魔法舎でメイドとして働くようになって暫く経つ。魔法舎の主だった住人が名だたる魔法使いであるためか、あるいはここが大陸中から厄介ごとが持ち込まれる機関であるためか、はたまた単なる偶然か、とかく魔法舎では事件が多い。氾濫しているとすら言ってもいい。
ただ、だからといってまさか、私とネロの記憶が立て続けに失われるなど、まったく誰も想像していなかった。
「あー、ええと……悪い……」
「いえ、仕方ない……ですよね……」
ネロとの間にぎこちなく交わされる会話は、私の心がまだネロと通じ合っていなかった頃、私が恋心ゆえにたびたび先走ったときの気まずさとよく似ていた。実際、今の状況はその時とよく似ている。ネロは私への気持ちを私にまつわる記憶ごと失い、私ひとりだけが変わらずネロに思いを寄せ続けている。
私に関するネロの記憶が失われて、およそ半刻。私は途方に暮れていた。
「外傷はないし、魔法や呪術の気配もない。記憶の欠落といっても、抜けているのは君のことだけなんだよね? ううん、魔法でないのなら、なかなか特異な症状だなぁ。考えられる理由といえば、西の国の魔法使いが厨房に置いていった果実くらい? ルージュベリーに似ていたって話だけど、外見だけ酷似していて、実はぜんぜん違う効能を持つ魔法植物って結構いろいろあるし、そういうのに当たっちゃったのかもね。ネロにしては迂闊としか言いようがないけど」
滔々と診察所見を述べたフィガロ先生は、最終的に、
「まあ君のときも思い出したし、ネロもそのうちあっさり思い出すんじゃないのかな」
そんなひどく楽観的な予想で説明をしめくくった。はぁ、とネロが腑に落ちないような返事をする。
場所は魔法舎、談話室。ネロの様子がおかしいことに気付いた私がフィガロ先生を部屋まで呼びに行き、そして現在に至っている。
現在魔法舎の半数以上の魔法使いが、賢者様と一緒に西の国の突端のとある半島に任務に出ている。魔法舎に残っていたのは留守番中の責任者であるフィガロ先生と東の国の魔法使い、それにたまたまくしゃみのせいで任務出発時に不在にしており、つい先ほど帰還したばかりのブラッドリーだけだった。
お医者様であるフィガロ先生が残っていてくれたことだけが、不幸中の幸いだ。それでもフィガロ先生の所見があまりに楽観的なせいで、私はいまひとつ安心できずにいた。
談話室にはネロと私、フィガロ先生、それに騒ぎを聞いてやってきたブラッドリーの四名だけだ。東の国の魔法使いたちは今日は授業がないそうで、まだこの騒ぎには気が付いていないらしい。
記憶喪失とはいえ、私に関すること以外の記憶に欠けはない。そのためか深刻というよりはむしろ、困惑した空気があたりには漂っていた。
「まあ、万が一記憶が戻らなかったとして――」
これまで黙っていたブラッドリーが、とくに神妙になることもなく、ネロと私の顔を交互に眺めて切り出した。
「それで特に困るってこともねえな。ネロが石になったわけでも、てめえが死ぬわけでもなし」
「なんでそう極端な例しか引き合いに出せないんですか……」
「命さえありゃ大抵どうにかなるってのが俺様の経験談だ」
「いや、誰が何を、どの口で言ってんだよ。そういうのは命を大事にするやつが言うせりふだろ……」
ネロが呆れたように溜息を吐く。ブラッドリーが苛立たし気にネロに凄むが、ネロは気にしたふうもない。ネロの視線は遠慮がちに私の頭の上あたりをろうろしており、突如現れた人間の恋人の存在に戸惑っているのだろうことがありありと察せられた。
「あの、ネロ」
おそるおそると呼びかけると、ネロはぎくりと肩を揺らす。こわばった表情で「なに?」と聞かれると、私は居た堪れなさに消えたくなった。
「あの、本当に私のこと、何も覚えてない……ですか……?」
「……悪い」
「いえ、私もネロのこと忘れちゃったことあるので、忘れちゃったときはお互い様、というか」
「どういう限定的なお互い様だ」
「記憶喪失がこんなに乱発するの、俺も長いこと生きてきてはじめて見たよ」
横に控えるブラッドリーとフィガロ先生がすかさず茶々を入れる。私がじとりと睨むと、ブラッドリーは鼻を鳴らし、フィガロ先生はへらりと気の抜けた笑顔で私を見返した。
「とはいえ、ブラッドリーの言うことにも一理ある」
「死ななきゃ、って話ですか?」
私が首を傾げると、フィガロ先生は大きく頷いた。
「万が一ネロが君のことを思い出さなかったとしても、それなら新しく関係を築けばいいだけの話だよ」
「それは……」
優しげに掛けられた言葉。しかし私は返答しあぐね言い淀む。
たしかに私が魔法舎にやってきて、まだたかだか数か月しか経っていない。それすなわち、私がネロと出会い、恋に落ち、そして付き合うに至るのに要した時間が数か月であるということだ。長命の魔法使いにしてみれば、たかだか数か月の絆など、いくらでもやり直しの利くものに違いない。
まして、すでに私とネロは一度恋人になっている。一度は恋人になったのだから、今度はもっと効率よく交際に漕ぎつけるだろう、ということらしい。
フィガロ先生の言葉を裏付けるように、ブラッドリーも不本意そうに浅く頷く。
「フィガロに同意する気はさらさらねえが、今回ばかりは俺様も同じ意見だ。もともとだって根暗で及び腰のネロ相手に、お前がしつっこく粘って付き合ったんだろ。だったらもう一度同じように粘ればいいんじゃねえか」
そうだろ、とブラッドリーが私の肩を叩く。その動作は気さくで親しげで。あたかも私を励ますような気遣いに満ちている。
けれど私は、自分でも分かるほど眉尻を下げた困り笑いで、
「……それは無理ですよ」
と、答えるしかなかった。ブラッドリーとフィガロ先生が、揃って訝しそうな顔をする。私は情けない気持ちになりながら、彼らに事情を説明した。
「前のときはなんというか、ブラッドリーが言うとおり私がしつこく粘ったのはそのとおりなんですけど、でも、それだけじゃなくて……、今にして思えば、ネロとの距離が近づく機会が、それこそ奇跡みたいにいろいろとあって……。六百年生きてるネロの頑なさを少しだけやわらかくする偶然があったからこそ、私はネロに好きになってもらえたわけで……」
できるだけ卑屈にならないよう気を付けて、私はぽつぽつと言葉を紡いだ。
ブラッドリーやフィガロ先生、それに記憶を失っているネロにとっては、ネロが失ったのはたかだか数か月分の、私と関連する記憶だけ。いくらでも代えの利く、今からでも取り戻せるものに思えるかもしれない。
しかし実際には、本当に奇跡のような数か月だったのだ。あの奇跡がなければ、今の私とネロはない。そのことは数か月間、ネロを追いかけ苦しい思いも甘い期待もいやというほど味わった私と、そしてネロが――記憶を失う前のネロだけが知っていることだった。
たまたま東の国で近くに住んでいて、偶然中央の国で再会した。そうして数多の偶然を経て、奇跡的に好きになってもらえた。もしかすると互いに好きあうだけならば、時間を掛ければ取り戻せるのかもしれない。けれど恋して結ばれることはきっともう再現不可能だ。ネロが人間の恋人をつくる、人間と結ばれるということは、本当に奇跡でもなければあり得ないことだった。ネロの頑なさは、奇跡なくしてはけしてほぐせない。
悲観しているわけではない。
ただ、それが事実というだけだ。
「だから、もう一回なんて多分、無理なんです。奇跡と偶然が起こらなきゃ、私がネロと恋人になってもらえるなんて、あり得ないことだったから」
だからこそ、私は途方に暮れているのだった。
ネロが記憶を取り戻さない限り、私がもう一度ネロとどうこうなる未来はない。それならば私は今後、ネロがいない人生についても考えていかなければならない。今は手に職があるが、このまま魔法舎で働くということは、記憶のないネロと生活を共にし続けるということだ。
ネロと一緒にいてつらくなるのならば、職を辞することも視野に入れなければならない。もしもここを出ていくのなら、賢者の魔法使いとしてこの場に求められているネロではなく、当然代えの利く存在である私の方だろう。故郷に帰ることはできないから、何か糧を得る方法を考えなければならない。
一度得た幸福を手放して安穏と笑っていられるほど、私は強い人間ではない。けれども一緒にいられないのなら、以前、記憶喪失になった私を私のために手放そうとしてくれたネロのように、せめて笑顔でそばを離れる選択をしたかった。
おそらくはブラッドリーもフィガロ先生も、私の言葉の裏にあるものを読み取ったのだろう。彼らは無理に私を焚きつけたりもせず、ただそうかと呟いただけだった。人間の小娘の精いっぱいの強がりを暴き立てたりしないでいてくれるだけ、彼らはやはり優しい。そして同時に、人間と魔法使いの恋のままならなさを、私以上に知っている。
しばし、場に複雑な沈黙が落ちた。ネロに視線を遣れば、気まずげに目をそらされる。つきんと小さく、私の胸の奥が痛んだそのとき、ふいにブラッドリーによって勢いよく背を叩かれた。
「いった!?」
思わず本気の悲鳴を上げるが、ブラッドリーは悪びれることなく腰を屈め、睨む私と視線の高さを揃えた。
「ま、辛気臭ェこと考えんのにはまだ早ェだろ。大体、その時はその時だな。そうなったら俺様がネロに代わって、てめえの面倒くらい見てやるよ。てめえなんかもうほぼ子分みたいなもんだしな」
「ええ? 全然子分になった覚えないんですが……」
不満をぼそりと口にすると、今度は横から肩を叩かれる。フィガロ先生だった。
「そういうことなら、俺もお婿さん候補に入れてくれていいんだよ?」
「それもかなりご遠慮……」
「そうだ、てめえはすっこんでろ」
「いやいや、獄中の盗賊より地域に貢献する医者の方が、お婿さんの条件としてはいいんじゃない?」
「誰もこいつの婿になるなんて言ってねえだろうが」
「あれ、そうなんだ? じゃあお婿さんレースは俺の一人勝ちってことだ」
口を挟む間もないうちに、ふたりの舌戦はみるみる白熱していく。気付けば当事者の私すら蚊帳の外に放り出されていた。
フィガロ先生の言葉はどう聞いても冗談だ。おそらくは私を和ませるための冗談だろう。しかし如何せん必要以上にブラッドリーを煽るので、なかなか始末が悪い。この辺りで仲裁しないと、またぞろ魔法舎がひどいことになりかねなかった。そうなったとき、仕事が増えるのはメイドの私だ。
「ちょ、ちょっと待ってください。そもそもそんなレースは無――」
と、割り込みかけた私の腕が、今度は別の方から軽く引かれた。そのはずみに足がわずかにもつれ、「わ、」と声が喉から漏れる。その声に気を取られたのか、ブラッドリーとフィガロ先生はそろって口をつぐみ、顔を私へと向けた。
「ひぇ」と、今度は上擦った声が漏れる。
無意識に顔を上げれば、私の腕をとったネロが、ブラッドリーとフィガロ先生に呆れ果てた視線を向けていた。
「……いい年した魔法使いがよってたかって、人間の女の子困らせんなよ」
私をかばうその言葉に、うっかり胸がじんとする。私のことなど何も覚えていなくたって、ネロの優しさは揺るがない。そういえば、私が最初に好きになったネロの優しさは、こういう誰に対しても開かれた優しさなのだった。恋人にだけ与える優しさではない。彼本来の優しさ。
しかし私が浸っている間にも、
「へえ、記憶がなくても俺の女を困らせてほしくねえってか」
そう言ってブラッドリーがにやにやと茶化す。フィガロ先生までが悪戯っぽい顔で笑っていた。ネロの顔が、一瞬にして真っ赤に茹で上がる。
「なっ、そういうんじゃ――」
「自分の女だって言い張りてえなら、さっさと女のこと思い出せよ。ったく、これだから世話の焼ける……」
ぼやくように吐き捨てて、ブラッドリーはゆるりと踵を返した。ぼろぼろになったコートの裾がふわりと翻る。
ブラッドリーの退室に合わせたかのように、フィガロ先生も「これ以上、今のところ俺にできることはなさそうだね」と言い残し、すたすたと談話室を出て行ってしまった。窓の外から聞こえる鳥の声。室内には私とネロだけがぽつりと取り残された。
なんとなく出ていくタイミングを失って、私は手持無沙汰な心持ちになる。気まぐれにネロに視線を移せば、ネロの方でも私を眺めているところだった。
ばちりと視線がぶつかる。また目を逸らされるだろうか、と胸がちくりと痛んだが、意外にもネロは、じっと私のことを見つめたまま視線を外そうとはしなかった。
「……ネロ?」
少しだけ不安になって、私はネロの名前を呼んだ。人の視線に敏感なネロは、案外相手をじっと見つめることが少ない。恋人になってからは甘い空気で見つめ合うこともあったが、それ以前は私から見つめることはあっても、ネロから私を見つめたりはしなかったように思う。もちろん私が知らないだけかもしれないが。
「あのさ」と、束の間ののち、ネロは口を開いた。
「俺、あんたのこと全然覚えてねえんだけどさ」
「あ、はい……」
ほのかに灯った期待が、すぐさま消し跳ぶ。けれどその落胆を顔に出さぬよう気を付けて、私はネロの言葉の続きを待った。
「でもさっき、フィガロとブラッドリーが言い争ってるのをあんたが仲裁しようとしてるのを見て、なんでか勝手に身体が動いたんだ。だから多分、自分でも信じらんねえことではあるんだけど、俺はあんたのことがかなり大切なんだろうな、と、思う……。そうじゃなきゃフィガロとブラッドリーに割り込むなんて、俺がそんなことするってあり得ねえし……」
ばつが悪そうな表情を隠すように、ネロは一度俯いた。水色の前髪がふわりと垂れ、ネロの表情をカーテンを引いたように隠す。
ネロの手が、首の裏をかくように持ち上がる。ややあってから「だからさ」とこぼれた彼の声は、ここのところ聞き慣れていたネロの声よりわずかに緊張していた。
「絶対に思い出すって約束はできねえけど、あんたのこと思い出せるように、一応の努力はしてみる」
「……はい」
「だからもう少しだけ、待っててくんないかな」
こわばった声で伝えられた思いに、はっと胸が衝かれる思いがした。
本当ならば、待っていてほしいなんて言葉をネロはけして言わないだろう。待たせること、期待させること、待つこと、期待すること。そういうことを、ネロは何故だか妙に苦手にしている。怖がっているとすら、見えかねないほどに。
だからこそ、今のネロからその言葉が生まれた意味を、私は考えずにはいられなかった。それはきっと、今のネロにとっての最大限の愛情表現。記憶にない恋人に対して見せることのできる、最上の愛だ。
俯くネロにも分かるように、私ははっきりと頷いた。ぎゅっと拳を握りしめ、溢れそうになる気持ちをどうにか胸の裡に押しとどめる。
「もちろん、私はいつも、いつでも、いつまでもネロのことを待ちますよ」
ようやく顔を上げたネロの、ほっとしたような、気まずいようなそんな表情を眺め、私はやっと少しだけ、胸が軽くなるのを感じていた。
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