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桐子
2024-02-15 01:14:09
3081文字
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魂の在る所⑧(父水)
水木の作る飯は旨い。それは認めざるを得ない事実だ。
夜、こっそり抜け出してとってきた蛙や鼠よりも、ずっとずっと旨かった。ほかほかと湯気をたてる白米、いい香りのする味噌汁、焼いた魚は皮がパリパリしていて身はふっくらとしている。生でかじるよりも、焼いた方がずっと旨いのだということを初めて知った。
「うまいか?」
そう笑いながら聞いてくる水木は、これまでひどいことを言われていたのを忘れたように、穏やかに笑うのだった。
腹一杯食べて、誰かに見つからないか怯えず眠れるというのは、まだ幽霊族がたくさんいた頃にはできたことだ。父母がいて、仲のよい友達がいて
―――
自分にもそんな時があったのだ。それがひどく懐かしく、同時に胸が痛む。その幸せを奪った人間は許せない。憎いという思いはどうしたって消えない。しかし、この人間と暮らすようになってから、自分の心が変わってきているのを感じる。
「うおっ!」
立ち上がりかけた水木が、敷居につまずいた。倒れないよう慌てて手を伸ばし、水木の体を抱き留める。
「何をしておる」
「すまん、足元が見えなくてな」
確かに大きな腹だ。これでは足元は見えないだろう。それにしたって、転んで腹の子どもを押しつぶしでもしたらどうするのだ。
「
……
まったく、仕方のない奴じゃ」
呆れた声を出して体を離そうとしたが、水木はしがみついたまま離れない。
「おい」
「
……
なぁ、ゲゲ郎
……
なんか、まずいみたいだ
……
」
顔が真っ青だ。血の気が引いている。
「は!? なんじゃと?」
「腹が
……
っ、う
……
」
「お、おいっ!」
ゲゲ郎は慌てて水木を抱き上げ、布団の上に寝かせた。腹を押さえてうずくまる水木は、冷や汗をかきながら顔を歪めている。
赤ん坊が生まれようとしているのだ。
「し、知らせんと」
知り合いの妖怪が取り上げてくれると言っていたはずだ。鬼太郎に教えればなんとかなるだろう。縁側に出るとちょうど烏が飛んできた。ちょうどよい所へ、とほっとしたのも束の間で、先に烏が口を開いた。
『術師、見ツカッタ。コレカラ追イカケル』
長い間追いかけていた裏鬼道の術師がとうとう見つかったのだ。烏はそれを知らせに来たようだ。
鬼太郎たちはしばらくそちらに掛かりきりになるだろう。では誰が赤ん坊を取り上げるのだ。烏にはそこで少し待つように伝え、水木のもとへ戻る。
「水木」
顔をのぞきこむと、ぼんやりとした目がこちらを向いた。痛みに耐える顔には汗が浮かんでいる。
「ゲゲ郎
……
」
「術者が見つかったそうじゃ。今、鬼太郎たちが追いかけておる」
「そうか」
水木はふっと、穏やかな笑みを浮かべた。
「きっと鬼太郎たちが、なんとかしてくれる
……
っ、だから、何も知らせないでくれ」
「正気か、お主」
人間の男は子を産むような構造になっていない。だから子が腹の中で大きくなれば、腹を切って取り出すしかない。腹が裂けてしまうからだ。それをこの人間は、分かっているのだろうか。
「頼む
……
あいつらは戦ってる。心配かけたくないんだ
……
」
水木は苦しげな声でそう言った。
「お主は阿呆じゃな」
「ああ、知ってるだろ?」
痛みで今にも気を失いそうなくせに、水木はそう言って笑った。
「はぁ
……
っ、ふ、ぐっ
……
ううっ
……
」
随分と長い間、水木は苦しんでいた。小刻みに震え、脂汗をびっしょりかいていて、痛みの限界がきたら気を失い、また痛みで目を覚ます。そんな水木を横目に、ただ隣に座っているしかなかった。
「ゲゲ郎
……
」
手が虚空へ伸びる。思わずその手を取っていた。ぎゅうと万力のような力で握られる。茫洋とした目と視線が合う。一瞬、水木の目に浮かんだのは
悲しみだった。本当に手を握ってほしい相手は、自分ではない。“ゲゲ郎”なのだ。
術者を倒せば自分にかけられた呪いは解ける。そうすれば、水木の“ゲゲ郎”は帰ってくる。ならば、自分はどこへ行くのだろう。木の洞に隠れ住み、一人眠っていた頃に戻ってしまうのだろうか。
――――
それは嫌だ、と思ってしまった。
一人は嫌だった。一人でいるのは寂しくて、怖くて、泣きたくなるほど悲しかった。それでも泣かなかったのは、泣いたところで誰一人帰ってこないと知っていたからだ。涙は弱さの象徴だ。
「ゲゲ郎
……
」
水木が掠れた声で、自分のものではない名前を呼ぶ。
「あ
……
赤ん坊は無事なのか
……
?」
「無事じゃ。お主も赤子もまだ生きておる」
それも時間の問題だ。赤ん坊は腹の中が苦しくて出ようとする。だが、男の腹には産道がないから出てこられない。幽霊族の胎児となれば、腹を突き破って出てくるだけの力を持っている。
「そうか、よかった
……
」
そう呟くと、水木は静かになった。手を握りしめたまま、また気絶したようだった。汗に濡れる額を、袖の裾で拭いてやる。すると、小さな声が聞こえてきた。
「
……
は
……
くれ」
聞き取れずに首を傾げると、水木は再び同じ言葉を囁いた。
「もしもの時は
……
赤ん坊を優先してくれ
……
」
「死ぬつもりか」
「ばか、いうな
……
死ぬつもりなんてない
……
でも、万が一ってことも、あるだろ
……
」
痛みの波が少し落ち着いたのか、水木はゆっくりと息をしながら話した。
「俺の腹を、割いて、取り上げてくれ
……
はは、ここにいるのがお前でよかったよ。ゲゲ郎だったら、絶対できなかったからな
……
」
人間を憎む自分なら、躊躇なく赤ん坊の命を優先させることができるだろうと水木は言っているのだ。
「何故じゃ
……
何故、お主はそれほど幽霊族の子を産むことにこだわる」
好きだから、と以前の水木は言っていた。好きだから子を産みたいし、お前のことを分かりたいと語った。
「そうだな
……
お前になら、俺の秘密を教えてやってもいいか」
俺は、汚い人間なんだ。
好きな男の子を産みたいという気持ちも確かにある。でも、それよりも、本当の家族になりたいんだ。
俺は人間だ。どうしたってあいつらの家族にはなれない。もうその場所には、彼女が
――――
ゲゲ郎の奥さんがいるからな。でも、俺はあいつらと離ればなれになるのがつらい。いつか置いていかれるのが怖い。母さんも死んで、鬼太郎たちも出ていっちまったら、俺は一人ぼっちになってしまう。一人は嫌だ。一人でいるのは寂しくて、怖くて、悲しいだろう。
でもこの子がいれば、俺はあいつらの本当の家族になれる。
「そんな打算でいっぱいなんだ、俺は」
ぽつりぽつりと、水木は語った。
「お前に、愚かで欲深い人間だって見抜かれて、ホッとしたんだ。その通りだったからな
……
俺がこいつを産むのは、鬼太郎の母親みたいに愛情があるからじゃない。ただあいつらに愛されたかったからだ」
水木はそう言って自嘲気味に笑った。
確かに愚かだった。自分が愛されるために子を産むなど、なんと浅ましいことだろう。しかし、自分よりも赤ん坊の命を優先させてほしいと言った水木の言葉に嘘はない。そこには子どもへの深い愛情が確かにある。
「お主は、阿呆じゃ」
「
……
ああ、知ってるさ」
水木は、くしゃっと情けない笑顔を浮かべた。
残忍で欲深くて、自分たち以外のものを平然と踏みにじる。それが人間だと思っていた。でも、違うのかもしれない。水木のように、自分の欲望のためではなく、誰かのために命を懸けられる者だっているのだと知った。
「ああ、スッキリした。ずっと
……
こんなこと言えなかったからな。お前がいてくれてよかったよ」
そう言って笑う水木の顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
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