐かしむ感傷は、感情と呼ぶにも足りないほど柔らかく溶けていく。
音が誰かの声になっていく。通り過ぎていく顔も徐々に明らかになっていく。わかりそうだと意識する、その勢いのままに瞑想から覚めてしまった。

「気分はどうだ」
「だいじょうぶ。いまのところはたぶん。昨日はごめん」
「いやいい。はしゃぎすぎて固まるとはな」
「それは、うん……
「何かに驚いたみたいだったが」
「慣れないことしたからかな」

まあそんなところだよな、と納得しているように見えた。誤魔化せてはいるだろう。少し体を上にずらして、アスタリオンと同じように枕に寄りかかりながら、どこへともなく視線を流す。
今までなら読み取れた思考に疑いなどなかった。滅多に外すことはなかったし、時折気まぐれで魔法を使えば読みを裏付けた。でも今となってはその全てに確証が持てない。思考は感情の一部となりえても、心の全てを示さない。思えば、至極当たり前のことだ。
差し出されたゴブレットを受け取って、注がれた水で喉を潤す。軽く合わされたアスタリオンの視線からは、多少の心配の他は読み取れない。昨夜なだれ込んできた感情の、苦しさの理由は未だにわからないままだ。

「まだ、外には出たいか?」
「うん」

不安はあったが間髪は入れなかった。怖気づいて嘘をつけばきっとこの関係は歪んでしまう。
求めてはいないが望んでいた答えでしょう、そう賭けるように隣に座るアスタリオンを見上げる。予想通り、不機嫌と安堵を器用に織り交ぜた表情をしていた。そこにある感情がわかればよかったのに。確か最後のサーカスでもこんな表情を見た。複雑で少しわがままな、変わらないところには安心する。本当はアスタリオンが何かに怯えず自由を満喫しているところを見たかったけれど、きっとひとりでは外に出させないだろうから一緒に叶うはずだ。

「どうせそう言うだろうと思った、お前はつくづく変わらないな。……ひとつ、条件がある」
「なに?」
「本当は危険で野蛮で汚い外にお前を出したくはないが、この数年でお前が意見を曲げないことはよくわかった。だからダーリン、約束してくれ」

珍しく、アスタリオンが私の瞳の奥を見る。何が見えているだろうか。何を、読み取ろうとしてくれているのだろうか。

「どんな理由があれ、この力を拒むな。お前を狙うものがいれば躊躇わず俺を呼べ。一人で倒せても、だ」
……わかった」

握られた手は痛いほど強く掴まれている。不安、なのだろう。
今のアスタリオンにとっては、自ら整えた領域の外はすべからく敵の気配に神経を尖らせなければならない場所だ。ガー人とラサンダー信徒を除いても、一般市民とてまずヴァンパイアなんて怪物を歓迎はしまい。貴族の皮を被っているから免れているだけだ。昇格し、多くの弱点を克服したところで束になった敵意に耐えられるほどかどうか。恩恵を分け与えられていたとてスポーンではなお耐えられまい。それがアスタリオンの思考だった。だから外へは出さない、理には適っている。理のために、あれほど欲しがっていたはずの自由に目を向けなくなっているだけで。
怯えの中に自由はない。自覚はないだろうがアスタリオンはこの宮殿に縛られている。思考も行動も、宮殿を離れられずにいる。自由になるための力はまだ、真にアスタリオンの自由をもたらしてはいなかった。
怖いだけではなかったはずだ。世界はただ在っただけの私にもたくさんの姿を見せた。それを思い起こすに足る記憶がアスタリオンにもあったなら、いつか思い出してほしかった。

テレパシーを繋ぐ。昨日は接続方向のテストをする間もなかったから、と言えば納得はしてもらえた。
思考が糸になってお互いを繋ぐイメージをする。すぐに通路は開かれた。小さなノイズは何故かとても心地いい。

『こうやって繋げばいいんだよね』
『ああ。上出来だ』
『それじゃあ、今日はどこに出かけようか』

実地経験しないと。いざってときに使えないと困るからね。なんて追い打ちで伝えれば、テレパシーと耳の両方からどうしてくれようかと嘆くアスタリオンの声が聞こえた。