柚子子
2023-11-16 22:37:42
13220文字
Public 単発夢小説
 
594440

2023 黒尾誕生日

おめでとう〜

苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字 金曜夜、同僚との夕食を終えて帰宅する道すがら。自宅方面の改札口を出てしばらく歩いたところで、前方に見知った後ろ姿があることに気が付いた。
 夜のなかに溶け込むような大柄な体躯は、シャツの白だけがぷかりと浮かび上がっているように見える。この寒いのに、ジャケットを着ていない。彼は私と同じマンションに住む、ひとつ年上の男性だ。部屋が隣なので、引っ越しの挨拶をして以降も、何度か言葉を交わしたことがあった。
 声を掛けるべきか。私はしばし逡巡した。隣人としてそれなりの交流はあるものの、言ってしまえばそれだけだ。夜道でいきなり駆け寄り話しかけるほど、親密というわけではない。
 そのとき、目の前の彼が唐突に首を後ろに巡らせた。後ろ姿が、くるりと振り返る。思わず私の口から、わあっと声がもれた直後、彼──隣人である黒尾さんが、うおっと釣られたように声を上げた。
 夜道にふたりぶんの声がずれて重なり、そして消える。
 先に口を開いたのは、黒尾さんの方だった。
「び……っくりした……
 目を大きく見開いた黒尾さんが、たっぷり間をためて言った。びっくりしたはこちらのセリフだが、私はついついすみません、と口走る。
「ああいや、俺が勝手にびっくりしたっていうか……。すみません、苗字さんもびっくりしたでしょ」
「まあ、はい」
「すみませんね」
「いや、いえ……はい」
「どっち」
 そうして思い出したように、どちらからともなく挨拶をかわした。なんだか間の抜けなやりとりだ。そしてまた、やはりどちらからともなく、相手の隣に立つ。どうせ帰る先は同じだ。知らない仲でもない以上、ここでじゃあさようなら、というのはかえっておかしい。
 暗い夜道に、踵の高いヒールの足音と静かな革靴の足音が、ばらばらなテンポで小さく響いた。こんなに大きな人なのに、夜道をゆく足音は猫のように静かなのだなと、そんなことをふと思う。
苗字さん、こんな遅くまで仕事って、大変すね」
 黒尾さんに言われ、私は首を横に振った。
「いえ、今日は同僚と食事をしてから帰ってきたので」
「あ、それで。金曜だし、と」
「職場のちかくに美味しい焼肉屋さんができたんですよ。それで行ってきました」
「へー、焼肉。いいですね」
「黒尾さん焼肉お好きですか?」
「好きですね。俺の場合、質より量って感じですけど」
「あー、体育会系の」
「そうそう、体育会系の焼肉。今苗字さん、見るからにって思ったでしょ」
「そうですね……すみません」
「なんで謝んの。見るからにで、正解です」
「ちなみに焼肉行ったら何食べますか?」
「俺はカルビとタン、野菜を無限にローテーションできますね」
「ちゃんと野菜も食べてて偉い」
「年々ね、野菜の占めるウェイト増えていきますよね」
 からからと笑って、黒尾さんはおもむろにお腹のあたりを手でさする。
「あー、なんか焼肉の話してたら、むしょうに焼肉食いたくなってきたな。焼肉の話って、聞くと問答無用で焼肉食いたい気分にさせられません?」
「うーん、今焼肉食べてきたばっかなので……
「たしかに。苗字さん今、世界で一番焼肉の気分じゃない人ですね」
「すみません……。あっ、でもお寿司ならまだお腹に入ります」
「まじですか? いや、でも分かるかも。寿司もね、食えないときがないですよね」
「そうなんですよね。お寿司っていつでも嬉しいから。あ、お寿司といえば。黒尾さん、隣の駅の竹寿司ってお店ごぞんじですか? びっくりするくらい美味しいですよ」
「や、知らないですね。どの辺ですか?」
「駅からちょっと歩いて、わりと住宅街の方なんですけど。腹ごなしだと思えば全然歩ける距離です」
「なんて店でしたっけ?」
「竹寿司です。竹林の竹に、寿司」
「竹寿司。了解、覚えました。毎度、近場のうまいもん情報ありがとうございます。いつも助かってます」
 竹寿司、覚えました。と黒尾さんが笑う。その微笑がまた必要以上に馴れ馴れしくないものなので、私はそこに距離感の妙のようなものをじんわり感じた。同時に、身勝手な切なさめいた感情がよぎるが、そちらは努めて気付かないふりをする。
 黒尾さんが私と同じマンションに越してきたのは、二か月ほど前のこと。それまで黒尾さんは実家に住んでいたが、社会人としての生活も落ち着いたこともあり、一人暮らしに踏み切ったという。
 実家も都内にあるものの、黒尾さんはこの辺りの土地勘が全くないらしい。そういう話を聞いて以来、学生時代からこの辺りを生活圏としている私は、黒尾さんと会うたびに近隣の飲食店情報を小出しに提供しているのだった。
「そうそう、前に苗字さんに教えてもらった唐揚げ屋も行きましたよ」
 その言葉に、思わず胸の前で両手を合わせる。
「あ! あそこ! 美味しかったでしょう」
「めちゃくちゃうまかった」
 暗闇の中でも分かるいい笑顔。この通り、こうして来店報告をしてくれるから、こちらもついつい、いろいろと話したくなってしまうのだ。黒尾さんは相手のふところに入り込むのがうまい。話をするたび、そう思う。
「黒尾さんは自炊はされないんですか?」
 話の流れで、思ったことを尋ねる。
「しないわけでもないですけど、やって休日だけとかかな。一応自炊のためのキッチン用品は一通り揃えてあるんすけどね」
「まあ、平日帰りが遅めだと厳しいですよね」
苗字さんは」
「私も早く帰れた日だけ、週の半分自炊すればいい方です」
「そんなもんだよなぁ」
 呆れたふうでもなく、黒尾さんが笑った。美味しいものは食べたいけれど、自炊するほどの熱意はないのはお互い様らしい。
 恋人につくってもらったりとかは?
 ふいに、そんな問いが胸にふわりと浮き上がる。しかしさすがに、口にはしなかった。いくら何でも、それは踏み込みすぎている。
 黒尾さんが恋人を家に連れ込んでいる気配はないというくらいのことは、隣人である以上、私も察している。特に気にしているわけではなくても、そこそこの家賃の賃貸では生活音が漏れ聞こえてきてしまうのだ。
 多少の物音にはお互い気付かないふりをしておくのが、集合住宅のマナーというもの。まして恋人云々なんて、たかが隣人が踏み込むには、あまりに個人的な話題だ。
 私と黒尾さんはときどき顔を合わせ、近隣の美味しいもの情報を交換する程度の距離間でいる。隣人だからこそ、不用意な好奇心はトラブルのもとになりかねない。
「──苗字さん?」
 名前を呼ばれ、はっとした。黒尾さんとともに帰路に就きながら、いつのまにかぼんやりしてしまっていたらしい。
 会話の途中にぼんやりしてしまったバツの悪さに、私はうろうろと視線をさまよわせた。責められているわけでもないのに、へんに後ろめたく感じられるのは、黒尾さんの交際事情などという下世話な話題に思いをはせていたからか。
「あ、いえ、すみません。ちょっとぼーっとしちゃって」
「金曜ですしね。さっさと帰って寝ましょう」
「そうですね。そうします」
 気をつかわせてしまったようで、恥ずかしい。いたたまれないような気分になるも、黒尾さんは特に気にしたようすもなく、表情ひとつ変えずに微笑んでいた。もっとも周囲は夜闇に包まれているので、微細な表情の変化があったところで気付きようもない。
 黒尾さんに見られないよう、私は少しだけ顔をそらし、小さく溜息を吐き出した。
 金曜で疲れているのは事実だ。多少アルコールも入っている。だが、こうしていろいろ考えてしまうのは、多分隣を歩いているのが黒尾さんだから。
 ただの隣人。たかが隣人。
 おたがい下の名前すら知らないし、知る必要もない。
 けれど私はこの隣人に、たしかに心惹かれていた。

 ★

 今から二か月前。私は無言で──文字通りことばを無くした状態で、目のまえに広がる惨状を眺めていた。
 休日、スーパーマーケットで買い出しをした帰りだった。持参したエコバッグいっぱいに買い込んだ食料品を詰め込み、ようやくマンションに帰り着いたというところで、突如として不運が私を襲った。
 エコバッグの袋の底の部分が、ビリッと高い音をたて、まっぷたつに裂けたのだ。中身の重みに耐えかねての、それは無残な破損だった。
「ああああっ!」
 私の悲鳴もむなしく、あたりに散らばる食料品の数々。惨事の舞台がマンションのオートロックを抜けたエントランスだったことだけが、不幸中の幸いだった。これが歩道でのことだったなら、それこそ目も当てられない。うちの前はそこそこ交通量の多い道路なので、一歩間違えば事故になっていたかもしれない。
 しばし、言葉を失う。
「はあ、そうですか……
 やっとのことで口にした言葉は、そんな投げやりなものだった。
 とはいえ、いつでも呆けてもいられない。
 床を転がり、エントランスの壁際で停止したトマト缶を、のろのろ追いかける。腰をかがめ、溜息を吐いた。そしていざ、拾った缶をしまおうとしたところで気付く。まずもって品物を入れるための袋の底が抜けているのだから、このままでは食料品を回収したところで、自宅まで運び込むすべがない。
…………
 今度こそ完全に、私は言葉をうしなった。
 ひとまず散らばった食料品をかき集めよう。次に、部屋に代わりの袋を取りに行く。それからふたたび引き返してきて、かき集めた食料品を袋におさめ、自宅まで戻る──
…………
 すべきこと、しなければいけないことは明白だ。だが、私の心は完全に気力を失っていた。
 そもそも、今日は仕事の繁忙期まっただなかの貴重な休日だ。疲れた体に鞭を打ち、日持ちのする食料品をどうにかこうにか調達にいった、そんな帰りなのだ。
 こんなトラブルに対応するだけの余力は、もはや私には残っていない。最後の気力は買い物で使い果たしている。
 が、だからといってこのままにしておくわけにはいかないのも分かっていた。いつほかの住人が通りかかるか分からないし、この惨状はどう考えても迷惑以外の何物でもない。私だって、こんなところでいつまでも現実逃避していないで、さっさと片付け部屋に引き返し、少しでも横になって休息をとりたい。
 分かっている。分かってはいるのだ。
 分かっているが、身体が動かない。
 目の前の事態を収拾せんとする思考と、そうはいってももう疲れちゃったという身体が、己の身のなかで完全にぶつかりあって喧嘩している。
 そのときだった。
「うわぁー、大変なことになってる。拾うの手伝わなくて大丈夫すか?」
 ふいに背後から声を掛けられた。完全に油断していた私は、びくりと肩を震わせる。勢いのまま振り返れば、私の背後、少しだけ距離をとったところで、長身の男性がまさに「うわぁー」という表情を顔に浮かべていた。
 見覚えのある顔だった。先週末に、うちの隣室に引っ越してきた男性。名前はたしか──
「黒尾です。お隣の苗字さん、ですよね?」
 まるで私の思考を読んだように、先回りして名乗った黒尾さんは、あたりに散らばった食料品から私へと視線を移した。私の手元に視線が辿り着いたところで、ああと呟く。
「なるほど、かばんが」
「はい。裂けました」
「なるほど、見事な裂けっぷり」
「お恥かしいかぎりです……買い替えなきゃとは、思ってたんですけど……
 なぜか弁解がましい口調になってしまった私に、黒尾さんは「エコバッグの買い替え時っていつなんすかね」と、なんだか妙にずれた返事をした。
「あー、けど、そうか。そのかばんじゃ部屋まで荷物持って上がれないですね」
「はい。それで途方に暮れていたところです」
「途方に」
「どうにかなんないかなーって」
「なんないでしょ」
「ならないんですよね」
「そりゃあね」
 黒尾さんが笑った。そしておもむろにその場にしゃがみこむと、
「ひとまず俺のかばんに入る分は入れましょうか」
 そう言って彼は、立ったままの私を見上げた。よく見れば黒尾さんも買い物帰りなのか、片手にぶらぶらと大ぶりのトートバッグを提げている。ただし私と違い、黒尾さんのトートバッグには、それほど中身が入っていないらしい。バッグはほとんど膨らんでいなかった。
 私の視線に気付いてか、
「あ、俺の荷物のことは気にしないでください。ごま油買ってきただけなんで」
 黒尾さんが先回りして、そう言った。
「ごま油を買うためだけに、そんな大きなかばんを?」
「かばんのサイズ間違えてんなって、俺も店で気付きました」
 話しながら、黒尾さんが次々と落とし物食料品をかばんにおさめていく。私も慌てて、作業に参加した。
「あの、黒尾さん」
「はいはい」
「手伝っていただいてありがとうございます、本当に」
「いやいや、困ったときはお互いさま、持ちつ持たれつってやつです。つーか、こちらこそありがとうございます」
「何がですか?」
 私が首を傾げると、黒尾さんはにやりと悪戯っぽく笑った。
「俺がごま油買うだけなのに無駄にでかいかばん持っていった、伏線を回収できてよかったと思って」
「なるほど、そのかばんは、このために」
「そうそう。俺はこのためにでかいかばんを持って家を出たってことで」
 ふふ、とたまらず笑みがこぼれた。この短時間の会話から、新しい隣人はずいぶんと親切で、かつ気さくで愉快な人だということが分かり始めていた。
 ふと、しゃがんだままで顔を上げる。するとそれなりの至近距離で、黒尾さんとばっちり視線がかち合った。慌ててふたたび顔を伏せる。気のせいかもしれないが、なんだか顔がかっかと熱い。
 よく考えてみれば、こんなふうに至近距離で男性と話をするのは、ずいぶんと久し振りのことだ。もちろん向こうには、何の下心もないのだろうけれど。
 急速に湧きあがった照れをごまかすように、私は勢いよく口を開いた。
「いや、でも黒尾さん、かばんをちゃんと持っていっただけしっかりされてますよね」
 そうですか? と黒尾さんが言う。
「だって私なんていまだに、しょっちゅうかばん忘れて買い物出ますよ」
「あ、苗字さんってレジ袋が家にたまるタイプの人ですか?」
「いえ、そういうときはもう、そのまま買ったものを手で直に抱えて持ち帰ります」
「堂々と」
「堂々と。見せつけるように」
「そんなにですか?」
「すみません、見せつけるは多少盛りました」
「でしょうね」
 くだらない話をしているうちに、エントランスに散乱した食料品を無事、すべて回収し終えた。黒尾さんにまたお礼を言い、ぺこぺこと頭を下げる。黒尾さんは当たり前のようにかばんを腕に提げなおし、エレベーターホールへと向かった。私も後につづく。
「あの、かばん持ちます。中身ほぼ私のものだし」
「や、俺のごま油入ってるんで」
「ふっ、ふふ、ありがとうございます……ふ、ふふふ……
「思ったよりウケてるし」
 ちょうど一階でエレベーターが待っていた。並んで乗り込み、自宅のある階数ボタンを押す。部屋が隣同士なので、当然ながら行き先階も同じだ。
「もう生活は落ち着かれましたか?」
 ようやく笑いの波が引いたところで尋ねると、黒尾さんは、
「段ボールがなかなか片付かないんすよね」
 と苦笑してみせた。
「平日なかなか片付けする時間がないんすよね」
「じゃあ今日は片付けデーですか?」
「昼飯食ったら頑張ろうかと。あ、物音うるさかったらすみません」
「大丈夫です、いざとなったら騒音で応戦します」
「応戦しないでください」
「騒音バトルを」
「しないで。苗字さん思ってたより愉快な人ですか?」
 エレベーターが行き先界に到着する。私の家の前まで到着すると、黒尾さんは手にしていたトートバッグごと差し出し、
「あとでごま油だけかばんに入れて、うちのドアノブにかけておいてもらえればいいんで」
 じゃあ、と手を振り、あっという間に隣室に戻ってしまった。慌ててお礼だけ伝えて、私もまた部屋に戻る。まだ言うべきことはある気がしたが、今はそれより先にすべきことがあった。
 ひとまず私は黒尾さんのトートバッグから急いで食料品を取り出し、手近なところにあったメモ帳に、お礼の文章をしたためた。後日あらためてお礼を持ってうかがいます、とも。
 それをごま油と一緒にトートバッグにしまいこむと、一度家から出て、黒尾さんちのドアノブに持ち手を引っかけておいた。お礼の品は翌日、近所の和菓子屋でちょっとしたお菓子を買い求めた。

 以来、黒尾さんとはいたって友好的な隣人関係が続いている。友好的とはいっても、あくまで隣人としての境界線を踏み越えない、大人らしい節度と距離間をたもった関係だ。それ以上でも以下でもなく、また目下のところ、それ以上にもそれ以下にもなる気配はなかった。
 でも、いい人なんだよなぁ……
 マンションへの帰路、取り留めもない世間話に興じながら考える。
 一人暮らしをしている成人女性として、そう簡単に親しくない男性に気を許すことはしない。けれど黒尾さんの場合、困っていたところを助けてもらった恩があるし、特に気安い感じもない。親しみやすさを感じさせながらも下心を感じさせないという、対人スキルの高さには舌をまくほどだ。
 おまけに黒尾さんは、たいへん私の乙女心をくすぐる見目容姿をしている。端的にいって、タイプなのだ。私の好みをいくつか挙げたら、ほとんどすべてが黒尾さんに合致してしまうほどに。偶然エントランスで鉢合わせた日には、自分がその日着ている服や髪型が途端に気になりだし、激しくそわそわしてしまうほどに。
 そこまで考えて、ふたたびはっとした。またしてもぼんやり、思索の海にこぎだしていたらしい。いや、どちらかといえば煩悩の波の中というべきか。
 さいわい、黒尾さんは私がどこか遠くへ意識をとばしていることに、気付いていないようだった。というより黒尾さんもまた、先ほどから前方の一点を見つめ、どこかぼんやりした目をしている。
 おや、と思った。
 私と黒尾さんの付き合いはそれほど深くないものの、お互いにまったく知らない相手というわけではない。だからけして確信と呼べるほどの何かを、敏感に察知したというわけではなかった。
 ただ、これまでの数少ない会話を参照してみても、ふだんの黒尾さんは、こうしてふたりきりで話をしているときに、心ここにあらずな様子になったことはなかった。うわの空になっている黒尾さんというのを、少なくとも私は一度も見たことがなかった。
「黒尾さん?」
 ためしに、そっと声を掛けてみた。すると黒尾さんは、わずかに、ほんのわずかに肩を揺らしたのち、首を巡らせ私を見下ろす。
「はい、黒尾ですが」
「どうも、こんばんは」
「いやいや、こちらこそどうも。……や、なんですか? これ」
 口の端を上げてにやにやと笑う黒尾さんに、私はいやぁとか、はぁとか、そんな曖昧な返事をした。別にどうというわけではない。ただ、ぼんやりしているなと思って、それで名前を呼んでみただけだった。
 どっちつかずの私の返答に、黒尾さんは何か察するところがあったらしい。
「もしかして俺、ぼーっとしてました? 魂飛んでってた?」
「そうですね、多少……、五十メートルくらい飛んでってそうな感じでした」
「あー、すみません。ちょっといろいろ、考え事してて」
「はぁ」
 申し訳なさげに声をあげる黒尾さんに、私はまた曖昧な返事をした。
 考え事というのは、仕事のことだろうか。今日は平日最終日の金曜日だが、黒尾さんの仕事は週末でもおかまいなしに出勤のことが多いと、以前黒尾さん本人から聞いたことがあった。私と違い、黒尾さんの頭は休日モードに入っていないのかもしれない。
「あ、いや今週はふつうに土日休みです」
 しれっと、黒尾さんが言う。私はぎょっとした。
「なんで考えてること分かったんですか?」
「まあ、なんとなく。苗字さんって結構考えてること顔に出ますよね」
「そんなことはないと思いますけど……
 分かりやすいだなんてことは、これまでの人生で一度も言われたことがない。もしも私の表情から考えていることを汲み取ることができるなら、それは私が分かりやすいのではなく、黒尾さんが鋭すぎるのだ。
 もしかして、私がひそかに抱えている下心まで、黒尾さんには見抜かれてしまっているのだろうか。
 まさかそんなはずはないと思いつつ、背中を冷たい汗が伝う。表情をきりっと引き締めなおすと、黒尾さんが隣でふはっと吹き出した。
「いや、すみません」
 口許をてのひらで覆い、黒尾さんが言う。そして私が文句を言うよりはやく、
「考え事っていうのはですね。苗字さんって甘いもん好きですか?」
「え? 甘いもの、ですか?」
「甘いもんっていうか、ケーキなんですけど。上にフルーツとかのってる系の」
 黒尾さんが付け足した。私は首を傾げる。話がまったく見えない。
「よく分からないですけど、ケーキは大好きです」
「あ、じゃあこれ、半分おすそわけされてもらえませんかね」
 そう言って黒尾さんが、私が立っているのとは反対側の腕を、ゆっくりと持ち上げた。その手が持つ荷物に、私は暗がりのなか目を凝らした。
 黒尾さんの身体で死角になっていたが、彼の手には大きめの紙袋が提がっている。袋は底の部分がかなり広くなっており、その形状から、なかに箱のようなものが入っていることが見て取れた。
 話の流れからして、紙袋の中身はケーキの入った箱だろうか。すると、またしても私の考えを読んだように、黒尾さんが言う。
「これ、中身まるっと一台ホールケーキ」
「ご自分で買われたんですか?」
「いや、貰い物……ていうのはおかしくて、俺のもんではあるんすけど……
 黒尾さんが、一瞬闇のなかに視線を彷徨わせた。
 束の間、何か言い淀むような気配ののち、
「俺、今日誕生日なんですよ」
 少しだけ気恥ずかしそうに、黒尾さんは言った。
「えっ、それはおめでとうございます」
「ありがとうございます。すみません、なんか祝わせた感じになっちゃって」
「いや、こちらこそお祝いに立ち会わせていただいてありがとうございます」
 ぱちぱちと、控えめに拍手を送る。夜なのであまり大きな音は立てられない。黒尾さんはあいている方の手で頭の後ろをかき、いやどうも、と照れた調子でこたえた。
「あ、じゃあ中身はバースデーケーキ?」
「そうそう。さっきまで店で友達に祝ってもらってて」
 そこで黒尾さんはなぜだか苦笑した。
「祝いの場だからってわけでもないんだろうけど、やっぱ全員、酒飲んでるじゃないですか。俺の誕生日っていう名目でめちゃくちゃ飲みたいやつらなんで、酔って騒いで、店にあずけてたケーキを出してもらうの忘れてて。店側もすっかり忘れちゃってたみたいで。で、代金支払って店出るぞってときに、そういやケーキ出してもらってなくない? と」
「それで、ホールまるごと引き取ってきたんですか?」
「誕生日だし持って帰っていいよっつって、まあ押し付けられた感じですね」
「それはなんというか、楽しそうなお誕生日会ですね」
「俺がいちばん酔ってなかったくらいですからね。途中の注文とかもほぼ俺が自分でしてたし」
 視界の先に、私たちの住むマンションの建物が見えている。オートロックのドアガラスを通して路上に投げかけられた光に視線を向けると、黒尾さんがやわらかな声で私の苗字を呼んだ。
 つりこまれるように、黒尾さんに視線を戻す。黒尾さんの笑顔が私を待ち構えている。
「と、まあそういうわけで。俺も別に甘いもん嫌いじゃないんですけど、さすがにこれをひとりで食べきるのは厳しくて」
「そういうことなら、私でよければご相伴にあずからせていただきます」
「よかった。そう言ってもらえて、かなりありがたいです」
 にっと笑う黒尾さんを見て、ここまで静かにしていた私の胸がやおらどきどきと騒ぎ出した。
 もしかして、これはチャンスなんじゃないだろうか。何のチャンスかなど、わざわざ己に問うまでもない。
 これまで不明瞭なまま、漠然と『惹かれている』とだけ感じていた黒尾さんへの感情。それが唐突に、はっきりとしたかたちを持ち始める。
 マンションのエントランスを通り過ぎ、エレベーターへ乗り込む。どきどきと、私の胸はやかましく騒いでいる。
「じゃ、家についたらカットして持っていきます。半分いけますか?」
 そう問われ、私は慌ててこくこく頷いた。
「もちろん、黒尾さんさえよければ!」
「うお、めちゃくちゃ勢いある返事だ。俺はもう、半分でもそれ以上でもどんだけでも持っていってもらって大丈夫なんで、苗字さんが好きなだけどうぞ」
 エレベーターが止まる。先にエレベーターを降りた黒尾さんを追いかけた私は、気付けば転がり込むように勢い込んで、すぐそばの黒尾さんの背に向かって呼びかけていた。
「あの!」
 黒尾さんが足を止め、こちらを振り返る。首だけ巡らすのではなく、きちんと身体ぜんぶでこちらを向いてくれるその姿に、またしてもぎゅっと胸がせまくなる。
「どうかしました?」 
 笑う黒尾さんの顔を見るのが恥ずかしくて、私はたまらず顔を俯けた。はずみをつけて声を掛けたのに、そこから先に何を言うべきか、私はちっとも考えていなかった。
 それでも、何とか言葉を絞り出す。
「え、っと……あの、ケーキ、なんですけど。よければ、一緒に食べませんか? いや、だってせっかくのバースデーケーキですし、ひとりで食べるよりはふたりで、お祝いってかたちにした方が……
 自信のなさをあらわすように、後半はだんだんと尻すぼみになっていった。さすがに図々しかっただろうかと、先ほどまでは思いつきもしなかった懸念が、今更のように胸のうちに影を落とす。
 いくら何でも、展開を急ぎ過ぎている? 惹かれているというだけで、別にまだはっきり恋と自覚したわけでもないのに。我ながら、これはさすがにがっつきすぎだろうか?
 一度ネガティブなことを考え始めると、さーっと血の気が下がっていく。
 そもそも、もしも私と黒尾さんの男女が逆転していたら、まず間違いなく引かれて警戒される。ちょっと世間話を何度かした程度で、自宅に招いて、あるいは上がり込んでいいですか、とか、普通に考えて怖い。
 考えれば考えるほど、勢いが悪い方向に作用しているような気がした。勇み足を通りこして、滑っているとしか思えない。
 黒尾さんの目が、じっと私を見つめている。戸惑わせてしまっただろうか。困らせた? それとも、迷惑がられている?
 沈黙は、そのままいたたまれなさに代わった。
「あっ、いや、でも黒尾さんのご迷惑でなければ、なんですけど……
 黒尾さんの返事を待たず、私はこそこそと付け足す。完全に日和りきったセリフ。我ながら情けなくなる。
 けれど黒尾さんは、拒絶することなく、束の間の沈黙ののち返事をくれた。
「迷惑っていうか……いいんですか? 俺はかなり嬉しいですけど」
 その言葉に、私は思わず俯けていた顔を上げた。黒尾さんは私と視線を合わせ、続ける。
「一緒にケーキ食べて、祝ってもらえるってことですよね? 苗字さんに」
「そ、それはもう……! 祝います、全身全霊で!」
「俺としては願ったりです」
 このときの気分を言い表す言葉を、あいにく私は持ち合わせていなかった。ときめくとか、嬉しいとか、逆転大勝利とか、あるいは幸運すぎて逆に怖いとか。ありきたりな感情が束になって訪れた結果、得も言われぬ感情の突風が、私の体内で嵐のように吹き乱れ、暴れすさんだ。
 あまりにも私に都合がよすぎる展開に、騙されているんじゃないかという気すらしてくる。
「え、あの、黒尾さん……本当にですか?」
苗字さんから言い出したのに、なんで俺のこと疑うんですか」
「いや、だって、まさか本当にうなずかれるとは思わず」
「なんで。普通にうなずきますよ」
 俺のことなんだと思ってんですか、と黒尾さんがまた笑う。その笑顔には、親密さを感じさせる揶揄が滲んでいた。意識した途端、かぁっと顔が熱くなる。まずい、嬉しい。なんだか思っていたよりずっと、浮かれてしまいそうになっている。
 すでにお互いの家の前まで到着していたが、ふたりとも鍵を取り出すこともなく、その場で足を止めていた。
「それなら、明日の昼間に苗字さんちにうかがって大丈夫ですか? だめなら、俺んちでも。予定とかってどうですか」
「明日ですか? ええと、はい。大丈夫のはずですが」
「さすがにこの時間から、一人暮らしの女の人の家にあがるのは申し訳ないんで。うちに上がってもらうのもなんですし」
「そ、そうですよね……
 そうか、すでに異性をおとなうには遅すぎるのか。たしかにお互い夕食まで済ませてきて、のんびり帰宅してこの時間だ。当然の配慮といえる。そして、そういう配慮を黒尾さんの方からしてくれるというのは、女性の私としてはたいへんありがたく思うべきことでもあった。
 黒尾さんはしっかりしてる。うっかり浮かれて後先を考えていない私とは、まったく比べようもないしっかり者だ。いや、単にまったく恋愛対象として私を見ていないからこそ、一切浮かれることなく常識的な判断をくだせているのかもしれないが。
「まあ、浮かれて早まったことやらかして、っていうのは、さすがにまずいですよね」
「そ、そうですよね……
 内心で冷汗をだらだら流しながら、私は神妙にうなずく。
 と、そこで私は首をひねった。先ほど黒尾さんから「顔に出やすい」とは言われたけれど、浮かれて後先考えず、早まったことやらかして、なんて、さすがにそこまで具体的な表情をしているつもりはない。
 黒尾さんは私の心を読むことができるのだろうか? いやまさか、そんなことはありえない。となれば、黒尾さんは私の心情を想像することができる? あるいは、黒尾さんも同じように──。
 冷や汗なのかなんなのか、訳の分からない汗がどっと全身に吹き出した。
 もしかしてもしなくても、私の気持ちは黒尾さんには筒抜けなのだろうか? けれども会話の流れからして、黒尾さんの方もまんざらではないということ?
 ぐるぐると、頭の中で思考がめまぐるしく駆け巡る。都合がいいのか悪いのか、どう受け取るべきなのか分かったものではない。
 こんなとき、どうしたらいいのだろう。私はすがるような気持ちで、目の前の黒尾さんを仰ぎ見た。もとはといえば黒尾さんのせいで混乱の極地に陥れられているのに、すがれる相手も黒尾さんしかいない。
 黒尾さんはゆるりと口角を上げ、なんとも言い難い笑みを浮かべて私を見ていた。なんなんだその笑顔は。どう受け取ればいい笑顔なんだ。
「あの……えっと、黒尾さん……
 息も絶え絶え、私はつぶやく。
 果たして、黒尾さんはにっこり笑みを深めて言った。
「なんつっても初回ですからね。俺としても、急いては事を仕損じるなんてのは避けたいというか。遅い時間の約束は、また後日、ゆっくりとってことでね」
「ひぇぁぁ……
 意味深な笑みを向けられて、思わず悲鳴のような声が口からもれた。もはや自分がどんな顔色をしているのかも分からない。赤くなっているのか、蒼褪めているのか。分からなくてよかったのかもしれない。どうせろくな顔はしていない。
 マンションの通路天井の電灯に照らされて、きっと黒尾さんからは私の顔色も、表情も、何もかもはっきり見えているはずだ。情けない、ろくでもないはずの私の顔が。私が黒尾さんの悪戯めいた表情を、はっきりと目に焼き付けているのと同様に。
「じゃ、そういうことで。明日は明るい時間にうかがいます」
「は、はい……
「いやー、いい誕生日ですよ。今年の誕生日は」
 機嫌よく、鼻歌でも歌いそうな調子でうそぶいて、黒尾さんは両手塞がった状態のまま、器用にかばんから鍵を取り出した。
「おやすみなさい、苗字さん」
 今まで聞いたこともない、黒尾さんのとろけるようにやわらかい声。
「おやすみなさい」
 どうにかこうにか返事をして部屋に入った私は、後ろ手にドアを閉じた瞬間、腰が砕けてその場にへたりこんだ。