桐子
2024-02-12 21:26:44
2417文字
Public
 

魂の在る所⑥


久しぶりの晴天だ。水木は溜まっていた洗濯物を一気に洗ってしまおうと張り切っていた。ゲゲ郎の半纏を借りて外へ出ると、寒いが冷たい空気が気持ちいい。
「お、今蹴ったか」
ぽこ、と腹を蹴ったのは、気持ちがいいねと同意してくれたのかもしれない。
「でかくなってきたなあ」
膨らんだ腹は、さすがに中年太りでは誤魔化せない様相をしている。早めに会社を辞めたのは正解だったかもしれない。
最終日には花束さえ渡されず、ようやく厄介者がいなくなったと言わんばかりの顔で送り出された。血液銀行は戦後に自分を拾ってくれた恩があり、がむしゃらに働いてきた。だが最後がこれとは報われないものだ。まあ、「こんな所早く潰れちまえバーカ!!」なんて子どもじみたことを叫んで、上司の呆気に取られた顔を見られたのは胸がすくような気分だったが。
ゲゲ郎が記憶を失い既に二ヶ月が経った。未だに術者は見つからない。
「水木さん、手伝いますよ」
鬼太郎は、物干し竿を下ろしてタオルをかけている水木に声をかけた。憔悴しきった鬼太郎を見かね、水木が「しばらく休めば良い」と言ったのだ。
「まあ、ゲゲ郎もそのうち元に戻るかもしれんしな」
明るくそう言ったが、鬼太郎の顔色は優れなかった。
「父さんは……あんなに喜んでたのに」
膨らんできた腹を見つめて、鬼太郎がぽつりと言った。
確かにゲゲ郎は子どもができたことを知り、大喜びしていた。毎日腹をさすり、「ととじゃぞ」と話しかけていたのだ。鬼太郎が生まれた時に立ち会えなかった分、めいっぱい可愛がるのだと張り切っていた。水木の腹はどんどん大きくなる。もし出産に間に合わなかったら、またゲゲ郎は生まれたばかりの子どもを抱き上げることができない。鬼太郎はそれが気がかりなのだ。
「それでお前が倒れたら、ゲゲ郎は悲しむだろう。続きは、しっかり休んで元気になってからだ」
水木は鬼太郎の頭を撫でた。
……はい」
「そうだ、今日はカレーにしよう。肉を買ってきてくれないか?」
財布と買い物籠を渡すと、鬼太郎は「はい」と返事をして出かけていった。
確かにゲゲ郎のことは気がかりではあるが、焦っても仕方がない。それにゲゲ郎が消えたわけではないのだ。諦めの悪い男のことだから、きっとどうにかして戻ってくるに違いない。
水木は暗い気持ちを振り切るように、洗濯物の残りに取りかかった。小さな声で子守歌をうたいながら。大丈夫だ、お前の父親はしぶとい男だ、きっとお前を抱きしめてくれるからな――――そんな風に語りかけながら。
「うるさい、やめよ」
いつの間に部屋から出てきたのか。ゲゲ郎が縁側に立って、じっと水木を睨んでいる。
「すまんな下手くそで」
……ああ、まったく気に障るといったらない」
因縁を付けにきたのだろうか。水木は眉をしかめたが、好きに言わせておくことにした。手を出してくるわけではないし、ゲゲ郎だって戸惑っているのだ。それをぶつける相手が水木しかいないというだけなのだから。
「来い。今日の分じゃ」
それで部屋から出てきたのか。さすがに鬼太郎がいる時はできないから、その隙を狙ってきたのだろう。水木は洗濯物を置いて、縁側に座った。座り込んだ水木に合わせ、ゲゲ郎もしゃがむ。間近に見る顔は見慣れたものなのに、やはり少し緊張した。
……口を開けろ」
水木は言われた通りに口を開いた。ゲゲ郎は唇を触れ合わせ、舌を入れてきた。白い髪が頬にかかる。
雨に濡れた土の匂いと、ほのかな線香のような独特の香りに包まれ、ついいつものように手を伸ばして頬を撫でてしまった。柔らかい頬の感触が懐かしい。
ぴく、とゲゲ郎の肩が揺れた。しかし突き飛ばされることもなく、そのまま舌を絡められ続けた。唾液をこくりと飲み干すと、ゆっくりと離れていく。
「ゲゲ郎」
水木は名残惜しくてもう一度名前を呼んだ。
ゲゲ郎はハッとした顔をして、みるみるうちに不機嫌そうな顔になった。
「やめよ、気色の悪い」
中途半端に伸ばしていた手が、バシッと音を立てて払われた。
「わしはゲゲ郎などという名ではない。勘違いするな、人間。わしは赤子のためにしておるのじゃ。そうでなければお前のような淫売と口吸いなぞするものか」
吐き捨てるように言って、ゲゲ郎は水木を睨み付ける。
「どうやってわしを誑かした。寝込みを襲ったか、それとも浅ましく強請ったか?汚らわしいやり方で子を成すとは、下劣極まりない。恥知らずが。この痴れ者が!」
「おい、ゲゲ郎……
「黙れ、喋るでない! 穢らわしい!!」
あまりの言い草に水木は絶句してしまった。ゲゲ郎がこんなに口汚く誰かを罵る所など見たことがなかった。
「ゲゲ郎」
「その名を口に出すなと言っておろう!!」
ゲゲ郎は怒鳴ると、水木を残して部屋へ戻ってしまった。残された水木は、呆然とその場に座り込んでしまった。
―――愛してるって言ってたじゃねえか。
水木は胸の中で呟いた。あの優しい男はどこへいってしまったのだろう。いつもにこにこして、穏やかで、子どものように泣く男だったのに。
「ふ……、う……っ」
泣くな、と自分に言い聞かせた。泣いてはいけない。鬼太郎が心配する。それに、かつて彼らが人間から受けた仕打ちを考えたら、これくらいのことは我慢しなければいけないのだ。それでも、胸の中にぽっかり穴が空いて、そこから冷たい風が吹き込むようだった。
「ただいま帰りました」
しばらくして鬼太郎が帰ってきた。水木は慌てて目元を拭い、笑顔を浮かべる。
「おかえり。肉買ってきたか?」
「はい。一番安い肉のにしときました」
鬼太郎は買い物籠を差し出しながら、首を傾げた。
……目が赤くなってます」
「ああ、ごみが入ったんだ。すぐ洗濯物干しちまうから、家の中で待っててくれ」
鬼太郎はまだ何か言いたげだったが、「わかりました」と素直に答え、中へと入っていった。