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桐子
2024-03-23 20:37:16
5086文字
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魂結び①(父水)
冬も終わりに近づいたのか、日差しはずいぶんと春めいてきた。
ゲゲ郎は目を細めて空を見上げた。
今日はいい天気だ。水木を誘って外を散歩するのもいいかもしれない。
ナースステーションに寄ると、すっかり顔馴染みになった看護師が笑顔を向けてきた。
「あら、ゲゲ郎さん。こんにちは」
「おお、沢城さん。こんにちは」
沢城さんは水木の担当だ。何度もここへ通ううちにすっかり仲良くなってしまった。いつもにこにこして優しい沢城さんは感じがよくて、人間嫌いのゲゲ郎でも普通に話すことができた。彼女だけではない。この病棟の医師も看護師も、そして入院患者も、皆いい人たちばかりだ。
はじめは下駄に着物でうろつくゲゲ郎を不審な目で見る者もいた。しかし、何度もここへ来るうちに、彼らともすっかり顔馴染みになってしまった。
「今日はいい天気ですねぇ」
「うむ。水木と散歩に行こうと思うてな。かまわんか?」
「ええ、もちろん」
沢城さんは快く了承してくれた。許可を得たゲゲ郎は、水木の待つ病室へと足を向けた。
いつもと変わらない、穏やかな昼下がりだった。
「水木や、来たぞ」
病室に入ると、水木はベッドの背もたれに寄りかかって本を読んでいた。ゲゲ郎の声に気付くと、水木は顔を上げて穏やかに微笑んだ。
「よぉ」
「今日はいい天気じゃぞ。散歩に行かんか?」
「そりゃあいいな」
水木は読んでいた本を枕元に置くと、よっこらしょとベッドから下りようとした。
「待て待て、車椅子を」
ゲゲ郎は水木を止めて、ベッドから車椅子に水木を移した。
「すまんな」
「なんの。しっかり掴まっておるのだぞ」
暖かいとはいえ風は冷たい。水木の膝にブランケットをかけてやり、寝巻きの上から半纏を着せる。ゆっくり車椅子を押して歩くのももう慣れたものだ。
「あっ、ゲゲちゃん」
「ゲゲちゃんだー」
外へ出るために談話室の横を通ると、そこで遊んでいた数人の子どもたちがゲゲ郎に気付いて寄ってきた。
「みずきさんも、こんにちは!」
「なーなーゲゲちゃん、またあれやってよ!逆立ちして床ぐるぐるするやつ」
子どもたちは無邪気にゲゲ郎たちに話しかける。この病棟は人数が多くないので、長く入院していると皆顔馴染みのようなものになる。ゲゲ郎も水木も子どもは好きなので、相手にしているうちにすっかりなつかれてしまった。
「もう、みんな。ゲゲ郎さんたちはお散歩に行くんだから」
子どもたちと一緒に遊んでいた職員が、ゲゲ郎たちを気遣ってそう言う。
「かまわんよ。ほら、ちょっと離れよ」
ゲゲ郎は子どもや水木たちから少し距離を取ると、床に手をついてくるりと回ってみせた。体操選手のような動きに、わっと歓声が上がる。
「すごーい!」
「ゲゲちゃんすごいね!」
「もう一回やってよ!もう一回!」
子どもたちがリクエストに応えてまた回ると、彼らはきゃっきゃとはしゃいだ。子どもたちの楽しそうな様子に、水木も顔を綻ばせる。
手を振って彼らと別れ、今度こそゲゲ郎たちは外へ出た。
「水木や、あの雲は魚に見えんか?」
「あ?
……
ああ、たしかに」
他愛ない話をしながら、ゆっくりと歩く。少し冷たい風と暖かな日差しが心地よい。今日は水木の体調もいいようだ。
敷地の中にはたくさんの木や花が植えられている。ゲゲ郎はいつものように、大きな桜の木の下で止まった。枝を見ると蕾が膨らんでいる。
「もうじき咲きそうじゃな」
「そうか
……
今年の桜は見られそうだな」
ぽつりと水木が呟く。
「鬼太郎も呼んで、三人で花見をするか。わしが弁当を作ってやる」
「そりゃあいいな。ついでにコレもあると、もっといいんだが」
水木は、くっと盃を傾ける仕草をした。
「
……
お主、自分が病人だと忘れておるな」
「ははは」
おかしそうに水木は笑った。
ーーー春は越せても、夏は迎えられないかもしれない。
すっかり白くなってしまった水木の髪の毛を見て、ゲゲ郎はそう予感していた。背はそれほどではないが、体格のいい男だった。だが今はずいぶんと小さく縮んでしまった。顔には皺が刻まれ、足だってかつてのようには走れなくなった。
それだけではない。
ゲゲ郎は先ほど自分たちが出てきた病棟を振り返った。出入り口にまた死神がいる。また誰かを連れていくのだろう。少なくともそれが水木ではないことに、ゲゲ郎は安堵していた。
ここは緩和ケア病棟と呼ばれており、もう治る見込みのない者たちが、最期の日々を穏やかに過ごすための場所だった。
水木のような老人も、まだほんの数年しか生きていない幼い子も、皆この病棟で静かに暮らしながら、最期の時を待っている。
ゲゲ郎がここへ通うようになって、何ヶ月になるだろう。
病気のことがわかった時は既に手遅れだった。本人はけろりとしたもので『酒も煙草もやったからなぁ』と笑っていた。
幽霊族の自分と、人間の水木。
どれほど互いを思い合っていても、種族の差は越えられない。いつか別れる日が来る。それは知っていたが、これほど早くその日が来るとは思わなかった。ゲゲ郎は込み上げそうになる涙をぐっと耐え、明るく声をかけた。
「
……
なぁ、水木」
「なんだ?」
「ーーーまた、来年も桜を見ような」
それは約束ではない。いつまでも共にありたいという、ゲゲ郎の願いだった。
「ああ。でも、ここより天神さんの桜がいい。もう長いこと見てねえからなぁ」
水木は微笑んで、そう答えた。
ゲゲゲの森の入り口にある天神さんには桜の木があって、そこで花見をするのが毎年の恒例だった。
またあの花を、ともに見たい。それはゲゲ郎だって同じだ。
後ろから抱き締めると、ずいぶん骨が浮き出た肩がゲゲ郎の胸に収まる。そのまま腕に力を込めると、水木はすり、と頬を擦りよせた。
「水木、お主が好きじゃよ。お主を愛しておる
……
本当に、わしと共に生きてはくれんのか」
何度ものみこんでは、言葉にするのを躊躇っていたその言葉をゲゲ郎は口にしていた。水木とてわかっているはずだ。残された時間が少ないことぐらい。
「分かってるだろ。俺はもう充分生きた。お前と鬼太郎のおかげで、いい人生だった」
ゲゲ郎は水木を抱き締める腕に、力を込めた。水木の病気が発覚してから、ゲゲ郎は何度も泣いた。しかし、もう涙も枯れてしまったのか今は流れない。ただ胸だけが苦しい。
「
……
ずっとそう言っておったものな。わしと鬼太郎で、お主が死ぬ時は看取ってやると、約束したものな」
「ああ」
分かっているのだ。それでも言わずにいられない。
「じゃが、わしはさびしい
……
」
ぽろりと、本音が零れた。妻を亡くした時もあれほど辛かったのに。愛する者を喪うのは、寂しくて恐ろしくて、ただただ悲しかった。あの悲しみをもう一度味わわせようというのだから、水木はひどい男だ。
「泣くなよ
……
」
水木は困ったように笑っていたが、その目は潤んでいた。別れがつらいのは自分だけではないのだ。
「泣いてなどおらん。もう涙も枯れてしもうたよ」
「嘘つけ」
水木はゲゲ郎の顔を仰ぐように上を向いた。頰に手を伸ばし、涙を拭うようにそっと撫でた。
「お前は本当に泣き虫だな。俺なんかのためにそんなに泣くことないのに」
「なんか、などと言うな」
「
……
俺もさびしいよ」
ごめんな、と水木は笑った。そこには確固たる意志がある。寂しいけれど、ゲゲ郎は水木の意思を尊重するつもりだ。自分にはもうそのくらいしかしてやれることはないのだから。
「なぁ、ゲゲ郎。もし生まれ変わりなんてものがあるなら
……
また、お前に会いたいよ」
「水木
……
」
ゲゲ郎は堪らなくなって、水木の身体をきつく抱き締めた。
「わしもまた、会いたい。お主の魂のかたちは覚えた。きっと見つけてみせる」
「そりゃあ心強い」
水木は笑った。ゲゲ郎はそんな彼に、優しく口づけを落とした。
約束は、ほんの少しだけ、終わりの近づく二人の心を慰めてくれた。
春を越える頃、水木は目を覚まさなくなった。
そしてある日、眠るように息を引き取った。苦しむことのない穏やかな最期だった。
墨を流したような暗い夜。薄い雲におおわれた空には星も月も見えない。
ゲゲ郎はただただぼんやりと川原に立ち尽くしていた。その腕には、水木の亡骸が抱かれている。
「水木
……
」
ゲゲ郎の目からはらはらと涙が零れた。その雫は、彼の腕の中の水木に降りかかる。だが、「もう泣くな」と優しく涙を拭ってくれることは二度とないのだ。
「父さん」
いつの間にか鬼太郎がすぐとなりに来ていた。
「弔いの用意ができましたよ」
ゲゲ郎は涙をこぼしながらこくりと頷くと鬼太郎についていった。
墓場には妖怪たちがいた。みな生前の水木と縁のあった者たちだ。ゲゲ郎は彼らの中心にある粗末な木でできた棺の中に水木を横たえた。
人間の弔いのやり方など誰も知らなかった。だが、ゲゲ郎と鬼太郎は、水木の母親の葬式に参加していたので、その記憶を頼りになんとか弔いの儀式を執り行った。
「水木さん、いい顔しとるのお」
「ええ人じゃったなあ」
妖怪たちは水木の亡骸を覗き込んで最期の別れを惜しんだ。
皆が別れを告げ終わり、とうとうゲゲ郎たちの番になった。
「父さん
……
もう、水木さんは、苦しい思いをしなくていいんですね」
鬼太郎がぽつりと言った。
病院へ入る前、水木は最期の時間をゲゲゲの森で過ごすつもりだった。だが、病魔は水木の体を思った以上に蝕んでいた。彼は意思の強い男だったので、痛みに苦しむ姿を見せまいと必死に隠していたのだが、ある時、ゲゲ郎がそれに気付いてしまった。そんな姿を見ていられなくて、少しでも痛みを取り除いてやりたくて、一緒にいたいのを我慢して水木を病院に行かせたのだ。
「ああ、そうじゃな
……
」
ゲゲ郎も同意した。
本当はもっと早く楽になりたかっただろうに、自分たちが悲しむだろうからと、少しでも一緒にいてやりたいからと、水木は長く苦しむことを選んでくれた。痛み止めを打ち、意識がもうろうとする中でも自分たちを気遣い、命を引き延ばしてくれた。医者が告げた余命よりもずっと長く生きてくれたのは彼の優しさだった。
それももう終わった。水木はもう苦しまなくていいのだ。
「もう痛くも苦しくもないなら、よかった
……
さようなら、水木さん。今まで、ありがとう
……
」
鬼太郎は摘んできた花を養い親の傍らに捧げた。墓場で出会った二人の別離もまた、墓場なのだ。これでいいのだと思うのに、それでもやはり寂しくてたまらない。鬼太郎は父親の腰のあたりに抱きついた。
ゲゲ郎もまた、水木の顔を見た。皺の刻まれた顔には、あの快活な笑みはない。だがどこか安堵したような穏やかな表情をしていた。
「わしはお主という人間のおかげで、人間のことを少しは好きになれたよ。わしに、人とともに生きることのできる世界を見せてくれて
……
ありがとうなぁ、水木」
水木という男は決して聖人君子というわけではなかった。だが、あたたかい男だった。弱い立場の人のために怒り、慈しみ、寄り添うことのできる人間だった。ゲゲ郎はそんな彼が好きだった。
「お主の魂のかたちは、ちゃんと覚えておくからの」
いつしか雲が流れ、月が顔を見せていた。青白い月明かりに照らされた水木の顔は穏やかで、まるでただ眠っているだけのように見えた。本当はいつまでもこの穏やかな顔を眺めていたいが、あまりのんびりしていては朝がきてしまう。
「釣瓶火や」
釣瓶火はゆっくりと水木に近づいた。炎の中に浮かび上がる顔がゲゲ郎を見ている。合図を待っているのだ。
「ーーー頼む」
ゲゲ郎がそう言うと、釣瓶火は勢いよく燃え上がった。釣瓶火は本来は熱をともなわない炎である。しかし、いざとなれば人一人を荼毘に伏すことくらいはできる。水木の遺体は青白い高温の炎に包まれた。ゲゲ郎と鬼太郎は炎に包まれた水木をじっと見つめていた。彼を彼たらしめていた髪も肌も傷も、あっという間に燃え尽きて、真っ白い骨と灰だけが残された。
白い煙が立ち上り、天へと昇っていく。暗い夜空に、ふと蛍光色のひかりが漂った。
蛍だ。
かすかな光はあたりをさまよいながら、やがて川の向こうへと消えていった。まるで水木の魂が名残を惜しみ、さまよっているかのようだった。
「さよなら、水木。
――――
また会おう」
恋慕と惜別のこもった呟きが虚空へ溶ける。
こうして水木は、この世から完全にいなくなったのだった。
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