桐子
2024-05-26 23:08:33
3228文字
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藤花の契り⑬(父水)


「水木さん、水木さん」
声をかけられ、水木はハッと目を見開いた。見慣れた天井とともに、心配そうな顔が視界に入る。一瞬ぎくりとしたが、栗色の髪をした子どもが鬼太郎だと分かってホッとした。あいかわらず瓜二つの親子だ。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……大丈夫だ……
そう返してから、ハッとして自分の身体を確かめる。意識を失うまでゲゲ郎に激しく抱かれていたのだ。その痕跡が残っていて、鬼太郎に見られでもしたら目も当てられない。だが汗や精液で濡れていた身体は清められ、白地に青い縞の入った浴衣を着せられていた。とりあえず情事の痕跡は残っていないようだ。水木はホッとして身体を起こした。
「気分はどうです?」
「平気だ。……ゲゲ郎は?」
「父さんは結界の外へ行きました」
鬼太郎はそう言うと、水木の手をぎゅっと握った。
「みんなが言ってました。水木さんは父さんにひどいことされてるって。このままじゃ、し、死んでしまうかもって」
「そんなことは」
「僕、水木さんに死んでほしくないんです。だから、もし水木さんがここから逃げたいなら、手伝います」
思わぬ助け船に、水木は驚いた。
「本当か?」
鬼太郎はこっくりと頷いた。
「僕は水木さんの味方です」
「そうか。すまん、ありがとう……
驚いたが嬉しかった。こんなにも純粋に、自分のことを心配してくれる者がいるとは思わなかったからだ。水木は鬼太郎に嘘をついていたのに、この子は自分を慕って、助けてくれようとしている。
「でも、俺を逃がしたことがばれたら、ゲゲ郎に……
ゲゲ郎は鬼太郎を可愛がっているから、ひどいことはしないだろう。だがこの親子の間にまた亀裂が入るようなことがあれば申し訳ない。
「大丈夫ですよ!おとがめは皆で受けますから」
ひょこっと襖の向こうから顔を出したのは、兎や川獺、狸、狐や、毛玉のかたまりのような妖怪たちだった。
「わたしたち、花嫁様に感謝してるんです。鬼太郎様もすっかり明るくなって」
「いっしょにお洗濯して、楽しかったよねー」
「おやつの金平糖を分けてくれてありがとう、花嫁様」
「若様もちょっこし頭を冷やせば、また元に戻りますって」
彼らは口々に水木への感謝や励ましの言葉を述べた。大したことをしてやったわけではない。だが、彼らにとって水木のいる日常が楽しい日々だったのと同じで、水木もまた彼らと楽しい日々を送っていたのだ。
……分かった。じゃあ、逃げるのを手伝ってくれ」
「はい!」
水木がそう言えば、一同は元気よく返事をした。
「ほら、あんたも来なさいよ」
「いやだー、俺は旦那に叱られたくねぇ!」
猫にひっぱられてやってきたねずみ少年は、廊下のすみでぶるぶると震えている。よほどゲゲ郎のことが怖いのだろう。
「この中じゃねずみが一番抜け道にくわしいのです」
「しょっちゅうさぼってるからね」
「そうか。ねずみ君、案内してくれないか」
水木が頼むと、ねずみはムスッとした顔をした。
「何で俺が……
「駄賃ははずむぜ」
「お安いご用です!」
水木が謝礼をちらつかせると、ねずみはあっさりと態度を変えた。現金な奴だ。
荒淫のせいで足がふらついたが、鬼太郎が支えてくれた。見た目は小さな子どもなのに、大人一人を支えられる腕力はやはり人間なざらる者ゆえだろう。走れない水木のために、一行は静かに、そして素早く歩いた。
「この先に、山を下りる獣道があるんだよ。そこまでは結界が張られてないからな」
「なるほどな……
屋敷の裏手、雑木林の中へと入ってゆく。鬱蒼と生い茂った木々の間を通り抜けながら、水木は背後を振り返った。ここを抜け出せば、もう二度とゲゲ郎に会うことはないのだろう。嬉しいはずなのに、どこか後ろ髪を引かれてしまうのは――――藤の花を見つめる寂しげな横顔のせいだ。
最初は恐ろしく思ったのに、泣いたり笑ったり、ゲゲ郎は表情豊かな男だった。妻のことでのろけたり、寂しいと涙したり。水木のことを陵辱している時でさえ、しようと思えばもっとひどいこともできただろうに、ゲゲ郎はそうしなかった。
(俺だって……
もしゲゲ郎が、水木自身のことをもっと見ていてくれたなら、あるいは――――
「水木さん、どうかしました?」
「いや、何でもない」
水木は首を振って前を向いた。今はただ、ここから逃げ出すことだけを考えるべきだろう。

――――!!

背後で響いた轟音に、水木たちは驚いて立ち止まった。振り向くと、屋敷の方から煙が立ち上っている。
「火事か?」
「ちがいます。誰かが結界を越えて来てるんです」
鬼太郎の声は冷静だった。
「誰が」
そう言いかけて、水木はハッとした。目が覚めたとき、鬼太郎は言っていたではないか。『父さんは結界の外へ行きました』と。あの結界はゲゲ郎の許しがなければ入ってこられない。その結界を越えられるということは――――ゲゲ郎よりも力をもった何者かが、ここへ足を踏み入れたということではないのか。
鬼太郎の顔を見下ろすと、相変わらずの無表情だったが、どことなく緊張の色が見えた。
「今しかないんです」
だからこそ、水木を助けに来たのだ。ゲゲ郎が侵入者と対峙している今しか、水木がここから逃げ出せる機会はない。
「いっしょに虫取りをして、きれいなちょうちょをつかまえたでしょう。僕、だいじにしたんです。毎日花を取りかえて世話をしてたのに、いつの間にか死んでました。狭い所に閉じ込めたから……だいじだからって、かごの中に入れたままじゃだめなんです」
大きな丸い目が、水木のことをじっと見つめた。

「水木さん、生きて」

その言葉は、水木の心に深く突き刺さった。大事な人を守らなければならない。そのためには自分の命など惜しくない、どうせ戦場で死に損なったのだからとどこか投げやりに考えていた。だが、自分のためにこんなに幼い子が『生きていてほしい』と願ってくれている。
「分かった。ありがとう、鬼太郎」
水木は鬼太郎を抱きしめた。小さくてやわらかくて、たまらなく愛おしい。
「行こう」
「はい」
水木は鬼太郎の手を取り、おぼつかない足取りでねずみ少年の後をついていく。
「花嫁様!こっちです!」
「早く、早く!」
「あと少しです!」
先回りしていた妖怪たちが、次々と水木に声をかけてくる。皆必死で、一刻も早く水木を逃がそうとしてくれているのだ。
(母さん、沙代ちゃん)
二人はあの後どうなっただろう。殺されはしないはずだ。だが母は老齢で身体が弱っている。沙代の方はもっと心配だった。水木の持っていった血は使い物にならなくなってしまった。今頃、本当に彼女の血が抜かれているかもしれない。
「ここだ」
ようやくたどり着いた獣道は、ゆるやかな勾配の坂道だった。ここを降りれば村の近くに出るらしい。
「ねずみ、水木さんを頼んだよ」
鬼太郎はそう言って、水木とつないでいた手を離した。
「僕は父さんのところに戻ります」
驚いて鬼太郎の顔を見たが、幼い顔には迷いの色はなかった。覚悟を決めた顔をしている。この優しい子は、きっと父親のことも案じているのだ。最初から水木をここまで連れて来たら、自分だけ引き返すつもりだったに違いない。
「鬼太郎!」
「水木さん、生きてください」
そして、鬼太郎は身を翻して駆けていった。あっという間に見えなくなったその姿を、水木は呆然と見送った。
「行こうぜ兄さん」
ねずみに促され、我に返った。自分には助けなければならない人がいる。それに、水木が戻ったところで、ただの人間の自分が彼らに力を貸せるはずもない。

――――――だが、このまま、自分だけ逃げてもいいのか。

水木は目を閉じた。逡巡は束の間で、すぐに心が決まった。目を開けた水木は、強い意志をみなぎらせてねずみに言った。

……ねずみ君。駄賃を倍にするから、一つ頼まれてくれ」