痛みは感じなかった。だが代わりに、燃えるような熱さを感じた。まるで内臓が燃えているようだ。立っていられなくて、水木はその場に膝をついた。
「水木さん……!!」
悲壮な声を上げて、鬼太郎が水木に駆け寄ってきた。
「逃げ、ろ」
長田の手にはまだ銃が握られている。自分などに構っている場合ではないと言おうとしたが、うまく言葉が出なかった。だが、水木の言葉はゲゲ郎によって遮られた。
「あの男はもう事切れておる」
そう言いながら、水木を抱きかかえるようにしてくれた。姿勢は楽になったが、傷口から流れる血は止まらない。それどころか、どんどん勢いを増して流れ出てくる。
「水木……なぜ、こんなことを……」
目の前にあるゲゲ郎の顔は、これまでに見たことがないほどの焦りと怒り、そして悲しみで歪んでいた。
「お、前が……死ぬのが、嫌だった……ん、だよ」
話しながら、血を吐いた。口の中に鉄臭い味が広がる。それでも伝えなくてはいけないと思った。今、彼に話さなければ永遠に思いを伝える機会を失ってしまう。
「おれは、父親が死んで……さびしかっ、た。きたろうに、そんな思いさせ、たくない……」
ひっく、と鬼太郎がしゃくりあげる声が聞こえてきた。
子どもには父親が必要だ。今まで疎遠だった分、彼らは親子としての時間を過ごすべきなのだ。ゲゲ郎が鬼太郎にしてやれることは、まだまだたくさんある。水木が父親にしてほしかったことを、この男ならきっとやってくれるはずだ。
「それに、……おまえは、沙代ちゃんをたすけて、くれた……おれはあの子を、見捨てたのに……」
隣の家に住む沙代は、水木の幼馴染みだった。小さい頃からお兄ちゃんと慕ってくれた可愛い妹のようなものだ。
だが、水木が戦地から帰ってくると、彼女は結核に冒され、彼女の家族ごと村八分にされていた。結核は死をもたらす病だとして、村人から冷たい目で見られたのだ。
そして沙代は、生け贄に選ばれた。どうせ死ぬなら、神様への供物として捧げようという話になったのである。
――――その時、水木は沙代を見殺しにした。伝染病を恐れた村人たちに従っただけだったのだが、自分の判断で彼女を助けることもできたはずだった。花嫁衣装を着せられ、神域へと連れていかれる彼女の背を見守ることしかできず、己の情けなさに涙した。
だが、沙代は帰ってきた。聞けば『神様』が己の血を分けてくれたおかげで、結核もすっかり治ってしまったのだという。
『神様は、元の村じゃなくて別の所で生きなさいと言ってくれたの。でも、どうしてもお父さんとお母さんに会いたくて』
優しい神様だった、と沙代は言った。身の上話を聞いて、可哀想にと血を分けてくれたのだと。その血を飲んだらたちまちのうちに病気が治り、近くの村まで送ってくれたと言っていた。半信半疑だったが、そう言う彼女の顔色は良く、ひどい咳も治っていた。
その噂を聞きつけ、長田たちがやって来て沙代を連れて行こうとした。前からきな臭いと思っていたが、彼らの狙いは『神様』の血だったのだ。そしてその血を飲んだ沙代を捕え、彼女から神域のことを聞き出し、血を搾り取ろうとしたのだ。
『俺が神様とやらから血をもらってくる。だから彼女には指一本触れるな』
『……いいでしょう。半年待ってあげます』
長田たちにとって、損はない話だった。水木が失敗して死んだらそのまま沙代の血を使えばいい。成功すれば神様の血そのものが手に入る。だから、水木が血を持ち帰ることができれば、沙代には手を出さず謝礼まで出すという条件を出した。
そして、水木は単身山に入り、『神様』の住処へと向かったのだった。
「おま、えは、たすけて……くれたんだ」
戦地では仲間を見捨て、そして今度は沙代を見捨てた。そんな水木の負い目を拭い去ってくれたのは、ゲゲ郎だった。彼は沙代の命を救うことで、水木の心を救ってくれたのである。
「げげろう……ありがとう……」
水木はそう言って笑った。もう心残りはない。沙代も母も、長田たちがいなければ助かるだろう。
「――――わしの血を飲め、水木」
ゲゲ郎は自分の指を噛んだ。赤い血がぽたっ、と滴る。
「わしはお主に生きてほしいんじゃ。この血を飲めば、わしらと同じように不老不死になれる」
ゲゲ郎はそう言いながら、血を水木に飲ませようとしてきた。
「いらない……俺は、死ぬ」
「水木!」
苛立ったような声を上げるゲゲ郎に、水木は首を横に振った。
「おれは、死ぬ……人間として……すまん……」
だんだんと体の末端が冷たくなってきた。ともすれば、意識が途切れそうになる。だが、あと一つだけ伝えたいことがあった。水木は最期の力を振り絞り、ゲゲ郎の頬に手を当てた。
「おまえは、愛情深い、かみさまだ……死んだ奥さんのこと、今も、忘れられないんだろ……だから、俺なんかを、好きだと……かん、ちがいを」
「勘違いじゃと? わしは――――」
「お前、って……何度も、よんでた……」
ゲゲ郎は目を見開いた。無意識だったのだろう。抱かれている時、いつもは水木を『お主』と呼ぶゲゲ郎が『お前』と呼んでいた。勝ち気な目もとが似ているとも言っていた。ゲゲ郎が水木を通して見ていたのは、妻だったのだ。
いや、水木だけではない。
結核を患っていた沙代。
その前の生け贄は、男と駆け落ちしようとして捨てられ、自暴自棄になり酒浸りになって内臓を痛めた女性と聞いている。
ゲゲ郎は――――病んだ女たちにお産がもとで死んだ妻の面影をみて、見捨てることができなかったのだ。そして血を分け与え、新たな人生を送れるように助けていたのだ。
「おれは、おまえがすきだよ……やさしくて、なきむしで……おくさんを大事にしてる、お前のことが……」
口付けがしたかったが、もう顔を寄せる力もない。かわりに、指でゲゲ郎の唇を撫でた。自分の手もゲゲ郎の肌も同じくらい冷たい。
父親が死に、誰にも頼らず母を助けなければと思ってがむしゃらに生きてきた。戦地では不当な扱いを受け、人の命を奪った。
だが、この山へ来て初めて、心穏やかな生活を送れた。
不器用に子を愛し、死んだ妻を思ってほろほろと泣く男を見て、自分もそうなりたいと憧れた。
誰かを愛し、愛されてみたいと思った。
男の孤独を知るたびに、自分がそのさみしさを癒やしてやれればいいのにと考えるようになった。
唇を重ね、愛を囁かれるたびに――――恋をしていた。
「初恋だったんだぞ……」
ああ、これで言いたいことは全部言えた。満足して、水木は目を閉じようとした。
「いやだ、水木さん。ぼく、もっと水木さんといたい。またぼくの頭を撫でてよ」
鬼太郎の涙声が聞こえてくる。ごめんな、と水木は思った。もっと頭を撫でてやればよかった。子どもらしい遊びを教えてやりたかった。だが、これからはゲゲ郎がそばにいるだろう。彼に甘えて、たくさん遊んでもらうといい。
「ありがとう」
水木は笑って言った。意識がすっと暗闇の中に吸い込まれていく。だんだんと、周りの音も聞こえなくなっていく。願わくば、自分の周りの人たちがこれからも幸せであってほしい。この親子にも、母にも沙代にも、たくさんの幸せが待っていますように――――
腕の中で、水木の呼吸が止まったのを感じた。
鬼太郎は涙を流して水木にしがみついている。あと数秒で、魂が体から離れ、完全な死を迎えるだろう。
――――今ならば間に合う。
ゲゲ郎は、今度は手首を牙で食いちぎった。だらだらと大量の血が噴き出した。
「父さん……」
泣き濡れた片目がゲゲ郎を見上げた。父親のしようとすることを理解している目だった。
女たちに与えた血は数滴だった。たったそれだけで病も怪我も治る。だが、大量の血を飲ませることでただの人間を不老不死にすることもできるのだ。ゲゲ郎はそれを水木に施そうとしていた。
「水木……」
血を流しながら、ゲゲ郎は水木の顔を見つめた。
確かに、彼の中に妻の面影を見ていたかもしれない。強気な目や優しさに惹かれた。だが、それは水木自身を愛するきっかけに過ぎなかった。子どもを思いやる優しさ、人のために自分を省みず行動できる姿、狡猾さ、弱さ、前向きさ――――全てひっくるめて『水木』という人間なのだ。
最後の最後に好きだと伝えられ、ゲゲ郎は妻の代わりではなく、水木という男を愛していると自覚した。
そんな男を死なせたくない。
今、血を飲ませれば彼は永遠を手にする。不老不死になれば、人間の世界では生きられない。否応なしにもこの山で、ゲゲ郎と鬼太郎と共に生きていくしかなくなる。
「水木……わしは、お主と生きたい。お主にそばにいてほしい」
腕の中の体を抱きしめる。まだ温もりは残っている。
「お主に生きていてほしいんじゃ」
ゲゲ郎は自分の血を口に含み、水木の唇に重ねた。
目を覚ますと、母親の顔が見えた。
「お前!」
母親は目を潤ませ、水木に抱きついた。
「良かった! 本当に良かった!」
「母さん……」
水木もそっと母親を抱き返した。体は軽く、あれほど血を流したはずなのにどこも痛くない。
「おれは、いったいなにがどうなって……」
掠れた声で聞き返すと、母親が説明してくれた。水木は3日前、村のふもとで倒れていたのを村人が見つけたのだという。近くには呆けた時貞と事切れた長田がいて、村は騒然となったという。そこへ、神様の使いだという幼い子どもが現れてこう言ったのだ。
「神様は悪しき者に罰を下し、善き人の命を助けました。これからは生け贄なしでも村を守りますので、皆さんどうぞ健やかに生きてください」
村人たちはその話を聞き、長田を埋葬して時貞を村から追い出した。水木は神様に命を救われた者だとして、家へと運ばれたのである。村長の家で座敷牢に囚われていた沙代と母親は解き放たれ、水木を交互に看病していた。
「沙代ちゃんは大丈夫なのか?」
「あの子もお前に感謝しとったわ。今は家で休んでもらっとる」
「そうか……」
母親の話を聞きながら、きっと神様の使いというのは鬼太郎だろうと水木は思った。血は要らないと断ったのに、結局ゲゲ郎が血を飲ませたのだろう。
――――俺は、不老不死になってしまったのだろうか。
漠然とした不安を胸に抱いたが、そんな水木に母親が言った。
「そういえば神様の使いが、あんたが目を覚ましたら『蝶が花畑で遊ぶように、お主は人間の世界に帰れ』って伝えてほしいって言うとったけど、何のことかわかる?」
水木は息を飲んだ。鬼太郎から、いや、これはゲゲ郎からの伝言だ。
大事なものは大切に籠の中へ閉じ込めておけばいいと言っていたのに、あの男は、水木を手放してくれたのだ。きっと不老不死にすることもせず、怪我を治すだけの血しか飲ませなかったのだろう。
――――少しばかりわしの血を分けてやり、皆、どこぞの村で幸せに暮らしておる。お主もそこで幸せに生きよ。
そんなゲゲ郎の声が聞こえた気がして、水木は目元を手で覆い隠した。あとからあとから涙がこぼれて止まらない。彼はどこまでも優しい『神様』だった。
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