桐子
2024-06-02 09:45:39
2427文字
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藤花の契り⑱(完結)


赤い鳥居の先には、長い長い石段があった。
より強力な結界を張り直した神域には、主の許しを得た者しか入ってこられない。
その石段の先には、荘厳な屋敷がある。狂骨の炎に焼かれて一部補修されてはいるが、手入れの行き届いたところは相変わらずである。
やわらかな日差しの中、その屋敷の庭には花が咲き乱れ、甘い香りをただよわせていた。兎や狸、狐などの小動物や、見たこともない生き物たちが楽しげに跳ね回っている。
「次は父さんの番ですよ」
「ううむ……
顔のよく似た親子が、その屋敷の縁側に座って将棋を指していた。栗色の髪の少年は黄色と黒のちゃんちゃんこを着て、青い着物に身を包んでいる。対する男は青い着流しに白い羽織を着て、眉根を寄せて思案していた。
「鬼太郎や、その手は……
「待ったはなしですよ」
真面目に言い返され、男はまたうなり始めた。
「また腕をあげたのう、鬼太郎」
「父さんは優しすぎるんですよ」
……参った。降参だ。さすがわしの子じゃな」
男が観念すると、鬼太郎は嬉しそうに笑った。その頭を撫でてやると、さらさらとした細い髪が指の間をすり抜けていく。妻と同じ色の髪をした息子を、男は愛おしそうに見つめた。
「鬼太郎様、こっちで鬼ごっこしましょう」
「うん、いいよ」
動物たちに誘われて、鬼太郎は庭に出た。のどかな日差しの中、子どもたちは木々や草花の合間を駆け回っている。煙管を吸いながら、男はその幸せな光景をのんびりと眺めていた。
かつてこの庭には、藤の花だけが植わっていた。薄紫の花が甘い香りをただよわせ、風に揺れているだけだった。だが、今は違う。カタバミに白詰草、すいかずら、露草に矢車菊、凌霄花に芍薬、やまぼうし――――色とりどりの花が咲き乱れ、蝶々や蜜蜂が飛び交っている。
それは、屋敷の主であるゲゲ郎の心持ちに、随分と変化があったからだ。
妻のことはずっと思い続けるだろう。しかし、妻以外のものに心を寄せることもできるようになった。妻が残してくれた愛する息子、心を許せる仲間たち、美しい四季の花々。ひらひらと庭を舞う蝶たち。
全て水木のおかげだ。
ひときわ立派な藤の木には、一房の花に組紐がくくりつけられ、風に揺れている。それを見ると、不意に心がぎゅっと締め付けられることもまだあるが、それでもゲゲ郎は前を向いて生きていた。
――――この世のどこかにあの男が生きて、幸せに生きていてくれるならそれでいい。
本当はそばにいてほしかった。ともに永遠を生きたかった。だが、命をかけてゲゲ郎を助けてくれた男の思いを無下にすることはできなかった。愛しているからこそ、自由に飛べるように蝶々を空へと放したのだ。

……む」

結界へ近付く気配を感じ、ゲゲ郎は眉をひそめて立ち上がった。
「どうしたんですか」
「結界へ誰かが近付いておる。まったく、生け贄はもういらんと言うたのに」
「僕が追い返しましょうか?」
鬼太郎はそう言ったが、ゲゲ郎は首を横に振った。
「いや、わしが行く。もう生け贄を寄越すなときつく言い含めておく」
そう言って、ゲゲ郎は鳥居の方へ歩いて行った。
――――カラン、コロン、カラン。
下駄を鳴らして歩いていくと、白無垢を着て綿帽子をかぶった人間が立っているのが見えた。だが、おかしなことに、生け贄が立っているのは結界の内側である。ここにはゲゲ郎が許した者しか入ってこられないはずなのに。
(まさか……
自然と足早になってしまう。生け贄は何かを待つように、身じろぎもせずに立ちつくしている。その背の伸ばし方や体格に見覚えがあるような気がするのは、気のせいだろうか。カラン、と下駄を鳴らして近付くと、生け贄は顔を上げた。
「水木……
思わず呟くと、男は微笑んだ。
「よう、久しぶりだな」
その声も聞き間違えるわけがない。ゲゲ郎は息を飲み、目を見開いた。
「お主……なぜ……
「俺が村で最後の生け贄だ。まあ、けじめってやつだよ。それに……約束しただろ? 戻ってくるって」
藤の花に結びつけた組紐。この花が散るまでには戻る、と水木は言っていた。あの一房は枯れてしまったが、今年もまた美しい花を咲かせている。
――――水木は約束を守ってくれたのだ。
ゲゲ郎は水木を抱きしめた。一度は野へ放したはずの蝶が、今度は自分の意志で戻ってきてくれた。もう二度と、死んでも離れたくない。
「水木や、お主はそれでよいのか?」
そう問うと、男は勝ち気な笑みを浮かべて言った。
「わざわざこんなモンまで着て、ここまで来たんだ。覚悟は決めてるさ。みんなにもお別れしてきた」
母のことは村の皆が面倒を見てくれると約束した。沙代は家族と仲良く暮らしており、来年は隣村の若者の花嫁になることが決まっている。生け贄をださなければと怯えることももうない。心残りがあるとすれば、藤の花の前でかわした約束のことだけだった。
水木は背のびをし、男の頭をこちらに引き寄せて口付けた。

「限りある命を、お前たちと生きたい」

ゲゲ郎の目からぽろぽろと涙がこぼれた。泣き虫だなぁ、と言いながら水木は白無垢の袖でそっと涙を拭った。

「水木、お主を愛しておる」
……俺もだ」

今度はゲゲ郎の方から口付けた。この手に戻ってきたことを確かめるように、長いこと触れるだけの口付けを繰り返す。花嫁衣装ごと強く抱き締めると、水木もまた強く抱きしめ返してくれた。
さぁっと穏やかな風が吹き、甘い花の香りと花びらを運んでくる。藤の花だけではなく、すいかずら、露草に矢車菊、凌霄花に芍薬、やまぼうし――――その風に誘われるようにどこからか蝶が飛んできた。
父の帰りが遅いことを心配した鬼太郎たちが様子を見に来るのも、もうすぐだ。
明るい日差しの中、ようやく思いを確かめ合った二人を祝福するように、藤の大木に結びつけられた組紐が揺れる。

藤花の契りはようやく果たされたのだった。