桐子
2024-05-27 23:45:49
2874文字
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藤花の契り⑭(父水)


結界に何者かが近付いている。
ゲゲ郎はゆっくりと身を起こし、手早く着物を身につけた。水木は気絶したきり、ぴくりとも動かず死んだように眠っている。
何者かは知らないが、ここへ悪意をもって近付くのならば思い知らせてやらなければ。
自分が負けるはずはないが、万が一ということもある。ゲゲ郎は手ぬぐいで簡単に身を清め、浴衣を着せてやった。少しやつれた頬と傷の残る目元をそっと撫でる。
…………
ゲゲ郎はそのまま水木を置いて部屋を出た。
むせかえるような藤の花の甘い香りの中を、カランコロンと下駄を鳴らしながら歩いていく。紫色の花は、風にゆられてゆらゆらと揺れていた。
(この結界を越えようとするとは……
どれほど修行を積んだ修験者だとしても、結界を越えることは叶わない。それなのに、何者かは確かにこちらへ近付いてくる。不快感はあったが、不安はなかった。もしも敵であれば、自分の力で排除すればいいだけのことだ。
階段を降り、鳥居をくぐって結界の境目へと近付いていく。人間の気配がする。もやのように纏わり付く怨念と、かすかな血の匂い。
ゲゲ郎は立ち止まり、来訪者に呼びかけた。

「何者じゃ」

来訪者は――――いや、来訪者たちは、ゲゲ郎の問いには応えなかった。修験者の格好をして鬼の面をつけ、錫杖を持った男たちは、ぶつぶつと、何か奇妙な言葉を呟いている。何かのまじないなのだろう。重苦しい霊力が、渦を巻くようにして蠢いているのを感じる。
「また会いましたね、『神様』……いや、幽霊族」
一歩進み出た男を見て、ゲゲ郎は目を細めた。見覚えのある顔だ。水木を連れ戻しにいった先で、沙代を人質にしていた男だった。そう、確か―――長田と呼ばれていたはずだ。
「ほう、わしらのことを知っておるのか」
「ええ。我々はずっとあなたのことを追い求めてきました。『神様』の噂を聞きつけて、この村へ婿入りして様子を探ってきた甲斐がありましたよ。ようやく悲願が叶うのだから」
ゲゲ郎は長田の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「人間風情が、わしに勝てるとでも?」
「できますとも。――――そうですね、お館様」
長田の背後から、目にもとまらぬ速さで何かが飛んできた。カッ、カッと鳥居に突き刺さったのは錫杖だ。その先には札が縫い付けられている。空中に渦巻いていた霊力が、そこを起点として一気に凝縮された。

――――――!!

爆音とともに、凄まじい衝撃波が襲ってくる。ゲゲ郎はとっさに後方へ飛び退いたが、かつてないほどの強力な力に、身体中がビリビリと震えた。要である境目の鳥居が壊れたことによって、急激に結界の力が弱まっていく。
「さすがですね」
長田は感嘆の声を上げた。

「当然じゃ。余を誰だと思うておる、稀代の大術者、龍賀時貞であるぞ」

そこにいたのは壮年の大柄な男であった。長田たちと同じ修験者の装いをしているが、放っている霊気が段違いだった。人の身でこれほどの霊力を持つ者は見たことがない。生まれながらの才能か、あるいは外法に手を染めているか――――男の背後に見えるどす黒い怨念からみるに、後者なのだろう。
「ようやった、長田。余は今、猛烈に気分がよい」
男は愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「しかし、本当にこの化け物を殺せるのですか」
長田の問いに、大男は自信たっぷりに答えた。
「無論じゃ。余の一族は、幽霊族を狩ってきた。幽霊族の弱点は心得ておるわ」
「幽霊族を狩ってきた、じゃと?」
ざわざわと、ゲゲ郎の髪の毛が逆立った。あたりに冷たい空気が渦巻き始める。山の主の怒りに、空気が呼応しているのだ。
「そうか……近頃、行方の分からなくなる者がいるという噂を聞いたことがあるが、お主たちの仕業か」
「そういうことです。我々に見つかったのが運の尽きですよ」
「安心せい。お前もすぐに仲間に会わせてやる」
修験者たちが、ゲゲ郎を取り囲むようにじりじりと近付いてくる。一人が錫杖を振りかぶったのが合図だった。
「うらぁっ!!」
振り下ろされた錫杖を、刀を、斧を、ゲゲ郎はことごとく避けた。掴みかかってきた男を掌底で吹っ飛ばし、錫杖を蹴り飛ばす。そのまま錫杖をつかんで引き寄せると、男の腹に拳を叩き込んだ。
「ぐふっ……
「こいつ……!」
男たちは必死になってゲゲ郎に飛びかかった。だが、体に触れることすらできない。次々と倒れていく仲間たちの姿を目の当たりにして、彼らは徐々に戦意を失っていった。
「ば、馬鹿な……こんなことが……
「もう終わりか、つまらんのう。少しは楽しませてくれると思ったんじゃが」
激しく動いたはずなのに、息一つ乱していないゲゲ郎を見て、地面に倒れ込んだ男が「化け物」と小さく呟いた。
「カカッ、もういいいじゃろう。長田」
「はっ」
長田は時貞の前に進み出ると、風呂敷に包まれた丸いものを差し出した。嫌な感じがして、ゲゲ郎は後ずさる。
「とくと見よ幽霊族、お前の仲間じゃぞ」
はらりと風呂敷が地に落ちる。現れたのは、虚ろな眼窩をした頭蓋骨だった。まだ小さなその頭蓋骨は、ちょうど鬼太郎くらいの年頃の、子どものものだった。
「余が最初に狩った幽霊族の親子よ。母親は泣いて命乞いをして実に愉快だったわい。息子の命だけはと泣かれて気の毒だったから、余に血を渡すことを条件に息子を助けてやると約束したのじゃ。長いこと血を搾り取ってやっておったが、時々『息子は生きているか』と聞いてきてのう。まさかもう息子が骨になっておるとは夢にも思わんかったようじゃな。余は正直に話してやった。そうすると、今度は泣き喚いて煩わしいことこの上なかった。仕方がないから、その場で首を落としてやったのよ」
時貞はゲラゲラと笑い声を上げた。

――――人間という生き物は、どこまでおぞましく醜悪なのだ。

ゲゲ郎は歯ぎしりした。
かつて妻は人間の弱さ愚かさを愛し、共に生きることを夢見ていた。ゲゲ郎は彼女の夢を美しいと思ったが、同時に、そんなことは無理だと分かっていた。人間とは決して分かり合えない。少しはましな者もいるが、多くは目の前にいるこの人間のように、自分勝手で欲深く、己のためなら容易に他者を犠牲にできる。
「唵」
時貞が印を組むと、頭上に黒いもやが出現した。それは渦を巻きながら大きくなっていき、やがて青白い炎をまとった巨大な骸骨へと姿を変える。苦しそうに悶えながら、骸骨はゲゲ郎を見下ろしていた。
「これは余が使役する最強の式神・狂骨じゃ。どうじゃ、恐ろしいじゃろう」
ゲゲ郎は黙って時貞を睨んだ。狂骨と呼ばれたその霊体は、髑髏の顔から、黒い涙を流し続けている。子を殺された母親と、殺された子の怨念が入り交じっている。すさまじい憎悪だ。だがその怒りは自分たちを殺し、使役している時貞ではなく、相対するゲゲ郎に向けさせられている。
「お館様、早くとどめを刺しましょう」
長田が急かす。時貞は、うむ、と鷹揚に肯くと、狂骨に命じた。
「喰らえ」
狂骨はゲゲ郎に襲いかかった。