桐子
2024-05-11 23:45:19
4374文字
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藤花の契り⑤(父水)


空は高く、雲一つない晴天が広がっている。
「おいゲゲ郎。今暇だろ?ちょっと来てくれ」
水木は、縁側に座ってぼんやりとしているゲゲ郎に声をかけた。彼はちらりと水木を見たが、すぐにまた視線を藤の花の方へ戻してしまった。
「またあとでな」
「お前じゃないとダメなんだ。ちょっと来てくれ、頼むよ」
水木が手を合わせて頼み込むと、彼は渋々と言った様子で立ち上がった。
「まったく、何じゃ」
「いいから来いって」
水木はゲゲ郎を先導して屋敷の中庭に案内した。そこには、鬼太郎が一人ぽつんと立っていた。背後でゲゲ郎がハッとした気配を感じたが、水木は構わず鬼太郎に声をかけた。
「鬼太郎」
「父さん……
鬼太郎もまた父親の姿を見て、どこか緊張した面持ちをした。

「よし、揃ったな。今日は三人で羽子板をするぞ」
「「羽子板?」」

水木が言うと、ゲゲ郎と鬼太郎の声が重なった。
「羽子板っていうのはなーーー」
水木は二人に羽子板の遊び方を教えてやった。
「なるほど……これにその羽根を当てればいいんですね」
鬼太郎は興味深そうに説明を聞いていたが、ゲゲ郎はどこか複雑そうな顔をしていた。どこか緊張しているような、居心地の悪そうな表情だ。
「わしはよい、二人でやればいいじゃろう」
「なんだ、逃げるのか?」
挑発するように言うと、ゲゲ郎は眉を吊り上げた。
「逃げるなど人聞きの悪い。こんなもの、どうせ童子の遊びじゃろう」
「だったら俺と勝負しろ」
水木がニヤリと笑ってそう言うと、ゲゲ郎は渋々といった様子で羽子板を手に取った。
「じゃあ、最初は俺とゲゲ郎からやるか。手本を見せるから見ててくれよ」
水木は鬼太郎にそう言うと、羽子板と羽根を手に取った。
「じゃあいくぞ」
「承知」
水木は羽子板で羽根を高く飛ばした。カコッ、と小気味良い音を立ててゲゲ郎の方にとんでいく。ゲゲ郎は小さな羽根を打ち返そうとしたが、羽根は地面に落下した。
「よし、俺の勝ちだな」
水木が得意げに言うと、ゲゲ郎は納得がいかないとばかりに不満そうな顔をした。
「もう一回じゃ!」
「よしこい!」
今度はゲゲ郎から打ち込んできた。羽根が地面に到達する前に、水木は羽子板でそれをすくい上げた。打ち合う間にこつを掴んできたのか、ゲゲ郎は初めてと思えないほど上手に打ち返している。
「うおっ」
今度は水木が地面に羽根を落としてしまった。
「あーあ、やっちまった」
「初めてやったが、なかなかおもしろいものじゃのう」
ゲゲ郎の表情は先程までより明るい。鬼太郎も興味深そうに羽子板を見つめていた。早くやってみたいのだろう。
「なあゲゲ郎、次は鬼太郎とやってみろよ」
水木が言うと、彼は戸惑ったような顔をした。鬼太郎も驚いた顔をしているが、水木が差し出した羽子板をおずおずと受け取った。
「ほら、鬼太郎。よく見て打つんだぞ」
水木は鬼太郎の背中をぽん、と押した。
……では、いくぞ」
……はい」
親子はぎこちない様子で向かい合った。
「それっ」
掛け声と共に、ゲゲ郎が羽子板を打った。カンッ、という音を立てて羽根が飛ぶ。二人はカン、カンと、先程よりもゆっくりとした間隔で羽根を打ち合った。
「おっと」
先に羽根を打ち損ねたのはゲゲ郎だった。
「やったな鬼太郎」
水木が言うと、鬼太郎は少し嬉しそうな顔をした。さて、ここからが羽子板の楽しいところだ。
「さ、ゲゲ郎。顔を貸せ」
水木はねずみ少年に頼んで用意していた硯と筆を持ってきてもらった。墨をたっぷり含ませた筆を構えると、鬼太郎が「何をするんですか?」と言った。
「決まってるだろ」
水木はニヤリと笑った。そしてーーー ゲゲ郎の頰に大きくばってんを書いたのだった。
「何をするんじゃ」
「羽根を落としたら、墨で顔に落書きされるんだよ」
……それなら、お主にも書いてよいのじゃな。お主もさっき落としたじゃろう」
ゲゲ郎は、水木から筆を取り上げると同じように「ばってん」を書いてやり返してきた。
「これでお揃いじゃ」
得意気に言うゲゲ郎に、水木は思わず吹き出した。
「ふふ……
小さな笑い声が聞こえた。見れば鬼太郎が、声を上げて笑っていた。こんな風に声を上げて笑う鬼太郎を見るのは初めてだった。
「おもしろいのか?」
ゲゲ郎が聞くと、彼は「うん」と言った。
「そうか……よし、鬼太郎、もう一度じゃ。今度はお主の顔もお揃いにしてやるからのう」
「負けませんよ」
二人は笑いながら、また羽子板を打ち始めた。その姿を、水木は微笑ましく思いながら見ていた。



楽しい時間の代償に、三人の顔も服も墨がべっとりとついてひどい有様になった。拭いたくらいでは落ちないだろうということで、ゲゲ郎たちは風呂場へ直行した。
……髪を洗ってやろう」
……はい」
まだぎこちなさは残るものの、親子は少しずつ距離を縮めていっているようだった。
「これはひどい」
「若様の着物はもうだめでございますねえ」
兎と狐が口々に言った。水木は顔の墨をぬぐった後、彼らとともに洗濯に励んでいた。確かにゲゲ郎の白い羽織は、墨の汚れが目立ってひどい有様だ。事の発端は水木にあるので申し訳ないことこの上ない。
「すまんな」
「いいえ、花嫁様のせいではございません」
兎が慌てて言った。
「鬼太郎様も若様も、とても楽しそうにされておいででした。花嫁様には感謝しております」
「はい。今まで何人もの花嫁様がいらっしゃいましたが、若様があんな風に笑うお姿を見たのは初めてでございます」
「感謝しております」
狐と兎は洗濯をしながら揃って頭を下げた。
「いや、そんな……俺はただ……
水木には密命がある。ゲゲ郎たちの仲を取り持つようなことをしたのも、その方が都合がいいからだ。彼らに取り入り信頼を得ることで、必要なものが手に入る確率も高くなる。
しかし、ゲゲ郎と鬼太郎が楽しそうにしているのを見ているのは嫌ではなかった。彼らが幸せそうに笑う姿を、もっと見ていたいと思ったのも確かだった。水木にとってゲゲ郎たちは利用すべき相手でしかないはずなのに、あの親子に情が湧いている自分がいるのだ。
「百数えるまで、しっかりつかるのじゃ」
「はい」
ゲゲ郎に言われて、鬼太郎は素直に湯船の中で「ひとつ、ふたつ……」と数を数え始めた。



水木も風呂をもらい、新しい臙脂色の浴衣に着替えて縁側に腰を下ろして涼んでいた。夜風が火照った肌に心地よい。細い月明かりに照らされ、屋敷のまわりの藤の花は妖艶な輝きを放っている。
「水木、ここにおったのか」
いつの間にか足音もなく、ゲゲ郎が隣に立っていた。いつもの青い着物ではなく、黒の着物に白い流水紋の羽織姿だ。
「鬼太郎は?」
「もう寝た。今日はたくさん遊んで疲れたんじゃろう」
彼はそう言いながら、水木の隣に腰掛けた。
「今日の礼じゃ。一杯付き合ってくれんか?」
そう言って、ゲゲ郎は酒瓶をかかげて見せた。水木は頷いて、盃を受け取った。とくとくと注がれた酒を飲んだ。辛口のすっきりとした味わいで、今までにこんなうまい酒を飲んだことがない。
「美味いな」
水木が言うと、ゲゲ郎は「とっておきじゃからな」と笑った。
二人はしばらくの間、黙って酒を味わっていた。そして長い沈黙の後、ゲゲ郎はどこか遠い目をしながら言った。

「わしには妻がおった」

ゲゲ郎はぽつりぽつりと話し始めた。その表情はいつになく穏やかだった。
「そりゃあ綺麗な女じゃった。わしは本気で彼女を愛しておった。そして彼女もわしを愛してくれた。わしにとっては何より、自分より大切な人じゃったよ」
水木は驚いた。丸い目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていたからだ。『神様』は随分と泣き上戸らしい。
「彼女は命と引き換えに鬼太郎を産んで、亡くなった。わしは悲しくて悲しくて……妻の墓の前でずっと泣いておった。鬼太郎が赤子から幼子になるまでの間、ずうっと」
赤ん坊の鬼太郎のことは、他の妖怪や動物たちが世話をしてくれていたそうだ。だが、悲しみがほんの少し薄らぎ、「そういえば鬼太郎はどうしているのだろう」と思い出した時には、もう彼は小さな赤子から幼子へと成長を遂げていた。
「わしは最低な親じゃ。自分の悲しみにばかり気を取られて、鬼太郎のことを忘れておった。こんな男を父親と思えるはずがない、とーーー可哀想なことをしたとずっと思うておった」
「そんなことはない。鬼太郎はお前のことを慕ってる」
水木が言うと、ゲゲ郎は「そうか」と言って盃の酒を飲み干した。
「わしはあの子に関わらぬほうがよいと思っておったが、それは間違いじゃったのじゃな」
「そうだ。あいつにとっちゃ、親はお前だけしかいないんだ。お前がしてやれることは山ほどある」
うん、うんとゲゲ郎は何度も頷いた。そして、まっすぐに水木を見つめて言った。
「水木や、お主のおかげじゃーーーありがとうな」
涙に濡れたその目は、確かに父親のそれだった。その目を見ていられなくて、水木はうつむいた。感謝されるいわれはない。自分は自分のために、ゲゲ郎と鬼太郎の関係を取り持とうとしているだけだ。
「ーーー俺は、……
言いかけて、止めた。代わりに水木は酒を煽った。喉が焼けるように熱い。
「水木よ」
……なんだ」
「お主は優しい男じゃの」
そう言って、ゲゲ郎は水木の手を握ってきた。ひやりとした冷たい手だった。水木が驚いて顔を上げると、いつの間にか随分と近くにゲゲ郎の顔がある。
「お、おい……
「妻はよく藤色の着物を着ておった。よう似合っていた。じゃから、屋敷の周りに藤を植えさせた。妻のことをいつでも思い出せるように」
妻への愛を語っているくせに、ゲゲ郎の目はやけに熱っぽい。まるで口説かれているようだ。

「お主は妻によう似ておる」

「よしてくれ。俺は女じゃない」
水木はゲゲ郎から距離を取ろうとしたが、彼は離そうとしなかった。ますます距離が縮まっていく。
「おい……ちょっと……
「水木ーーー」
ふわり、と酒の匂いが漂った瞬間、唇に何か柔らかいものが触れた気がした。すぐにそれは離れてしまったが、口付けをされたのだとわかった。水木は驚きのあまり目を見開いて固まってしまった。
「ーーー駄目か?」
唇が触れあいそうな距離で、ゲゲ郎が囁いた。彼はもう父親の顔をしていない。男のーーー雄の顔をしている。
「あ……
様々な思いが水木の脳裏をよぎった。真剣な思いを弄ぶべきではないと思う一方で、これは好機だとも思える。

結局、水木は沈黙を選んだ。黙って目を閉じ、男の唇を受け入れる。ひやりとした唇は薄く、やわらかくて、水木を物悲しい気持ちにさせた。