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桐子
2024-05-08 00:08:42
3282文字
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藤花の契り②
男に連れられて、屋敷の中へ入る。外観よりずっと広く感じた。村長の家がまるまる三つか四つは収まりそうだ。
「しばらくはここでゆっくりすればよい。これまでに来た者たちもそうしておったからのう」
そう言うと、男はあたりを見回した。
「誰ぞおらんか」
はるか遠くまで続く廊下はしんとして、人の気配はしなかった。だが、男はすたすたと歩いていくと、迷いなく襖を開けた。
「げげっ!」
「またさぼっておったのか、ねずみの」
襖の向こうから、黄色いかたまりがころりと転がり出てきた。それを、男は呆れたような顔で見下ろしている。
ねずみ、と呼ばれたのは黄色い着物を着た少年だった。確かにねずみと呼ぶのがしっくりくる顔だちだ。彼は揉み手をしながらぺこぺこと頭を下げた。
「いえいえ旦那、さぼってたなんてそんな。ぼかぁ熱心に掃除をしててですね」
「よい。それよりも客人じゃ、案内してくれ」
ねずみ顔の少年はびびっと背筋を伸ばした。そして水木の方を向き、直角に頭を下げてきた。
「はじめまして!ささ、お疲れでしょう。こちらへどうぞ」
「あ、ああ
……
」
男の顔を見ると、彼は微笑んで小さく頷いた。少年に案内されるまま、水木は奥へ進んでいく。
「しばらくの間、ゆっくりすればよい。入り用なものがあればそやつに言うてくれ」
ほのかな煙草の香りを漂わせた『神様』は、そう言ってまた元いた藤の花の咲き誇る濡れ縁へ戻っていった。
水木はねずみ少年に連れられ、屋敷の奥へと歩いていった。
「こちらへどうぞ」
立ち止まった少年が襖を開けると、そこは畳敷きの和室だった。水木の生家よりもずっと広い。置かれた調度品はどれも一目で高価とわかるものばかりだ。
「お疲れでしょう。湯殿の用意もできてますけど」
「いや、かわまない。それより着替えを貸してもらえるか」
水木がそう言うと、ねずみ少年は目をぱちくりさせた。
「なんだ、あんた男かよ。はぁ、気を遣って損したぜ」
「男で悪かったな」
水木は苦笑して自分の打ち掛けを見下ろした。この格好だ、勘違いするのも無理はない。水木だって抵抗したのだが、「生け贄は花嫁衣裳を着る習わしだ」と押しきられてしまった。綿帽子で隠れているからいいものの、男の花嫁衣裳など滑稽なだけだ。
「着替えを持ってくるから、ちょいと待っててくんな」
水木が頷くと、ねずみ少年はパタパタと部屋を出ていった。足音が遠くなったのを確認して、打ち掛けと綿帽子を脱ぐ。きっともう出番はないだろう。高価なものなのに申し訳ないなと思いながら、水木は身軽になった身体をぐっと伸ばした。
「失礼するぜ」
ねずみ少年が着替えを持って戻ってきた。薄い緑の縞の着物だ。手触りがよく、上等なものだとわかる。
「ありがとう」
礼を言って渡された着物に着替える。白無垢よりもこちらの方がよほど動きやすい。
ねずみ少年は水木の脱いだ衣裳をひとまとめにして抱えると、「じゃあな」と言いながら出ていった。
一人、広い部屋に取り残された水木は、あたりの様子をうかがっていた。だが、襖の向こうはしんと静まり返って人の気配を感じない。
水木はようやく肩の力を抜いて、畳の上にごろりと横になった。ここまでの道中での緊張と疲労がどっと押し寄せてくる。
まずは、生け贄しか入ることのできない神域に入り込めた。これで、当面の目的は達せられたと言えよう。あとは、いかにしてあの男ーーー『神様』の血を手に入れるかだ。だが、機会はきっとある。焦る必要はない。まずは懐に入り込み、信頼を得る。そのためなら何でもするつもりだ。
大丈夫、きっとうまくいくーーー水木は自分に言い聞かせるように胸のうちで呟いた。
どこからか母親が謝る声が聞こえてきた。
『困るなあ、しっかり働いてくれんと。あんたんとこは男手が足りんのだから』
『すみません、すみません
……
』
母親は小さな体をさらに小さくして、ぺこぺこと頭を下げていた。水木はその様子を部屋の奥でただ聞いているしかない。
母親はあまり体が丈夫ではない。それなのに、死んだ父の分まで必死に働かなくてはならなかった。男衆たちに混ざって力仕事をしては、疲れきって帰ってくる。
『まったく、死んだあんたの旦那のせいで、こっちはいい迷惑だよ』
吐き捨てるような男の声が聞こえてくる。
水木の父親は穏やかな男だった。間違っていることを「間違っている」と堂々と言う人間だった。戦争が始まり、人々はそれを熱狂とともに迎えたが、水木の父親だけは「こんな馬鹿げたことに加担してなるものか」と憤慨していた。周囲の人々は、そんな父のことを「非国民」と蔑んでいたが、水木にとっては優しい父親だった。
『
……
なんだその目は』
水木は、父親を非難する男をぐっと睨み付けた。その目付きが気に入らなかったのか、男は水木に掴みかかってきた。
『生意気なガキだ』
『すみません!よく言って聞かせますから!!』
悲鳴じみた声を上げて、母親が男と水木の間に割って入る。
『勘弁してやってください
……
』
『ふんっ』
母親は男にぺこぺこと頭を下げる。その姿を見ると悲しくて堪らない気持ちになり、水木はぎゅっと唇を噛み締めた。父親はどうして死んでしまったのだろう。戦争はくだらないと言っていたのに、村中から白い目で見られ、とうとう兵隊にとられてしまった。誰にも見送られることなくーーーそして残された母と水木は、こうして村人の冷たい視線に晒されながら日々を生きている。
『水木、あんたも頭を下げて』
母親の震える声にはっとする。水木は唇を噛み締めたまま、地面に頭を擦り付けた。
惨めで悔しくて仕方がなかった。だが、幼い水木にはどうすることもできない。負けたくない、と強く思った。大事な人を悲しませたくない。間違っていることを間違っていると言いたい。
強くならなければーーーそう心に決めながら、水木はこれまで生きてきたのだった。
はっと目を覚ますと、あたりは薄暗かった。ずいぶんと長い時間眠っていたらしい。
「ずいぶんうなされておったぞ」
すぐ横から声がして視線を向けると、目の前に『神様』の顔があった。水木の驚いた顔を見て、彼は愉快そうに喉を鳴らして笑った。どうやらうたた寝している内にやって来て、寝顔を見つめられていたらしい。起こしてくれればいいのにと思ったが、『神様』の機嫌を損ねても困るので、水木は口をつぐんでおいた。
「悪い夢を見ておったのか?」
「
……
忘れた」
ぶっきらぼうな返事になってしまったと、返事をしてから気が付いた。まずいことをしたかと内心冷や汗をかいたが、『神様』は気にした様子もない。むしろ嬉しそうに見えた。
「そうかしこまらずともよい。普段通りにしゃべってくれてかまわんぞ」
そう言われても、さすがにそこまで馴れ馴れしく振る舞えるわけがない。だが、水木の戸惑いなどお構いなしに、男は「よいよい」と重ねて言った。
「ここへ来る者たちは皆、わしを畏れるあまり堅くなっておるからのぉ。お主のように物怖じせぬ者は珍しい」
『神様』はそんなことを言いながら、どこか懐かしそうに水木のことを見つめた。長い前髪の隙間から、丸い目がじっとこちらを見つめている。
水木は、その視線から逃れるように目を反らした。なんだか全てを見透かされているような気がする。あまり長く目を合わせていると、自分が抱えている秘密のことも見透かされてしまいそうだ。
「
……
わかった」
水木はややためらってから頷いた。『神様』は満足げに微笑んだ。
「それで、あんたのことは何て呼べばいい」
「ふむ」
男は少し考えてから、「好きに呼べ」と言った。
「わしには名はない。他からは幽霊族とか、若様と呼ばれておるが」
「なら
……
」
ふと、先程のねずみ少年の「げげっ!」という叫びが脳裏に浮かんだ。
「ゲゲ郎と呼ぼう」
「おお、愉快な響きじゃ」
どうやら気に入ってくれたらしい。『神様』ーーーゲゲ郎は楽しそうに笑っている。水木は密かにほっと胸をなで下ろした。
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