「お願い、ヤーカおじさん! この本、急いでドクターに返さなきゃいけないんだけど、あたし、これからどうしても外せない用事があるの!」
そう言って、クリフハートは一冊の本をマッターホルンに押し付けてきた。
どうやら、その本を代わりにドクターに返しに行ってほしい、ということらしい。
日頃の彼女のお願いに比べれば随分と可愛いものだし、シルバーアッシュ家の従者として断る理由もない。ただ、クリフハートの様子にかすかな違和感を覚えた。
具体的な根拠もない、いわゆる勘の部類だが、彼女とは長い付き合いだ。うまくは言えないものの、まるでイタズラを隠しているときのような――
「それは構いませんが……」
押し付けられた本の表紙に目を落とす。
題名から察するに、天候関連の書籍らしい。クリフハートの専門分野を思えば、そこまで畑違いの文献でもないが、どちらかといえば天賦の才と直感で山と向き合っている彼女が、好んで読むような本にも思えなかった。
「やったー! じゃあお願いね!」
「は……?」
一瞬、彼女から目を離したその隙に、クリフハートはもはや廊下の向こう側まで遠ざかっていた。ご機嫌に手を振り、角を曲がって姿を消してしまう。
ふと、脱兎のごとく、という極東の慣用句が頭に過ぎった。十中八九、逃げられたのだ。
やれやれ、何を隠しているのやら。彼女はいたずら好きだが、自身の非はきちんと認められる。ぱらぱらと本をめくって見ても目立つ破損は見当たらないし、借りた本を汚したり壊したという類の話でもなさそうだ。
あれこれ考えては見たものの思い当たる節もなく、マッターホルンは仕方なく、ドクターの下へと足を向けた。
*
「ドクター、マッターホルンです。ご在室でしょうか?」
「開いているよ、入って」
「失礼します。休憩中に申し訳ありません。執務室を訪ねたところ、こちらだと秘書の方に伺いまし……て……」
許可を得て室内に踏み込んだマッターホルンは、来意を説明しようと部屋の主の方へ顔を向け――手に持っていた本を見事に足の上に取り落とした。
「ッ――!」
ゴッ、と鈍い音と共に、ブーツの上から足の甲へ鈍い痛みが沁みてくる。
「マッターホルン――」
「お気遣いなく、大丈夫です」
ベッドの縁から腰を浮かせようとしたドクターを片手で制し、マッターホルンは取り落とした本を拾い上げる。
幸か不幸か、足の上に落としたことで、本に目立つダメージはなさそうだ。うつむいたまま、マッターホルンは表紙についた埃を払う。どうにもこうにも、顔を上げる勇気が出ない。
なぜならこの部屋の主――ドクターが、普段着のコートとフェイスマスクを脱いでいるだけでなく、白衣をはだけさせ、薄い肩と生白く細い両腕を露出した状態で、そこにいるからだ。
「着替えの途中とは知らず、申し訳ありません。お借りしていた本まで落としてしまい、申開きのしようも……」
そもそもドクターの許可を得て入室したのであって、強引に踏み込んだわけではないので、マッターホルンには何の非もない。ないのだが、突然の出来事に混乱を来たし、冷静な判断ができなくなっていた。
「着替え? ああ、違うんだ。これはちょっと、怪我の手当てをしようとしていて」
「手当て……?」
予想外の言葉に、思わず顔を上げる。途端に紙のように白い肌が目に飛び込んできて顔を背けそうになったが、よくよく見てみれば、確かに右肩から二の腕にかけてガーゼが当てられており、ベッドの上には解かれたであろう包帯が投げ出してあった。
「……怪我をなさったんですか?」
「大したものじゃないよ。このあたりにかすり傷をね。ただ、アーミヤがそれはそれは丁重に手当てをしてくれてね。一日に一回はガーゼと包帯を取り替えるよう厳命を受けたんだ。ただ――」
ドクターは、さも困り果てた顔をして、自らの二の腕を見下ろす。
「包帯を巻き直そうとしてみたものの、片腕ではうまくいかなくて、難儀をしていたところなんだよ」
「はぁ」
確かに、片腕でもう片方の腕に包帯を巻くのは難儀するだろう。特にドクターは前線に立つことなどほとんどないし、応急処置の心得くらいはあるだろうが、実践する機会も少ないに違いない。
「だから、ちょうどよかった」
「……?」
「包帯を巻くのを手伝ってくれないか?」
「…………は?」
あまりに無邪気で他意のない笑顔を向けられ、マッターホルンは返事に窮した。
これでもシルバーアッシュ家の従者として教育を受けた身だ。話し相手の言外の意図を汲み取るのは得意な方だと自負している。それでも混乱し、動揺した。
おそらく、医療部のスタッフを呼んできましょうと提案する方がスマートな立ち回り方だ。いくら立場上上司の頼みとはいえ、プライベートに踏み込みすぎだ。
だが、常日頃全身を防護服で覆っている人が無防備に服をはだけ、折れそうな肩や腕を露出している様を自分以外の誰かが見るのだと考えたら――
「……わかりました」
妙な欲が出た。
本当は、押し殺しておくべきの、度し難い我欲が。
*
「……本? ああ、クリフハートに貸した〝あれ〟か。別に、そのまま持っていてくれても構わなかったんだけど」
「……そうですか」
片手で握り込んでしまえそうなほど細いドクターの二の腕に、マッターホルンは丁寧に包帯を巻いていく。
沈黙に耐えかねて、この部屋を訪ねた理由について話していたのだが、何やらクリフハートから聞いた話とは食い違いがある。『急いで返却しなければならない』とは一体何だったのだろう? おそらくクリフハートが嘘をついているのだろうが、そんな嘘をついて彼女に何の得があるのだろうか。
……いや、本当はわかっている。彼女は変な気を回しているのだ。
(お嬢様は何かを誤解しておられるようだが……)
年頃の少女らしい好奇心の発露だろう。別にそれが自分相手に発揮されるだけなら構わないのだが、問題はドクターを巻き込んでしまうことにある。
確かにマッターホルンは、ロドスのドクターを好ましく思っている。
だがそれは一人の人間へ向ける敬愛であって、愛だの恋だのではない――はずだ。
そもそもドクターは、主人であるエンシオディスの盟友であり、先の一件ではイェラグに流れる血を最小限に留めてくれた恩人でもある。感謝や尊敬の念を抱きこそすれ、劣情を向けるべき相手ではない。
いくら堅物とからかわれようと、マッターホルンはシルバーアッシュ家の従者である自分に誇りを持っている。当の主人たちが自分を家族同然に扱い、多少の無作法を許容してくれたとしても、主従の敷居を踏み越えるなど言語道断だ。ドクターに対しても、同様の覚悟を持って接している――のだが。
ならばなぜ、自分は今ここにいるのだろうか。
ドクターの私室で、本来の用事は済んだはずなのに、他者には見せられないようなあられもない姿のドクターと向き合って。
血管が透けそうなほど白くて柔らかい肌に、直接触れている。
一般的な物差しで測るなら、おそらくこれは降って湧いた幸運の類なのだろう。
だが、マッターホルンはちっとも喜べなかった。むしろ、奇妙な焦燥とかすかな苛立ちすら覚えていた。
ドクターは頭のいい人だ。周囲の変化にも敏感だし、人心を察する能力も高い。だが、職務を離れた自分個人へ向けられる感情に対しては、いささか疎い面がある。
もしも、訪ねてきたのが自分でなかったとしても、同じように迎え入れただろうか。
その相手が、ドクターに対して邪念を抱いていたらどうなっていただろう。
ロドスのスタッフにそんな不届き者がいるとは思いたくないが、万が一ということもある。
特にドクターは戦闘能力はからっきしなのだし、実力行使に出られてしまえば抵抗も難しいだろう。
「……これでよろしいでしょうか」
できる限り、患部以外を見ないようにしながら、何とか包帯を巻き終える。
「うん、綺麗に巻いてくれて助かるよ。ありがとう」
真新しい包帯に包まれた二の腕を見下ろして、ドクターは口元を綻ばせる。そののち、ようやく腰の辺りまではだけた白衣を着直した。
ようやく目のやり場ができ、マッターホルンは小さく安堵の息をつく。
緊張が緩んだのに合わせて、口も妙に軽くなってしまい、
「差し出がましい口を利くようで恐縮ですが、ドクターはもう少し危機感をお持ちになったほうがよろしいのでは」
つい、余計な一言が転がり落ちた。
ドクターは、防護服のコートを羽織り直しながら、マッターホルンを見上げる。掛けられた言葉の意味を咀嚼するように瞬きをしてから、口元に笑みを浮かべた。
「……そうだな。下手な怪我をして、君たちに心配をかけるのは、私としても本意ではないし」
「いえ、そうではな……いわけでもないのですが。お怪我をしないことに越したことはありません。ですが、その」
「……ん?」
「不特定多数に無防備な姿をお見せになるのは……」
直接的な言及は避けたが、今度はドクターもマッターホルンの言葉の意図を察したらしい。「そうか」と頷きもう一度微笑んで見せた。
「心配してくれているんだな」
「当然です。主の盟友である以前に、俺自身もドクターを尊敬していますから」
「そう言って貰えるのは嬉しいよ。でも、私だって誰彼構わず部屋に入れているわけじゃないんだ」
「それならいいのです――が……?」
納得しかけて、マッターホルンは内心で首をかしげる。
ならばドクターは敢えて、自分を室内に招き入れたことにならないだろうか?
向かい合ったドクターは、温和ながらどこか含みのあるような笑みを浮かべている。マッターホルンは、この表情に覚えがあった。
主人であるエンシオディスも時折こんな顔をする。そして、そういう顔をする主人は、往々にして腹の内に言外の思惑を包み隠している場合が多い。こういうところは似たもの同士というか、なんというか。
「……俺を信頼してくださっているのは嬉しいですが、それでも気をつけるに越したことはありません」
「君でも危ないのかな」
「……俺も男です」
「なるほど」
ドクターは頷いて見せるものの、あまり深刻に受け止めている様子でもない。自分が相手では間違いなど起こるはずもないと信頼してくれているのなら、身に余る光栄ではあるが、それはそれで少々複雑な気分にもなるもので。
……まぁいい。どのみち、ドクターとの関係を変えるつもりはない。藪をつついて蛇を出す必要もないだろう。
「では、お借りしていた本はデスクの上に置いておきます。俺はこれで」
当初の目的も果たしたし、これ以上この場に居座るのもおかしな話だ。軽く頭を下げ、踵を返そうとすると。
「うん、わざわざありがとう。それと――」
「……何か?」
足を止め、再び視線を合わせる。ドクターは含みのある笑みを浮かべたままマッターホルンを見上げ、
「今度はもっとわかりやすく誘うことにしよう」
……と、言った。
*
「お嬢様、またそんな嘘をついて。あんまり兄貴をいじめないでやってください」
「だって……どこからどう見たって、ヤーカおじさんはドクターのことが好きだし……」
隣を歩くクリフハートが子供っぽく頬を膨らませるのを横目に見つつ、クーリエはこっそりと溜息をついた。いたずら好きで甘えん坊の彼女も、ロドスのオペレーターとして働くようになってからは随分逞しくなった。それでも、まだまだあどけない少女であることに変わりはない。
「ヴァイスお兄ちゃんだってそう思うでしょ?」
「……まぁ、そうかもしれませんが。でも、お嬢様だって兄貴がどれだけ生真面目かはご存知でしょう? たとえ旦那様がお許しになったことでも、自分が納得しなければ梃子でも動かないんですから」
「それはそうだけど~……」
彼女も、物心ついた頃からの護衛がどれほどの堅物なのかくらい、きちんと理解しているはずだ。それでも、そんな彼に家族同然の親しみを覚えているからこそ、恋路を応援したくなったのだろう。
クーリエとて、その気持ちがわからないわけではない。なにより――
(ドクター自身がその気なのがまた……)
事態を面倒にしているというか。
クリフハートはマッターホルンの秘めた恋心には気づいても、ドクターの心情までは考えが及んでいないように見える。だからこそ、無邪気に彼を焚き付けたのだろうが、彼女の気遣いは言うなれば、鴨に葱を背負わせて元気に送り出したも同然だ。
クーリエはドクターの善性を信じている。エンシオディスとの連携を重要視しているのも知っている。だから、互いの信頼関係にヒビを入れるような暴挙には出ないとは思っているのだが。
(……でも、ドクターは案外、目的を達するためには手段を選ばない人でもあるからなぁ)
そして困ったことに、クーリエとマッターホルンが共に忠誠を捧げる主人は、ドクターが想定外の行動に出るのを歓迎している節がある。
(兄貴が取って食われたりしていなければいいけど……)
苦労性の兄貴分を思って、クーリエが二度目の溜め息をついたところで、隣を歩いていたクリフハートが「あ!」と声を上げた。
どうしたのかを問う前に、彼女は俊敏な動きでクーリエの背後に回る。どうやら隠れているつもりらしい。
「ヤーカおじさん!」
声を潜めつつ、クリフハートは前方を指さした。
少女の指し示す方向には、確かに見慣れた背中があった。イェラグに聳え立つ山の名を冠するに相応しい、逞しくもどこか温かみのある背中。だが、今日は何かがおかしかった。
シルバーアッシュ家の護衛として弛まぬ鍛錬を積み、常にどっしりと揺らがぬはずの足が、ふらついている。
「……どうしたんだろ」
クリフハートもまた、異変に気付いたようだった。まるで酩酊しているような足取りだが、生真面目な男は休暇ですら前後不覚になるような飲み方はしない。そもそも今は業務時間内だし、飲酒など絶対にするはずがない。
(あー……これは……)
おそらくドクターに何かされたに違いない。
自身の感情を、あくまで尊敬から来る親愛と言い聞かせ続けてきたマッターホルンの涙ぐましい努力を、クーリエは誰よりも知っている。知っているからこそ、同情を禁じ得なかった。いくら鋼の意志を持つ男だろうと、好きな相手から揺さぶられて平気でいられるはずもない。あの足取りが、彼の動揺を如実に表している。
フラフラと前進を続ける男の背中を、クーリエとクリフハートはしばらく黙って見守っていたのだが。
やがて、マッターホルンの足は通路脇に重ねられたコンテナに引っかかり――
「わーっ、ヤーカおじさん!!」
山の名を冠する巨躯は、けたたましい音を立てて、コンテナと共に通路に転がった。
【終わり】
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