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柚子子
2022-06-19 21:18:52
5500文字
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シリーズもの・長編試し読み
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尾崎隼人とお見合いする 試読用第1話
全9話 サイトにて完結済
※無印・クロユリの内容についてかなり大きめなネタバレがあります。未プレイの方はお読みいただかないようよろしくお願いいたします。
初夏の兆しを感じる庭園は、昨晩の雨で濡れそぼった紫陽花が眩い陽をあびて、瞬くようにきらきら輝いていた。和服ではぬかるんだ道は歩きにくい。石を並べて敷き詰めた道を歩きながら、履き慣れない草履で転ばないよう細心の注意を払う。
空気が湿り気を帯び、重く纏わりついていた。
洋装で私の一歩前を歩いていた彼は、やがて紫陽花の生け垣が途切れた頃、ようやく振り返り私を見た。父たちが待つ料亭の建物からは、もう随分と離れていた。
「先にお伝えしておきたいのですが──申し訳ありません、俺がこの縁談話をお受けすることはありません。貴女の大切なお時間をこれ以上奪いたくはないので、無礼を承知でこのようなお話をさせていただきました」
迷いの見えぬ表情で、きっぱりとそう告げられて、思わず笑いだしたくなった。そう言われるだろうと思っていたし、覚悟も十分してきたのだが、いざ目の前の彼にはっきり拒否を突き付けられると、胸を引きちぎられるような気持ちになる。
それでも今日は、気丈に振る舞うと決めていた。久世先輩のように凛と気高く、笑みを絶やさぬようにしようと心にちゃんと決めてきた。
視界の端の紫陽花の葉から、つゆが一粒ぽたりとこぼれた。
「すみません。これは俺の勝手です。その勝手で貴女や貴女のお父上の顔を潰すつもりはありません。だから宜しければ貴女から、俺との縁談を断っていただけませんか」
「お話に伺っていたとおりの方ですね、尾崎さん」
気持ちを押し殺し、笑顔で言う。彼──八代隼人さんであり、尾崎隼人さんでもある彼は、一瞬面食らった顔をして、それからすぐに警戒したのか眉根を寄せた。
「話
……
? いや、それよりも今、俺のことを尾崎って──」
「偽名を知られていることが、そうまで不思議でございますか」
「
……
知られて気分がいいものではないでしょう」
尾崎さんの声が険を帯びた。意地悪してもよくないだろう。私は種明かしをすることにした。
「そう警戒なさらないでください。尾崎さんのお話は久世先輩から伺っております」
「く、久世!?」
不意打ちで出した先輩の名に、尾崎さんは分かりやすく驚いた顔をした。泣きたいような気分になりながら、不思議と同時に胸がすっともする。ここに来てからずっと止まらなかった総身の震えも、ようやく今収まろうとしていた。
「尾崎さん、やっぱり先に届けさせた私の身上書に目を通されていないんですね」
「いや、それは
……
──すみません。忙しくて」
「久世先輩は、私の女学校時代の先輩です」
ばつが悪げな尾崎さんは、そこで大きく目を見開いた。
久世先輩と同じ、感情が顔に出やすい人だと思う。きっとお仕事のときにはそうでないのだろうと思うけれど、久世先輩の名前が出たことで多分、いろいろと取り繕うのを忘れてしまったに違いない。
頭の中に、久世先輩のやわらかな笑顔がふと浮かぶ。女学校時代の、一学年上の先輩。同じ合唱部で、私はときどき久世先輩の伸びやかな声に聞き惚れた。もっとも、先輩は自分の声をあまり好きではないらしい。あんなに素敵な声をしているのに、褒められるたび恥ずかしそうにする久世先輩を見て、なぜだかそれも「久世先輩らしい」と思えた。
見慣れた長い髪を短くしてしまったときには驚いたけれど、今の髪形も先輩にはよく似合っている。丈の短いスカートの制服も。
「誤解なさらないでくださいね。久世先輩はお仕事のことをぺらぺらと他言したりはなさいません。尾崎さんのことも、お仕事の仲間として少し話に上っただけです」
「それは
……
信用していますが」
尾崎さんは言葉を見つけあぐねているようだった。視線を辺りに巡らせて、思案しながら眉を下げている。
私は草履の足を半歩引き、わずかに尾崎さんから身を離した。庭園には私と尾崎さんのふたりきりしかいない。
「私ね、大学生だった頃の尾崎さんが久世先輩のことをあのウエノの公園で見つめていらしたのを、ずっと知っておりました」
尾崎さんがまた、驚いたように声を漏らす。けれどそれ以上何も言われなかったので、私は話を続けることにした。
懐かしい話だ。今よりもう何年も前、女学生だった私は名も知らなかった彼に対して、ひそかに思いを募らせていた。帝都大の学生が行きかうその公園で、尾崎さんだけは何か別の生き物のように私の目を惹いて、そしてすぐ、私をとりこにした。
目立つ長身に整った顔貌。久世先輩を見つめる瞳はまっすぐ澄んでいて、それなのに時々眩しげに、苦し気にふせた瞳を縁どる睫毛は、遠目に見ても分かるほどに太く長かった。
艶やかな黒髪が、降り注ぐ陽の光を浴びて輝いていた。この人のことが好きなのだと、男性に対し、生まれてはじめてそう思った。声を聞きたいと、まっすぐ正面から見つめてみたいと、そんな叶わぬ望みを抱いた。
叶わぬことは、分かっていた。
「それで
……
『ああ、この素敵な男性は、久世先輩のことがお好きなのだわ』と思い、夜な夜な枕を濡らしたりしたものです。ふふ、懐かしい。久世先輩が尾崎さんの焦がれるような視線にお気づきでなかったように、尾崎さんも私の視線にはお気づきではなかったでしょう?」
胸に去来する懐かしさと切なさと苦しさを混ぜたような感情に、軽いめまいを覚える。しかしそれを表に出すことはせず、できるだけ余裕ありげに振る舞った。尾崎さんは、少しだけ困った顔をして私を見ていた。
「それは申し訳ないことを」
「いえね、でもそれはそれで仕方がないことだと思います。だって私、あなたのお名前も存じ上げませんでしたし、ましてお声を掛けるなんてこと、はしたなくって」
「華族のお嬢様だから?」
「ふふ、華族のお嬢様ですから」
ようやく尾崎さんがかすかに笑みを浮かべてくれた。その笑顔が誰を思いだしてのものか分かって、また泣きたくなる。慌てて弱気を振り払った。急き立てられるように、私は口を開く。
「だからね、一年くらい前かしら。あなたが久世先輩と一緒に制服で町中を歩いておられたのを見かけた時、思いました。ああ、遂にあの方のお気持ちが報われたのだわって、
……
憧れの先輩が、憧れの男性と幸せになられたのだわって」
もとより実る希望のない、あえかな片思いだった。所詮は見つめるだけの恋だったのだ。私しか知らない、有るか無しかの思いだった。
けれど隣同士で肩を並べて歩くふたりの姿を見たら、自分がそれでもどこかに希望を持っていたことに気付かされた。もしかしたらあの男の人が私を見つけ出し、手を差し出してくれるかもしれない──粉々に砕かれてようやく、私は自分の中に無謀な期待があったことに気が付いた。
女学生の頃より凛として頼もしげな先輩は、肩のあたりで切った髪を颯爽と靡かせ歩いていた。女学校では咎められるに違いない短いスカートも、先輩が穿くと不思議と不埒な見た目にはならなかった。男性の隣を歩く先輩は勇ましくて軽やかで、昔よりもずっと素敵になっていた。
その姿を見て、敵いっこないと、そう思った。
あんなふうには、私はなれない。
「だけど
……
、その後たまたまお会いした久世先輩にお話を伺って驚きました。久世先輩ったら、素敵な恋人ができたんですねとお尋ねしたら、あなたとは似ても似つかない男の人の話を恥ずかしそうにお話するんですもの。ああ、ごめんなさいね。こんな話を尾崎さんは聞きたくありませんわよね」
「いや、そのことはもう」
苦々しげな顔をして、尾崎さんは笑った。
「そう、
……
強くていらっしゃるのね。尾崎さんは」
そうして、私は久世先輩があの帝都の大学生だった彼ではない、別の男性と結ばれたのだということを知った。話の流れで私の思い人の名が尾崎さんというのだと教えてもらい、私は長年の片思いの相手の名前をようやく知るに至った。
尾崎隼人さん。彼は久世先輩と同じ職場でお勤めし、久世先輩と同じアパートで暮らしながら、ついぞ久世先輩と結ばれなかったのだと知った。
「あなたとの縁談のお話があがったのはまったくの偶然です。父は私の結婚に関してはもうだいぶ諦め気味なところがあるのですけれど、久し振りに熱心に縁談の話を進めてきたようで。八代様のご長男と伺って、八代汽船という会社のことは存じておりましたから、興味本位で身上書を見て驚きました。帝国図書情報資産管理局にお勤めの、下の名前が隼人さんとおっしゃる方だなんて書いてあったので。それで、少し調べてみたら八代さんというのはあの、久世先輩と一緒にいらした尾崎さんだというから」
「貴女が俺について調べたんですか? あなたのお父上ではなく」
「私ですわよ。私が勝手に。お気を悪くしたならごめんなさいね」
父はきっと、彼が尾崎という偽名を使っていることも知らない。私が勝手に、自分の伝手を使って調べたのだ。そうであったらいいなという思いと、そんな都合のいい夢を見るべきではないという自制心が、私を駆り立てた。
果たしてそれは、都合のいい夢などではなかった。
「運命だと──思いましたわ」
運命、と、尾崎さんがぽつりと繰り返す。きっと尾崎さんも、久世先輩と再会した日にはそう思ったことだろう。私だって、久世家を襲った痛ましい事件については風のうわさで聞いている。それでも、思わずにはいられなかったに違いない。これこそが運命の導いた再会なのだと。
尾崎さんが小さく顔をしかめた。何か痛みに耐えているような、そんな表情にも見えた。きっとただ見つめていた日々よりも、運命と疑うような再会を果たした後の方がずっと、尾崎さんの久世先輩への気持ちは膨らんでいるのだろう。私ですら、見合いが決まってからの方がずっと、尾崎さんを強く想っている。恋い──焦がれている。
そっと私は息を吸う。着物を着た胸は苦しくて、思い切り息も吸えない。
「尾崎さんが今もまだ久世先輩を想われていることは知っています。縁談の話をいただいたときにも、ちらりとそういう話が聞こえてまいりました。それに、今日こうして尾崎さんとお会いして、改めて確信いたしました。けれど、尾崎さんの運命のひとが久世先輩だからって、私の運命の相手が尾崎さんであってはならないということはないでしょう?」
「は、」
「それに、好きになったひとがたとえ自分を好きになってくれなくても、それを理由に気持ちを失くしてしまえるわけではないのだということ、尾崎さんが一番ご存知なのではないかしら」
尾崎さんの表情が、一瞬呆気にとられてぽかんとした後、みるみる険しくなっていった。しかしそれはただ気分を害しているというふうではなく、何処か苦しさを感じさせる表情だった。その苦しさは、私にも分かる。私もまた、尾崎さんが思うのと同じ苦しさを、胸の中に住まわせ続けていた。
「先程も申しましたけど、お気を悪くさせたならごめんなさいね。でも、尾崎さんは回りくどいのはお好きじゃないのではないかしらと思ったものですから、このようなお話をさせていただきました」
最初に半歩引いた足を、今ふたたび尾崎さんの方へと踏み出す。
「縁談を受けろ、今すぐ結婚しろとは申しませんわ。もしかしたら父はそういうつもりかもしれませんけれど、幸い私、今すぐお嫁に行きたいわけではありません。お世話になっている叔母のお手伝いのようなお仕事をしていて、そちらも楽しいことですし」
「仕事をされているのですか。ってすみません、これも身上書に書いてありましたか」
「いえ、こちらは書いておりません。外聞が悪いだろうからと祖父が」
私が言うと、尾崎さんが苦笑した。我が家は華族といっても勲功華族──要するに御一新前までは大した身分を持たなかった、田舎ものの成りあがりだ。そのためか、一族の者はみなことさら「世間の目」を気にする。父は進歩的な人で私が婚期を逃しかけていても目を瞑ってくれているが、祖父まで遡るとそういうわけにもいかない。そういう事情も、尾崎さんは察してくれたようだった。
足元でじゃりと音が鳴る。私は一度視線を伏せたのち顔を上げ、ふたたび尾崎さんをまっすぐに見据えた。
「尾崎さん、私とお見合いをされたのは八代隼人様としてだと思いますし、八代様としてこの話を正式にお断りいただいても私はかまいません。私や父の面子など、八代様が気にされなくても大丈夫です」
そこで一度、私は言葉を切った。そして、
「ですが尾崎隼人さんとは、これからも時々お話をさせてくださいませんか。私、あなたのことが好きだという気持ちをまだまだ捨てられそうにないです。あなたがこちらを振り向いてくれなくたって、お顔が見られるだけで幸せです。それとも、こんなはしたないことを言う女はお嫌い?」
尾崎さんは、思案を巡らせるようにじっと口を噤んでいた。沈黙のとばりが不意に落ち、ただそよぐ風の葉擦れの音だけがしんしんと積もっていく。先程までに比べると、紫陽花の花は太陽の光を厭うように、何処か褪せてしまったようだった。
鳥の声が、遠くで聞こえた。
やがて尾崎さんは、溜息をひとつ吐き出してからこう言った。
「俺は久世のことが好きですよ。久世が誰のものであろうとも」
「私は尾崎さんのことをお慕いしております。尾崎さんが誰に視線を送られていても」
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