柚子子
2020-07-13 14:45:19
18049文字
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最果てまで

黒尾!!!!!!!!!!!!!!!!黒尾!!!!!!!!!!!!!!黒尾!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前 私がはじめて彼に出会ったのは、高校三年の秋だった。受験勉強の息抜きにレンタルした、タイトルだけかろうじて知っていた少年漫画。その漫画に、彼はいた。
「ええ……なん、何? めっちゃ格好いい……大好き……
 彼の名は黒尾鉄朗くんという。いわゆる主役校のライバルポジションの高校の主将で、特徴的な髪形と高校三年とは思えない食えない性格が、ひねくれたキャラクター好きの私のつぼにハマった。
 レンタルしてきたその日に既刊をすべて読破して、家族が『ジャンプ』を購読している友人に頼み込み、コミックス化されていない部分にも追いついた。奇しくも本誌では烏野が青葉城西高校に敗北し、東京で強化合宿をしている真っ最中。黒尾の出番は目白押しだった。
 一般受験で年明けまで進路の決まらないクラスメイトたちを後目に早々に推薦で進路を決めた私は、黒尾の出番をこの目で確認すべく、毎週月曜の朝にコンビニで『ジャンプ』を買ってから学校に行く、そんな女子高生へと無事に変貌を遂げていた。

 そんな生活がすっかり私に馴染んだ頃。ある日私は不思議な体験をした。夜眠りにつき、ふと気付くと夢枕に人が立つようになったのだ。
 しかし、枕元に立たれたところで、少しだって怖くはなかった。何せ、立つ人物は毎回決まっている。それも恐ろしい幽霊だったり、おどろおどろしいゾンビだったりするわけではない。むしろ会えるなどとは夢にも思っていなかった人物。
 私の枕元に立っていたのは私の推し──黒尾鉄朗くんだった。

「えっ、え? く、黒尾? 夢?」
「えっ? どちらさんですか……?」

 それが私と黒尾の交わした、一番最初の会話だった。
 私は夜眠りについたときと同じパジャマ姿。対する黒尾は練習着と思しき黒のTシャツにハーフパンツというラフな出で立ちだった。幽霊だからか、においは感じない。いや、そもそも二次元のキャラクターが幽霊になるなんてあり得るのだろうか? 私が見ている幻覚かと思い布団から出て手を伸ばすと、やはりその身体に触れることはなく、伸ばした手は黒尾の身体をずぶりと突き抜けた。
「えっ!?」
 驚いたのは黒尾だ。そりゃあそうだろう、いきなり見知らぬ女の枕元に立たされて、おまけに自分が幽霊のような状態になっている。驚かないはずがない。
「ちょっと俺、今全然意味が分かってねえんだけど……。もしかして俺、練習中の事故とかで死んだ? 臨死体験? 相当まずいんでない?」
「死んでないと思うんだけど、というか多分、そもそも生きてないのでは?」
「なんでそんな怖いこと言うの!? ていうかそもそも誰!?」
 そんなわけで、私と黒尾は互いの情報を共有することにした。隣室では今頃私の両親が眠っているはずだ。さすがに十代の娘が夜半に男子を部屋に連れ込んでいると思われてはまずいので、あくまで声をひそめ、時折筆談をまじえながら私と黒尾は話をした。

 私は日本の女子高生。二〇一四年現在、受験を終え、気楽な身の上の女子高生。
 黒尾は日本の男子高校生。現在、春高出場を目指し、部活動に明け暮れる男子高校生。
 つまり、私と黒尾は同じ学年の高校生ということになる。私たち最大の違いは、私は黒尾を知っていて、黒尾は私を知らないということだった。

 次の晩にもやはり、黒尾は私の夢枕に立った。昨晩は会話の途中で、ふつりと黒尾の姿が消えてしまったのだ。気が付いたら、朝になっていた。寝不足は感じなかったが、朝になっても妙な違和感は心の中に残り続けていた。
 昨晩のことは夢かもしれないと思っていたが、筆談をしたあとはきちんと証拠として残っている。それ以外には何ひとつ黒尾がここにいた証拠などなかったが、ほかの誰かに信じてもらうでもなし、自分が納得するためにはそれだけ残っていれば十分だった。
 冬の夜は寒い。実体を持たない黒尾と違い、真夜中に目を覚ました私はうっかりすると凍えそうになってしまう。カーディガンをベッドのわきに置くと、念のためエアコンもつけてからベッドに入った。
 昨晩と違ってきちんとした恰好で布団に入っていた私に対して、黒尾はやはり練習着姿だった。私の恰好に気付いた黒尾は、
「あれ、いつの間に着替えた?」
 と驚いたように目を瞬かせた。
「え?」
「早着替え? つーか俺の前で? もしかして、結構なハレンチ?」
「ハレンチじゃないっていうか、ハレンチって何!」
 しー、と黒尾が私の唇に自分の指を押し当てる。感覚こそないが、そんなふうに男子に触れられるのははじめてで、はっと私は口を噤んだ。心の動揺を落ち着けるために何度か深呼吸をした後、私はふうと深呼吸とも溜息ともつかない息を吐き、言った。
「いや、昨日はいきなりのことだったけど、今日はさすがに心の準備もしていたし……年頃の娘としてはあんまりパジャマ姿を見られるのも、ねえ……
 だから別にハレンチだとかそういう問題ではなく。練習着一枚でどこにでも出ていける男子高校生とは、そもそもの感覚や情緒の仕組みが違っているわけで。
 しかし、黒尾の関心は私の情緒の仕組みなどではなく、私の発した「昨日」「今日」という言葉にこそあった。
……つまり、『こっち』では一日が経ったってこと?」
 顎に手をあて、黒尾が問う。当然のことを聞かれてしまい、私は首を傾げた。
「そうだけど……黒尾は違うの?」
「俺は、さっき名前と話してから一秒も時間が途切れてない。ずっと続いてる感覚」
 つまり、私が朝、目を醒まし、一日を過ごし、そしてまたここで眠って黒尾を待っていた一日分の時間を、黒尾は経験しなかったということだ。黒尾にとって昨晩の出来事はついさっきの出来事で、私にとっての一日は、黒尾にとって存在していないも同然だった。
 そんなことがあるだろうか。私は理由を考えながら視線を彷徨わせる。勉強机の上に置いてある『ジャンプ』本誌が目に入った瞬間に、黒尾と私の時間の流れ方が違う、大体の理由を察した。
「ははあ……たしかに私が一週間を過ごす間、漫画の中では時間が止まってるわけだしねえ」
 訳知り顔で言うと、黒尾が怪訝そうに「漫画?」と私の言葉を繰り返す。一瞬、頭の中で「もしかして、これは黒尾本人に教えない方がよかったことだろうか」という疑問も過ぎったが、どうせいつまでも隠しおおせられるものでもない。私よりも黒尾の方がずっと賢そうで、なおかつ勘も鋭そうだった。
 私はベッドから下りると、机の上のジャンプを手にとる。実体を持たない黒尾が、部屋の中のものに触れたり動かしたりすることができないのは昨日確認している。
 黒尾に代わって、私がページを捲る。開いたのは、『ハイキュー!!』のページ。そこを見せ、黒尾に私の想像できる限りを説明した。
 黒尾は黙って私の話に耳を傾けたのち、言った。
「つまり、俺は漫画の登場人物ってこと?」
「そう」
「しかも天下の『ジャンプ』の?」
「そう」
「まじ?」
「まじ」
 束の間の沈黙が流れ。
「なあ、ちょっとさっきの俺がブロックしてるページ、もっかい見せてくんねえ?」
 頼まれるまま『ジャンプ』を手に取りページを捲る。見せてほしいと頼まれたのは最新号ではなかった。黒尾に状況を説明するために押し入れの中に片づけていたジャンプを何冊か引っ張り出しており、その中の一冊だ。
 力強いブロックをツッキーや日向に披露する黒尾は、たしかにめちゃくちゃ格好よく描かれていた。
「うわ、俺、めちゃくちゃカッコいいな……。いやリエーフちょっとイケメンに描かれすぎてねえ? あいつこんなに目ぇデカくねえって。いや、デカいか……?」
「みんなかっこいいよ」
 何せ、二次元なのだから。そういえば今目の前にいる黒尾のことを、私は黒尾鉄朗だとちゃんと認識することができている。しかし実際には古舘先生の絵柄ではなく、限りなく私が今暮らしている世界の人間としての容姿をしていた。
 見たことが無いけれど、2.5次元の舞台俳優ってこういう感じなんだろうか。メイクをしているいないの差はあるだろうけれど。
 と、黒尾本人を前にしながらそんなことをぼんやり考えていると、
「それで、名前は誰が一番好きなの?」
 藪から棒に、黒尾が意地の悪い質問を投げてきた。これでもし、質問を投げてきたのがクラスの男子で、質問の内容が「クラスで一番好きな男子は」だったなら、私は多分まごついてしまって答えられなかっただろう。クラスの男子は私にとっては現実味がありすぎる。そのうえ、別にクラスに好きな男子なんていない。
 しかし、相手は二次元のキャラクターだ。あれだけ好きだ好きだとはしゃぎまくってきたのだから、今更恥じることもない。
「それはまあ、黒尾だけど」
 するりと返事を口にすると、黒尾はにやりと笑ったのち、すぐに眉根を寄せて私を見た。
「まじ? 本当のやつ? 上げて落とすやつじゃなく?」
 あっさり答えすぎたせいで、逆に疑惑を持たれてしまったらしい。思わず苦笑した。
「大丈夫、本当のやつ。上げしかないやつ」
「まじかー。遂に来てしまったんだな、俺のモテ期が」
「そうだねぇ、たしかにオタクからの人気はすごいだろうね」
 もちろん、愛し方は人それぞれだろうし、中には黒尾本人は知らない方がいいような愛の形もあるのかもしれないが。ともあれ、黒尾が押しも押されもせぬ人気キャラクターであるということはたしかな事実だった。
 考えてみると、この状況は凄まじいものだ。私の黒尾への執念が見せる幻覚だろうとは思うのだが、とはいえこの世界に一体何人、黒尾に夢枕に立ってほしいオタクがいることだろう。夢の中でもいいからひと目推しに会いたいと思うのは、きっとオタク共通の願いだ。
「本当に夢みたいだよ……
 しみじみ呟く私に、黒尾はふっと表情をゆるめた。
「まあ、夢みたいっていうか夢、なんだろうな。そうじゃなかったら俺も困るし」
「あ、そっか」
「けど、夢の中だったらなに話してもいいよな。ただのリアルな夢ってだけでもなさそうだし」
 不思議な現象への適応が早い黒尾は、そう言うと勉強机の前に引きっぱなしになっていた椅子に腰かけた。夢枕に立つことはあっても女子のベッドに腰かけることはしないらしい。
 椅子が軋むことはない。黒尾はその長い脚を無造作に放り出し、背中を丸めて上半身をぐっと私の方に屈め、笑った。
「せっかくだし、これも縁ってことで。俺にも名前のこと教えてよ。名前は俺のこと漫画で読んで知ってるのかもしんねえけど、俺は名前のこと全然知らない」
 そんなふうに言われると、こちらとしてはドキドキしてしまうわけで。ただでさえ好きな漫画の好きなキャラクターが目の前にいるというのに、それだけでなく、私に歩み寄ろうとしてくれている。私のことを知ったところで、黒尾にはこれといって得もなさそうなのに。
 ドキドキと高鳴る胸の音を誤魔化すように、
「私のことより、試合のこととか知りたくないの?」
 私は尋ねる。黒尾は私の問いに、
「まあ、知りたくないっていえば嘘になるけど」
 そう答え、ちらりと先程開いた『ジャンプ』に一瞥寄越す。しかし、その視線はすぐに私に焦点を結びなおし、口許には愉しそうな笑みが浮かんでいた。
「でも、そっちは今はいいかな。さっき『ジャンプ』見せてもらった感じ、全部俺にとっては過去のことだったっぽいし」
「そうなの?」
「そう。今ここにいる? いやいない? いや、どっちでもいいけど、ここにいる俺は、夏の合同合宿を終えて家に帰るバスに乗ってた俺だから」
「あ、そうなんだ」
「そういうこと。それに、本来俺が知らなかったはずの秘密の特訓とか、チビちゃんが主役ってんならそういうのもあるだろうし。そういうのを横から勝手に盗み見るのは、やっぱりフェアじゃないんじゃねえかなーと思うんだけど」
「そうだね。それもそうだ」
「ん。そういうわけだから、まあ漫画のことは一旦わきに置いておいて、オハナシしよっかね。今夜がいつまで続くかは分かんねえけど」

 それから五日ほど続けて、黒尾は私の夢枕に立ち続けた。その間に私たちは互いの話をいろいろとして、私は黒尾がひとりのキャラクターである以上に、『ハイキュー!!』の世界を生きるひとりの人間なのだということを理解した。
 黒尾の話は面白くて、くだらなかった。漫画を読んでいたときに感じた黒尾の大人びた印象も、ここではあまり感じることができなかった。多分、部活の主将としてではなく、のちのち後腐れもない気楽な関係で話をしていたからなのだろう。
 私の話もいろいろ話して、黒尾の話をいろいろ聞いて。
 そしてその週の日曜日を最後に、黒尾が私の夢枕に立つことはなくなった。
 月曜に発売された『ジャンプ』では『ハイキュー!!』の舞台が宮城に戻り、黒尾の姿はどこにもなかった。

 次に黒尾が夢枕に立ったのは、なんとそれから二年以上も後のことだった。
「あれ、名前?」
「久し振りだね」
 二年ぶりに会った黒尾は、暗闇の中でどろんとした瞳を珍しくぱっちり開いて、驚いたように私を見つめていた。無理もない。黒尾が過ごしたほんの数か月の間に、高校三年生だった私はすでに二十歳になっていた。
 枕元においていたリモコンで部屋の電気をつける。途端に目に飛び込んできた真っ赤な赤色のジャージが、寝起きの目には少し眩しい。
 挨拶もそこそこにささっと手櫛で髪の毛を整える私を、まじまじと黒尾が見つめている。「なに?」と尋ねれば、黒尾は何故だかちょっと照れたように笑った。
「いやいや、これはきれいなおねーさんになっちゃったなぁと」
「そりゃあまあ、二年以上経つからね」
「え、二年? そんなに経った?」
「烏野と白鳥沢の試合が長かったんだよ。熱い試合でねぇ」
「はいはい、なるほど。理解した」
 黒尾と別れてからというもの、『ハイキュー!!』は長らく宮城県の代表決定戦をやっていた。途中回想で黒尾が出てくることはあっても、がっつり試合で出てくることはなく、そういうわけで黒尾との夢枕での再会は私も期待していなかった。
 黒尾が夢枕に立つための条件をはっきりと理解しているわけではない。そもそもが不可思議な現象なのだし、もしかしたらすべては私の妄想にしか過ぎないという可能性もある。しかしいったん妄想説はわきに置き、条件らしきものがあると仮定し、私はひとつの仮説を立てた。
 その仮説とは、黒尾が本誌で活躍し、その活躍が一段落した週になれば会えるのだろう、というものだ。そしてその仮説のもと、私は黒尾の登場を心待ちにしながら日々を過ごしてきたのだ。
 毎週欠かさず『ハイキュー!!』をチェックし続けていた私は、実はそろそろ黒尾が夢枕に立つかもしれないという予感があった。何せ、今週号で東京都の代表決定戦が終了したのだ。これを黒尾の活躍と呼ばずして、何を活躍と呼ぼうというのか。
 そんなわけで、私は満を持して黒尾を迎えたというわけだ。今回は不意打ちではないので、準備もしっかりしている。部屋は当然ぴかぴかだし、きちんと化粧もしている。棚に飾っていた及川のフィギュアも片づけた。さすがに「青葉城西戦の及川がかっこよすぎてフィギュア買ったんだよね」とは言えない。だって、黒尾のことが一番好きだから黒尾が夢枕に立ってくれているのかもしれないし。別に及川のことは、そういうんじゃないし。いや、黒尾ともそういうんではないが。
 クローゼットの中に押し込まれた及川のフィギュアに私が思いを馳せていると、
「つーか、引っ越したんだ」
 黒尾が辺りを見回し、呟いた。「ああ、うん」と私は返す。
「大学に進学するときに実家を出たんだよ。なかなかいい部屋でしょ」
 すでに暮らし始めて数年のこの部屋は、大学進学時に大学生協で紹介してもらった物件だった。学生以外は立ち入り禁止であることを不便だという住人もいるようだが、私にとってはその方が安心で助かっている。それに、黒尾は玄関からやってくるわけではないのだ。いきなり部屋の中に現れる存在に胸をときめかせている私には、男子禁制・関係者以外立ち入り禁止の鉄のおきてなど何の問題にもならなかった。
「大丈夫? 防犯的なあれとかこれとか」
「管理人さんが常駐してるし。ていうか、なんで再会していきなりお母さんみたいなこと言うの?」
 それに心配されなくても、ちゃんとオートロックだし、監視カメラもいくつもついているし。そんな説明をしていたら、いつしか意識が遠のいていく。意識の輪郭が曖昧になっていき、気付けば朝になっていた。

「あ、そうだ。東京都の代表おめでとう」
 翌晩、黒尾と顔を合わせるなり私は言った。昨晩はどうでもいい話をしていたせいで時間を無駄にしてしまった。前回と同じルールならば、今回もおそらく、黒尾が夢枕に立ってくれるのは次の『ジャンプ』が発売するまでの一週間だけだろう。
 文字通り、時間は有限だ。さくさくと話を進めていかねばならない。
「代表ってすごいね」
「ありがと。つーか知ってたんだ」
「うん。丁度今週号でね」
「もしかして、ずっと読んでくれてんの?」
「そうだよ。気になっちゃってさ」
 さすがにひとり暮らしの部屋で『ジャンプ』の山を積み上げるのは嫌なので、読んだ分はゼミの後輩に回してしまっている。それでも、黒尾が出ている号は後輩に断ったうえでちゃんと全部ページを切り抜いてとってあるし、コミックスだって買っている。黒尾本人には言わないが、私の行動はすっかりオタクのそれだった。
 話をしながら、ワンルームの隅にあるキッチンでふたり分のお茶を淹れる。すでに五月も末だが、今夜はやけに冷える。
 実体を持たない黒尾はお茶を出したところで飲むことはできない。それでも、何も出さないのは私の気分や悪い。それに、明日の朝片づけるときに「ここに私以外にもう一人いた」という証があるのは心強いものだ。
「何はともあれ、全国いけてほっとしてるよ」
 私の出したお茶に目を細め、黒尾が言った。
「私も読者としてほっとした。ゴミ捨て場の決戦が実現しそうでよかったよ」
 お茶を啜りそう言うと、黒尾は表情の読めない瞳でこちらを眺め、にんまりと笑った。その笑顔があまりにも漫画で見たままの笑顔だったから、私はうっかりドキドキしてしまう。
「な、なに?」
「いや、さすがに読者だと話がはえーなと」
「そりゃそうだよ」
 ともすれば、黒尾本人が知らないでいてほしいと思っているかもしれないことまで、私は知ることができてしまう。黒尾に限らず、『ハイキュー!!』に登場するすべてのキャラクターたちの掘り下げがあればあるほど、私は彼らの内面に土足で踏み込んでしまう。
 それでも、黒尾はそのことについては何も言わない。自分は漫画の中のキャラクターで、私は漫画の読者。黒尾の立場からすればそれは不思議なことなのだろうが、少なくとも私と一緒にいるときの黒尾は、私から見たその立ち位置をけして崩さないでいてくれる。
 そういう立ち居振る舞いがうまいのが、黒尾らしいなと思う。
「でも、漫画の主役はチビちゃんたちだろ? いざゴミ捨て場の決戦ってなったとき、そっち応援しちゃうんじゃねえの」
 揶揄するように問う黒尾に、私は正直に首肯した。
「それは正直、ちょっとあるかも。なんだかんだいって日向たちには負けてほしくないし」
「俺に負けろと?」
「音駒にも勝ってほしいなあ」
 もちろん、そんなことがあり得ないことは分かっているけれど。しかし、そう思ってしまうのは読者としては自然なことなんじゃないだろうか。
 だってキャラクターとして一番好きなのは黒尾でも、結局漫画を読んでいる以上、私はみんなのことが好きなのだ。及川のフィギュアを買ってしまったりしたのも、そういうことだ。
 黒尾が「ふうん」と笑っている。今度はにんまりというよりも、分かりやすくにやにやしていた。今となっては私よりも年下のくせに、黒尾からは私を年上の人間として扱おうという気が微塵も感じられない。
「だから何」
 なんだか腰が引けた物言いになってしまった。そのためか、黒尾は愉しそうに口角を上げる。
名前、すげえ欲張りだなと思って」
「そうだよ。だって私、読者だからね。読者は欲張っていいんだよ」
「どういうルール?」
「欲張る代わりに、どういう結果になってもおつかれさまでしたって拍手するから」
 黒尾が、わずかに肩を揺らした。
 どういう結果になろうとも──それは多分、黒尾たちが試合の結果がどうであっても、というのとはまったく意味が違うのだろう。黒尾たちは漫画の中のキャラクターだがそれでも彼らには彼らの世界がある。たとえ原作者がいると分かっていても、彼らは努力を怠ることはしないだろう。そしてまた、勝敗が如何であったとしても、それをほんの僅かな時の運と、圧倒的なこれまでの積み重ねの結果だととらえるに違いない。黒尾にとっての、どういう結果になろうとも、とはそういうことだ。
 しかし私には違う。私にできることは、せいぜい毎週楽しみに『ジャンプ』を買い、一生懸命アンケートを送ることくらい。そこに描かれているものは、描かれた時点で私たち読者が関与することのできない過去の物語。いや、たとえ描かれる前だったとしても、私たちには一切手を出すことのできない物語だ。
 だからこそ、今ここにいる黒尾は、『ジャンプ』に描かれているその瞬間の黒尾ではない。そこよりほんの少しだけ後ろの時間の黒尾だ。
 なんとなく、しんみりした気分になってしまった。
 私と黒尾はどこまでいっても同じ視点に立つことはなく、私たちの時間が交わることは未来永劫ありえない。そんな当然の事実を突き付けられたような、そんな気分になってくる。
「ま、それもウチと烏野が勝ち上がっていけたらの話だけどな」
 沈んだ空気を払しょくするように、黒尾がそう言って笑う。
 それから五日間、黒尾とはどうでもいいような話をしたりしなかったりして過ごした。実家にいた頃と違い、声を潜めて話をする必要もない。小さな音で流したテレビを見たり、私が捲って一緒に雑誌を読んだり、そんなふうにしてだらだら過ごした。
 そして、やはりまた日曜日の夜を最後に、黒尾は私の部屋からすっかり消えた。

 次に黒尾に会えたのは、それからさらに二年半以上が経ってからだった。ゴミ捨て場の決戦が終わったのだ。双方死力を尽くした試合が終わり、SNS上は大盛り上がりだった。
 枕元に気配を感じ、即座に部屋の電気をつけた。今夜こそ現れるに違いないと思っていたし、逆に今夜夢枕に立たれないのであれば、もう二度と会えないのではないかという気もしていた。
 私の予想した通り、黒尾はその晩現れた。随分久しぶりに会ったというのに、黒尾は最後に会ったときとほとんど変わりない、漫画で描かれたままの姿だった。赤のジャージ姿の黒尾の顔には、うっすらとだが疲労の色が見える。
「おつかれ」
 布団から這い出て、声を掛ける。黒尾もまた、「おー、そっちもおつかれ」と返す。
「というか、また成長してんな。今度は何年経った?」
「二年半くらいかな」
「すげえ経ってる」
「一年近くゴミ捨て場の決戦やってたよ」
「まじか。どうりで疲れ切ってるはずだよ」
「読んでるこっちも疲労困憊よ」
 ここのところは『ジャンプ』も電子版を購読している。月曜日は週の初めから、毎朝五時に目覚ましを掛けて『ハイキュー!!』をチェックするのがこの一年の私の習慣になっていた。今日も早起きをしたせいで、昼間目がしょぼついて仕方がなかった。もっとも、今日目がしょぼついていたのは何も早起きをしたせいだけではない。
 そのことに、黒尾も気が付いたようだった。
名前、泣いた?」
 黒尾が私の前にしゃがみ、遠慮がちに顔を覗き込む。相変わらず身長は大きいが、今の私から見れば黒尾は五つも年下の男子高校生だ。さすがに顔を覗き込まれたところでドキドキしたりはしない──と言いたいが、ドキドキはした。それでも、それは顔に出さずに胸に秘めておける程度のものだった。
「分かる? ゴミ捨て場のあとのあれこれ読んで、泣いた」
「はは」
 何故か他人事のように笑う黒尾。途端にいい年して漫画を読んでいる自分が恥ずかしくなって、私は誤魔化すように顔を顰め、黒尾を睨んだ。
「なに笑ってんの。というか逆に、あれが泣かずに読めると思うの?」
「いや、けど名前、前に漫画とかであんまり泣かないタイプって言ってなかったっけ」
 そういえば、そんな話をしたことがある気もする。しかし黒尾とはたいてい大して意味のない会話しかしていないので、どんな会話をしたかなんて逐一覚えてはいなかった。何せ、私にとってはこのよく分からない集会も数年に亘る長い付き合いだ。短い期間の中で立て続けに私と会っている黒尾とは違う。
「そりゃあまあ、漫画で泣くことは少ないけど」
「けど、何?」
「だって黒尾は漫画だけど漫画じゃないじゃん」
 口に出してしまえば何のこともない。自分でも分かるような分からないような、子供の駄々のような理屈だった。
 それでも黒尾は、どこか呆れたように眉尻を下げて笑うと、「それもそうだな」と返してくれた。
 私にとって、黒尾は漫画の中のキャラクター。けれどもう、ただのキャラクターと思えなくなっているくらい、私は黒尾のことを知ってしまった。会った回数はこれでまだ三度目。それでも、黒尾と言葉を交わし始めてすでに数年が経過している。ただでさえ、黒尾は大好きなキャラクターなのだ。それなのに、そのキャラクターと数年おきに言葉を交わす機会に恵まれている。顔を合わせていない時間だって、黒尾のことばかり考えている。
 そうやってもう何年も、黒尾鉄朗という存在と付き合い続けているのだ。もはやただのキャラクターとしてなんて、見られるはずがない。
 黒尾はどうなのだろう。黒尾は私のことを、どういうふうに思っているのだろう。自分が出てくる漫画を読む、ひとりの読者に過ぎないのだろうか。もちろんそれは、何の間違いでもないのだが。
 今更ながらに、茫漠とした不安が胸中で嵐のように巻き起こる。そもそも二次元のキャラクターとこんなふうに言葉を交わすだけでも信じられないことなのに、私はこれ以上、一体何を望んでいるのだろう。その答えが明白なだけに、余計に自分で受け容れられずにいる。
「まあ、俺の部活はこれで一応終わったわけだけど」
 思案に耽っていたところで、唐突に黒尾が吐き出した。
「でも、漫画はまだ続いてるわけだから。そう落ち込んだ顔すんなよ」
「は、はい」
 咄嗟に、よく分からない返事しか返せなかった。
 うっかりいくつも年下の男子高校生に慰められてしまったらしい。何時の間にか伏せていた視線を上げれば、黒尾はいつものような気持ちを読みにくいにんまり顔で私を見ている。しかしその視線の中には私の様子を窺うような色が隠しきれていない。
 黒尾でも、私の気持ちや考えを見透かしきれないことがあるんだ。
 我ながら現金なことだが、たったそれだけのことで、少し心が軽くなった気がした。
「そういえば、今の黒尾はどの黒尾なの?」
 目元をそっと拭って、尋ねれば、
「今年の春高の全日程を終えた世界の黒尾さんだよ」
 とあっさり返事が返ってくる。ということは、この後の烏野がどこまで勝ち進むかも、すでに黒尾は知っているということだ。そのことについて聞いてみたい気もしたし、聞いてはいけない気もした。前に「本来知っているはずじゃないことを知るのはフェアじゃない」というようなことを黒尾が言っていたように、一読者でしかない私もまた、このまま毎週早起きをして烏野高校の行く末を見守るべきなのだろう。
「なにか聞きたいことでもある?」
 恐らく、私の胸中を察して黒尾が笑う。私よりも年下になってしまったのに、黒尾は私などよりもずっと上手で、察しがよく、そして気が回る。
「そういうわけじゃないけど。じゃあもう受験まっしぐらだなと思って」
「その話はやめておこうか」
 黒尾が心底嫌そうな顔をしたので、ここぞとばかりににやりと笑い返した。

 それからはいつものように、取り留めのない話をした。今週もまだ一日目だ。時間ならばたっぷりあった。
「黒尾は大学に行っても、バレー続ける?」
 夜食の春雨スープをつくりながら問う。黒尾は暫しの沈黙ののち、かすかに眉間に皺をつくった。
「どうだろうな。まだはっきりは決めてねえけど。それより、これも名前的にはネタバレになる可能性ない?」
「なるの?」
 春高の試合結果などならば分からなくもないが、これだけの情報でもネタバレになってしまうのだろうか。私が首を傾げるが、黒尾はいたって真剣な表情をしている。
「分かんねえけど、だって俺たちが引退したところで、チビちゃんたちが主役なら来年の挑戦も漫画になるかもしれねえし、それこそその後大学バレー編とかプロリーグ編とかやるかもだろ。そうなったら、ほかのキャラクターの進路とかも結構読者にとっては重要じゃねえ?」
「ああ、そっか。たしかに」
 ぽん、と手を打つ。携帯のタイマーが、お湯を入れて三分を知らせるアラームを鳴らした。
「私は読者だから、なんとなく今の学年でひと区切りっていう感じだけど、でもそっか。黒尾たちにしてみればまだまだこの先が当たり前にあるんだよね」
「そ。だから、さっきも言ったけど全部終わったわけじゃない。俺の高校バレーは終わったけど、それが俺の全部ってわけでもないし」
 からりと何気ないふうを装って、黒尾はそう言った。その一言に、私は黒尾が何もかもお見通しだったことに気付く。
 ゴミ捨て場の決戦が終わって。黒尾の、高校バレーが終わって。
 私の知る黒尾という男子高校生は、あくまでも音駒高校バレー部の主将だ。それ以外の部分にライトが当たることはほとんどなく、彼はいつでもバレーとともにあった。過去の掘り下げがあったとはいえ、それもまた、今の黒尾を構成する要素としての掘り下げであって。
 ただの男子高校生だったり、息子だったり、誰かの友人だったり、あるいは誰かの恋人であったり──そういう黒尾は、漫画の中には存在しないも同然だ。
 その黒尾の、高校バレーが終わってしまった。そのことに、私はまだうまく整理をつけられていない。そして黒尾は、私のそんなじめじめした感傷に気が付いている。気が付いているから、あえてからりと笑ってくれている。
 本当に遣る瀬無いのは黒尾のはずなのに、黒尾は私に気を遣ってくれている。ただの読者に過ぎない私の、身勝手で他人事な感傷に。
「黒尾って、ずるい」
 春雨スープをテーブルに置き、私は黒尾を見る。黒尾は何故だか居住まいをただし、正座で私に視線を寄越した。
「俺の励ましのどこがずるい?」
「だって、私と黒尾が会えるのなんて一回あたり七日分、それでまだ会うの三回目なのに。なんで黒尾は私が言ってほしいことがそんなに分かるの?」
 口にすると随分子供っぽい言いぐさだった。しかし黒尾は笑い飛ばすこともせず、
「なんでだろうね?」
 とやわらかく笑う。それなのに私に向けられた眼差しは、はっとするほど真剣だった。
「そう思っててくれたらいいなって、思ってるからかな」
 ふいに、胸を衝かれる思いがした。
 この感覚を、私は知っている。特定の相手に抱いたことはなかったが、漫画を読んだり本を読んで、嫌というほど知っている。私は、この感情の名前を。
 胸の鼓動が、どんどんリズムを速めていく。
 テーブルに置きっぱなしにしていた手には、汗がじわりと滲んでいた。
 締め切ったカーテンの隙間から覗く夜空は真っ黒で、まだまだ朝は遠いのだと思い知る。
 暫し、沈黙が落ちた。
名前
 一瞬たりとも目を逸らさないまま、黒尾が、私の声を呼ぶ。
 ほかのアニメでも耳にする、人気声優の声。それなのに、今私を呼んだ声はただひとり、黒尾鉄朗の声だった。ほかの誰でもなく。
「ま、待って」
 咄嗟に出た声は、自分の声とは思えないほど固くぎこちなく、緊張した声だった。黒尾の瞳が翳ったような気がしたが、今はそのことをどうこう言っている場合ではなかった。
 私は私の中に生まれた、どうしようもない感情を押さえつけるだけでいっぱいいっぱいだった。唐突に生まれ、膨らみ、行き場をなくしたこの感情を抑するだけで。
「黒尾は、多分私と出会ってから半年くらいしか経ってないし、顔を合わせたのだってほんの三回くらいで、だから全然私のことなんて、たまに顔を合わすよく分からん女くらいにしか思ってないのかもしれないし、というか絶対にそうだと思うし、それはあの、分かっているんだけど」
 黒尾が何か言いたげに口を開く。けれど彼が声を発するより先に、私は言葉を継ぐ。
「だけど、私は黒尾と出会ってから五年くらい、暇さえあればずっと黒尾のことを考えてるよ」
名前
 一瞬、黒尾の声が期待を孕んだ気がした。
 それでも。
「なんか、こういうのガチ恋っていうのかな。黒尾は二次元のキャラクターだって、分かってるけど。というか、漫画のキャラクターだって分かってるから、安心して好きとか言えるのかなとも思うし。なんか、そういうのって、あるじゃない?」
 それでも、私はそういうしかなかった。
 だってそれは事実なのだから。黒尾は漫画のキャラクターで、私はその漫画の読者でしかなくて。こうして奇跡みたいに言葉を交わすことがあったとしても、それは奇跡にほかならない。それ以上の奇跡を望むことなんて、到底できるはずがない。
「大学生編も社会人編も楽しみにしてるよ。もしもまた会えたら、そのときはまた色々と話してね」
 それより先の記憶はない。
 気が付けば、私は肌触りの悪いじゅうたんの上で倒れるように眠っていた。火曜日の朝。テーブルの上にはすっかり冷たくなってしまった春雨スープのカップが置かれている。部屋の中には粉末スープのにおいが充満していた。

 それきり、黒尾が夢枕に立つことは二度となかった。

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 七月になるというのに、仙台は寒く、おまけに雨まで降っていた。本来ならばこの時期、遠出などするべきではないのだろう。そう分かっているのに、気が付けば会社に休みの連絡を入れ、仙台行きの新幹線に飛び乗っていた。
 とはいえ、こんな時期だから観光などするのも気が引ける。新幹線の中でルートを調べ、カメイアリーナ仙台の外観だけ写真をとって、そそくさと駅まで引き返した。それだけするのにも、ほとんど下準備のなかった私にはひと苦労で、結局駅まで戻った頃にはとっぷりと日が暮れていた。
 駅中で適当に食事を済ませ、帰りの新幹線に乗り込んだ。その途端、途方もない疲労感と虚無感に襲われた。
 こんなところまでやってきて、私は一体何がしたかったのだろう。この世界とあの世界は別物で、そもそもあの世界は今十一月で、だから私が今日ここに来たところでどうなるわけでも、まして誰に会えるわけでもなかったのに。一体、いい大人が何をしているのか。情けなくって涙も出ない。
 新幹線がゆるやかに動き出す。
 来週以降、私はどうやって生きていけばいいのだろう。今朝の『ジャンプ』本誌を読んでからは、そればかりを考えている。変人コンビの勝負の行方を見届けて、黒尾の再登場を見届けて。そして来週には、七年も追いかけてきた漫画が最終回を迎える。うまく実感が伴わないはずなのに、言い知れぬ喪失感だけはぽかりと心に存在していた。いや、存在しないといった方が正しいのだろうか。そんなことは、この際どうだっていいけれど。
 最後に黒尾が夢枕に立ってから、一年半が過ぎていた。

 流れていく景色を、ひとりぼんやり眺める。新幹線はいつにもましてガラガラで、この車両に乗っているのも私とサラリーマンのおじさんがひとりだけだった。
 私は何をしているんだろう。そんな気持ちばかりが、胸に積もっては重たくなっていく。
 このまま東京に帰って、ちゃんと生活できるのだろうか。自分のことなのに、ただ生活するということにすら自信がない。たかだか漫画のことでここまで落ち込む自分が嫌で、目元に滲んだ涙をぬぐおうとした、まさにその時。
「おねーさん、隣あいてる?」
 ふいに、男性から声を掛けられた。こんなにもガラガラなのに、わざわざ声を掛けるなんてナンパか何かだろうか。怪訝に思いながら、私は視線を窓から通路へと移す。
 そして、言葉を失った。
「う、く、」
 黒尾だった。一瞬、頭が真っ白になる。けれど次の瞬間には黒尾の名前を大声で呼ぼうとして、すぐに唇を黒尾の指で塞がれた。
 はじめて黒尾が夢枕に立った日と同じ仕草に、私は一度は浮かせかけた腰を、へなへなと再び座席におろす。
「はい、ここ新幹線の中だからね。大きな声出すの厳禁」
「く、黒尾……
 私の返事も待たず、黒尾は私の隣の空席に腰を下ろした。長身で足の長い黒尾には、新幹線の座席は些か窮屈そうにも見える。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
 ぴしりとスーツを着こなした黒尾は、今朝読んだ『ジャンプ』で登場した黒尾そのままだった。ストライプのネクタイも、学生時代よりも少しだけやわらかくセットされた髪形も、何もかも。
 何もかも、大人になった黒尾鉄朗その人だった。
「変人コンビがついに激突って感じの試合だったし、俺が選手として出てるわけではなくても、十中八九漫画にはなってるだろうなと思ってたから、もしかしたら会えるかなって期待はしてたけど」
 そう言って、黒尾は未だ呆然としている私の顔をひょいと覗き込む。
 悪戯っぽい瞳は、高校生の頃の黒尾のまま、変わりない。
名前は何してんの? 宮城まで旅行?」
「なんか……居てもたってもいられなくなって……
 それ以外に、何も理由を思いつけなかった。
 『ハイキュー!!』が次回で最終回で、ずっと登場しなくて気をもんでいた黒尾がようやく登場して。それだけで、私は宮城くんだりまでやってきてしまったのだ。正直、自分でも正気の沙汰とは思えない。今まで聖地巡礼などしたことがなかったし、どれだけ黒尾と『ハイキュー!!』のことを好きであっても、そのために何処か遠方まで足を伸ばすということもしたことがなかった。
 それなのに、気が付けば新幹線に乗っていた。
 何の確証もないままに、気付けば宮城にやってきていた。
 これも夢なのだろうか?
「なんで黒尾がここにいるの? これも夢なの?」
 思ったままを口にすれば、黒尾は特に驚いたりする様子もなく、
「どうだろうな。もしかしたら夢の中かも」
 と答える。そりゃあそうだろう。私と黒尾は言葉のとおり違う世界を生きている。間違ってもこんなふうに新幹線でたまたま隣り合わせるなんてことのない、現実と、物語の世界。
名前はなんで夢だと思う?」
「だって、こっちの世界は今大きな大会なんてやれるような状況じゃないよ」
「あー、じゃあやっぱ夢なのかもな」
 それきり、暫し会話が途切れた。黒尾は何を考えているのかよく分からず、ただぼんやりと膝の上で組んだ自分の手を眺めている。大きな手。彼がどんな仕事をしているのか、今の私は知っている。それでもきっと彼はまだ、バレーをプレイする側の人間でもあるのだろう。黒尾の手を見ていたら、なんとなくそんな気がした。
「今いくつ?」
 ふいに、黒尾が尋ねた。
「二十五」
「ああ、やっぱ名前のが俺よりひとつ年上なのか」
 やっぱり、の意味が分からず、私は黙って頷いた。
「最後に会った時、二十三って言ってたっけ。じゃああれから二年くらいか」
「一年半かな」
「俺は六年。六年、名前に会えなかった」
 何でもないことのように、黒尾は言った。
 そうか、黒尾の世界ではこの一年半の間に六年もの時間が流れたのか。私だけが年齢を重ねるばかりだと思っていたけれど、黒尾もちゃんと、自分の世界で自分の時間を重ねている。私たち読者の見えないところで、黒尾はちゃんと生きている。
「黒尾、なんか飲む?」
 ふたたびの間に耐え切れず、私は問う。車内販売など一度も通っていないのに、間を持たせるためだけの質問だった。
「いや、いいや。さっきまで飲んでたし」
「あ、そうなんだ」
「まあ、付き合う程度に」
 誰と、なんてことは聞くまでもなく知っている。昔の仲間たちが勢ぞろいしているとなれば、そういう流れにもなるだろう。
 たとえそれが漫画に描かれていなくたって。時間の流れる速さが私とは違っても。
 そんな当たり前のことを、すっかり大人の男の人になってしまった黒尾の隣で、ぼんやりと考える。
 と、黒尾が「名前」と、そっと私の名を呼んだ。視線を黒尾に向ければ、やや改まったように口をきゅっと引き結んだ黒尾が、真剣な表情で私を見つめていた。
 それは最後に会った日、一年半前に高校生だった黒尾が私に向けていたのとまるきり同じ、真剣で、心を決めている人の瞳だった。
「前に会った時、名前は暇さえあれば俺のこと考えてるって言ってただろ」
……言ったっけ、そんなこと」
「言った」
 とぼけたけれど、本当はちゃんと覚えていた。
 忘れるはずがない。忘れられる、はずがない。
「俺もこの六年、名前のことばっか考えてたよ」
 そう言って、黒尾はそろりと、私の手へと手を伸ばす。
 重なった手のひらは、たしかに質感と熱を持っていた。
「バレー関係の仕事についたのは、俺がそうしたかったからだけど──でも本当は心のどこかで、あいつらに関わっていれば、また名前に会えるかなとも思ってた。名前が読んでいたのは、俺の物語じゃなくて、あいつらの物語だったから」
 果たして、そうだろうか。
 たしかに主人公は日向と影山だったけれど、本当にあれは、彼らの物語だったのだろうか。
 少なくとも私にとっては、そうではなかった。彼らの物語を読むとき、私はいつでも、そこに黒尾を探し続けていた。今も、ずっと。
「つまり、そういうことなんだけど」
 黒尾が私の顔を覗き込む。いつもの、私の気持ちを探ろうとするような表情ではない。いや、ただ探ろうというよりは、むしろ何かを待っているような表情だった。何を待っているのかは、さすがに私でも分かる。
「うん、そっか」
……なんか飲む?」
「それさっき私が聞いたやつ」
 くすくすと笑って。
 私は黒尾の手を、握り返した。
「ねえ黒尾、この新幹線おりたらさ」
「うん?」
「世界、どうなってると思う?」
「どう、とは」
「私の世界か、黒尾の世界か」
「どうだろうな。一緒になって混ざり合ってたら最高だけど」
「たしかに」
 そんなに都合のいいことがあるだろうか。
 いつもの私なら、きっとそんな未来は信じない。
 黒尾が夢枕に立つ奇跡はあっても、それ以上の奇跡など起こりえないことを、私は何年もかけて実感している。
 黒尾だって同じだろう。黒尾もまた、六年音沙汰ないまま自分の世界を生きていた。だから、嫌というほど知っている。奇跡はそう簡単には起こらない。
 それでも、と。私がそう頭の中で思うのと、黒尾が「それでも」と口にするのはほとんど同時だった。
「それでも──新幹線をおりても手をつないでいられたら」
「はい」
「俺たち、お付き合いをしませんか」
 黒尾の言葉は、予想していたものとは少しだけ違っていた。じっと黒尾を見つめると、黒尾が今更ながらに狼狽えたように視線を泳がせる。
「あのですね、名前さん。返事をもらえると助かるんですけど」
「私、今プロポーズされるかと思った」
「えっ!? その方がよかった!? ちょっと俺悩んで、でもそれは先走りすぎかと思ってやめたんだけど」
「いや、いいと思うよ」
 そんなに急がなくても、きっともう、大丈夫のはずだから。
「お付き合い、しましょうか。新幹線をおりたら」