桐子
2024-05-22 00:19:36
1926文字
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藤花の契り⑨(父水)


水木が山を下りるということを聞いた鬼太郎は、泣いたり駄々をこねたりすることはなかったものの、無言で着物の裾を握って離さなかった。
「鬼太郎、水木が困っておるぞ」
ゲゲ郎が優しくたしなめても、首を横に振るばかりだ。
「またすぐに帰ってくる。お別れはほんの少しじゃ」
「すまんな、鬼太郎。家族に会いたいんだ」
水木はしゃがんで鬼太郎と目線を合わせた。これほど慕ってくれるのは嬉しかったが、申し訳なくもあった。
もうここへ戻ってくるつもりはない。鬼太郎に会うこともないだろう。この子を悲しませることになるのは可哀想だったが、父親であるゲゲ郎がいるのだ。一時、一緒に暮らしただけの人間のことなどすぐに忘れるだろう。
「すぐ?」
「ああ」
……すぐって、いつですか? 明日ですか?」
「あー、そうだなあ……
嘘ならばいくらでも言えるが、幼い子ども相手に平気で嘘をつけるほど図太くもない。何かうまい返しができないかと考えていると、ふと、見事に咲き誇った藤の花が目に付いた。
「この花が散るまでには戻るよ」
「本当?」
「本当だ」
鬼太郎はしばらく無言で俯いていたが、やがてこっくりと頷いた。そして水木の着物の裾から手を離した。そのやりとりを見ていたゲゲ郎は、自身の手首に巻いていた組み紐をほどいて、水木の指差した枝に結びつけた。
「これでよく分かるじゃろう」
鬼太郎はまたこっくりと頷いた。


世話をしてくれた動物や妖怪たち、そして鬼太郎とは屋敷の前で別れた。ゲゲ郎は結界の前まで送ると言って、水木の手を取って歩き始めた。
「結界?」
「鳥居が並んでおったじゃろう。あそこはあちらとこちらの境目なのじゃ。わしの許しなくば入ってこれん」
「へぇ……
あの鳥居にはそんな役目があったのだ。
生け贄としてここへ来たのと逆の道すじを歩きながら、水木はぼんやりとこれまでのことを思い起こしていた。
決死の覚悟を決めて生け贄としてここへ来た。もう二度と人の世界へ戻ることはできないかもしれないと思って恐ろしかったが、『神様』はーーーゲゲ郎は、想像よりもずっと優しく穏やかな男だった。純粋で泣き上戸で、こんなにお人好しで大丈夫なのかと心配になるほどに。
水木はそっと隣を歩く男を見上げた。ゲゲ郎も視線に気付いてこちらを見下ろしてきた。目が合うと優しく微笑まれたので、慌てて前を向いた。
来た時は長く感じた道のりも、戻る時はあっという間だった。最後の鳥居の前で、水木とゲゲ郎は足を止めた。
「あれは持っておるな」
男が身を寄せてきたかと思うと、耳元で低く囁かれた。
「ここに」
懐にしまいこんでいるのは、ゲゲ郎の血の入った小瓶だ。溢れたり割れたりしないよう、念入りに布で包んでいる。
「水木」
優しい声で名を呼ばれて、そっと顎を持ち上げられた。何をされるのかを察して、反射的に目を閉じる。そのまま唇を塞がれた。
……んっ、ふ……
好きなように口腔を舐めまわされ、最後に名残を惜しむように舌に吸い付かれる。ゆっくりと唇が離れると、唾液がつっと糸を引いた。
「お主の帰りを待ちわびておるのは、鬼太郎だけではないぞ」
「ゲゲ郎……
「早う戻ってきてくれ」
強く念押しされて水木は頷いた。ゲゲ郎は満足気に笑うと、最後にぎゅっと水木を抱きしめ、耳元で囁いた。
……愛しておるぞ、水木や」
「!」
かあっと頬が熱くなるのを感じたが、同時に胸がずきっと痛んだ。

「またな」

それ以上何も言うことができず、水木は結界の外側へーーー人間の世界へと出た。振り返ると、鳥居は消えていた。





生まれ育った村へと戻ると、村人たちは水木を見てひどく驚いた顔をした。だが、誰も話しかけてはこない。驚愕、畏怖、怯えーーーそんな感情の入り交じった視線を向けられ、水木は居心地の悪さを感じた。
だが、そんなものにかまっていられない。水木は足早に自分の家へと向かった。見慣れた小屋が見えてくると、たまらなくなって水木は走り出した。

「母さん!」

ガラッと戸を開けて中をのぞきこむ。日の差し込まない小屋は薄暗く、がらんとしていた。
ここにいないとなると、あとはあそこしかない。水木は舌打ちすると、また走り出した。
向かった先は立派な門構えの屋敷だ。村で一番大きいはずだが、やはりゲゲ郎の住む屋敷に比べれば見劣りしてしまう。
水木がずんずん中へ入っていくと、家の中にいた奉公人たちが水木を見てぎょっとした顔をした。
「何用だ」
斧を持った奉公人が、ずいっと前に立ち塞がった。水木は睨み返すと、低い声で言った。

「長田はいるか。いるなら伝えろーーー水木が、例の妙薬を持って帰ったとな」