桐子
2024-02-12 14:21:58
4881文字
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魂の在る所⑤


鬼太郎は明け方になってようやく帰ってきた。疲れた顔をした鬼太郎は、申し訳なさそうに眉を下げている。
「手がかりなしです」
「お疲れさん。俺は今から銀行に行くが、ゆっくり休むんだぞ」
本当は銀行を休んで付き添ってやりたかったが、さすがに2日連続で休むわけにはいかない。今日は仕事を辞める話もしなくてはいけないのだ。バタバタと支度をし、鬼太郎の朝食を用意する。そっと襖の向こうをうかがったが、ゲゲ郎はいないようだ。畳の上には手つかずの食器が置いてある。
水木はため息をつき、食器を下げた。これは自分が食べればいい。
ゲゲ郎はひどく人間を敵視している。彼はきっと、彼の妻に出会う前の人間を憎んでいた頃のゲゲ郎なのだろう。敵意だけではなく怯えも感じられ、水木は胸を痛めた。だが、無理矢理昔のゲゲ郎の心に立ち入れば、もっと警戒される。今は時をおくことも必要だろう。
「じゃあ、行ってくる」
ゲゲ郎の分も朝食を用意してから、水木は家を出た。
少し前までは朝から汗をかくほど暑かったのに、朝晩は急に涼しくなってきた。隣の家の桜の木も、ほんのりと黄色くなり始めた葉が一枚、二枚混ざっている。ゲゲ郎は、この子は人間と同じように十月十日で生まれてくるだろうと言っていたが、生まれてくる頃には桜の花が咲いているかもしれない。花が爛漫に咲き誇る季節に生まれるなんて、いいじゃないか。
水木は、まだ少しも膨らんでいない腹を撫で、優しく語りかけた。
「お前は何も心配しなくていいからな。早く生まれてこい」
ぽこん、と腹の中で返事をされたような気がして、水木は微笑んだ。
銀行へついて早々に、昨日の突然の欠勤に対して詫びを入れる。上司はうんざりした顔で「お前が突然休むのはいつものことだろう、給料泥棒が」と毒づいた。ムッと怒りがこみ上げたが、休んだのは自分なので仕方がない。更に、「一身上の都合で退職したい」と申し出ると、大して残念がられもせず、「なんなら明日から来なくてもいいぞ」と言われた。哭倉村での一件以来、水木は周囲から煙たがられていた。疫病神か何かだと思われているのだろう。
「いや、さすがに仕事の引き継ぎがありますので……
「そうか。なら引き継ぎが終わったら早々に出て行ってくれ。事務には俺から言っておく」
上司は水木の顔も見ず、机の上の書類に向かっている。
確かに花形部署の営業から、総務部へ転落してきたとはいえ、真面目に働いてきたつもりだ。面倒な仕事を回されても、残業にも、文句を言ったことはない。それなのにこの態度である。
……今までありがとうございました」
ぐっと込み上げるものを飲み込んで、水木は頭を下げる。上司は「ああ」と生返事をしただけだった。



家へ帰ると、部屋の明かりが消えていた。鬼太郎はまた外へ出かけてしまったらしい。
「ただいま」
返事をする者もいないのに、つい習慣で声をかけてしまう。部屋に入ると、ちゃぶ台の上にメモ用紙が置かれていた。鬼太郎の字で「出かけてきます」と書かれている。ゲゲ郎はいるのか確認しようと隣の部屋の襖に手をかける。
「開けるな」
鋭い声が飛んできた。水木は手を止め、襖越しに話しかけた。
「朝飯は食ったのか?今から晩飯を用意するから一緒に食べよう」
「人間の施しなど受けん」
頑なな拒絶の言葉が返ってきた。
……分かった」
水木は冷蔵庫を開ける、米と味噌を取り出し、鍋に水を張り煮干しを放り込んで火にかける。湯が沸くまでの間に野菜を刻んで、煮干しを取り出し水の中に放り込む。買い物をしてこなかったから、卵でも焼いて、漬物を添えれば夕食ができあがる。
いつものように三人前。水木は躊躇したが、やはりゲゲ郎の分を盆に載せ、隣の部屋に声をかけた。
「いつも三人分作ってるから、作りすぎた。よかったら食べてくれ」
反応はない。水木は襖に手をかけた。
ゲゲ郎は部屋の隅にうずくまり、水木をじっと睨み付けていた。手足が泥で汚れている。気付かぬ間に外へ出ていたのだろう。
「言葉が通じんのか。人間と話すつもりはない」
……そうか」
水木は盆を畳の上に置いた。話したくないのなら、無理に話させる必要はない。
翌日も翌々日も、ゲゲ郎は水木が作った食事を食べようとしなかった。そのせいか、水木もあまり食べる気にならず、朝は抜いて夜だけ食べるようになった。鬼太郎には握り飯と味噌汁を作っておき、帰ってきた時に温め直して食べさせた。
「相当隠れるのが上手いのか、このあたりにはいないのか……
術者そのものは妖怪ではないので鬼太郎のレーダーには反応しない。そこで、術者が妖怪を操っていた点に注目し、最近消えた妖怪やおかしな素振りを見せる妖怪がいないか、探しているという。
「それより水木さん、ちゃんと食べてるんですか?」
「ん?ああ……食べてるさ」
とっさにそう答えたが、鬼太郎はどこか咎めるような目を向けている。
「水木さん一人の体じゃないんですよ」
「そうだな」
三人で食事をするのが当たり前だったから、一人だとどうも手を抜いてしまう。だが鬼太郎の言うとおり、腹の子の分も食べなくてはいけないのだ。
「それに……そろそろ足りないんじゃないですか?」
水木は小さく息をのんだ。
「な、何がだ」
「僕が気付いてないとでも思ってたんですか?」
……
水木は黙り込んだ。鬼太郎の言っていることは図星であった。足りないのは、食事だけではない。
「しかし、ゲゲ郎があんな状態だろう」
「僕がなんとかしますよ」
「駄目だ!」
つい大きな声が出てしまった。鬼太郎にそんなことさせられる訳がない。しかし、鬼太郎も譲らない。
「僕のせいで父さんがあんなことになってるんだから……だから僕が、水木さんも父さんも、赤ちゃんも守ります」
「お前……
ゲゲ郎によくにた丸い目が、涙をたたえて水木を見つめている。思い詰めた息子の表情に、水木は胸が詰まった。
「分かった。頼む」
「はい」
鬼太郎は台所へ行くと、水を入れたコップと包丁を持ってきた。そして自分の指先を傷つけた。小さな手から血が流れ出る。

「何をしておる」

水木と鬼太郎は声のした方を見た。いつの間にかゲゲ郎が、襖を開けて立っていた。
「ゲゲ郎……
「そうか、そうであったか。幽霊族の血を飲んで霊力を得ようというわけじゃな」
ゲゲ郎は口の端を歪めて笑った。
「おぞましいことを考えるものじゃ。さすがは低劣で醜悪な人間様のすることは違う」
「違います父さん、水木さんは」
「可哀想にのう、下がっておれ。やはりこの男はわしが始末する」
ゲゲ郎は水木の胸ぐらを掴みあげた。赤い目には怒りが満ちている。少し前までは、溢れんばかりの愛しさを、愛情を伝えてくれたはずの目には、今や冷ややかな憎悪しか宿っていない。
「違うんですよ父さん」
鬼太郎はゲゲ郎を押しのけ、守るように水木の前に立った。
「赤ちゃんのために必要なんです」
「なに……?」
ゲゲ郎は鬼太郎の言葉の意味を計りかねた様子で、眉をひそめた。
「赤ちゃんが生まれるには、水木さんじゃ霊力が足りないんです。だから霊力のこもった体液を摂取しないといけないんです」
不可解そうな視線が水木に向けられる。正確に言えば腹の中の赤ん坊に向けられているのだろう。
赤ん坊は幽霊族の血を引いている。その子を腹の中で育てるとなると、人間の水木では霊力が足りないのだ。だから赤ん坊に、幽霊族の体液を通して霊力を渡す必要がある。
「それならそうと早く言わんか」
ゲゲ郎はつまらなさそうにそう言った。
「じゃが……そうまでして産みたいのか」
そうまでして、というのは、幽霊族の体液を摂取してまでということだろう。――――水木のしていることは、龍賀一族がしていたことと同じだ。幽霊族を食ったのか、と聞かれて水木は言葉に詰まった。それは自覚があったからだ。幽霊族の血を自分の利益のために利用しているという点で、彼らと同じだ。
「産みたい」
我欲だろうと何だろうと、せっかく授かった命を捨てるつもりはない。ゲゲ郎はその決意をせせら笑った。
「その子を産めば自分も幽霊族の仲間になれるとでも思うておるのか。人間の男は孕んだりせんのだろう。そんな浅ましい真似をしてまで、わしらに媚びへつらうか。お主には矜持というものはないのじゃな」
――――ぎくりとした。ゲゲ郎の言葉はある意味で的を射ていた。水木が心の奥底でずっと考えていた思いを、この男は見抜いている。
「そんな……
震える声で鬼太郎が叫んだ。
「そんな言い方はないでしょう!」
……鬼太郎といったか。お主がそんな男のために血を流す必要はない」
ゲゲ郎は先ほどまでとうってかわって、優しい声で言った。
「赤子に罪はない。血を流すのはわしの役目じゃ……人間、わしの血を飲め」
心底嫌そうな顔をしていたが、ゲゲ郎はそう言って、水木の方を向いた。相変わらず冷たい目をしているが、少なくとも腹の子を見殺しにするつもりはないらしい。水木だって、鬼太郎に血を流させるのは心苦しかった。
「助かる。……鬼太郎、お前は疲れただろう、ゆっくり休みなさい」
隣の部屋で寝るよう促すと、鬼太郎は何か言いたげな顔で、しかし何も言わずに従った。
「父さん、その人は僕たちの大事な人なんです。絶対に傷つけないでくださいね」
そう念押ししてから、襖を閉めた。鬼太郎は本当に優しい子だ。水木の気持ちを察して、ゲゲ郎に釘を差したのだ。
「安心せい。わしは人間と違って嘘はつかん」
ゲゲ郎はそう言って、包丁を自分の腕に当てようとした。しかし水木はそれを制止した。
……鬼太郎の前では言いにくかったんだが、血では濃すぎるんだ」
「ではどうすればいい。お前の言う通りのやり方でくれてやる」
猜疑心に満ちた目で睨み付けてくる。水木はため息をついた。こんなこと本当は言いたくないし、言えば絶対に怒るだろう。
「記憶を失う前のお前からは、……口移しで、唾液をもらっていた」
……!!」
ぎょっとした顔をして、ゲゲ郎が水木を見た。引かれているとは思ったが嘘ではない。
「嘘じゃ」
「すまん、本当なんだ」
「わしが人間と……く、口吸いを……!?」
ゲゲ郎の顔が見る間に紅潮していく。水木は恐縮するしかなかった。覚えていないとはいえ、人間と口付けしていたなど許せるものではないだろう。やはり血をもらって水で薄めて飲んだ方がいいのかもしれない。
「う…………
ゲゲ郎は口をぱくぱくさせて絶句していたが、しばらくすると、彼は頭を振った。
「信じられぬ……
「すまん」
――――だがそれが真実じゃというなら、仕方がない。やるぞ」
ゲゲ郎は腹を決めた様子で、水木をじっと見つめた。
「いや、無理をしなくていい。血で十分だ」
「今更後に引けるか。さっさとしろ」
ゲゲ郎はそう吐き捨てると、水木の腕を掴んで引き寄せた。
「むぐ」
唇が触れ合った瞬間、水木は思わず身をすくませた。すぐに舌が割り込んできて、生温かな液体が流し込まれる。
「ん、ん……
拙い舌の動きに、ああ、自分の知るゲゲ郎はいないのだと改めて思い知らされる。胸が締め付けられるような痛みを覚えたが、水木は黙ってゲゲ郎の唾液を飲み下した。
「ふ……んぅ……
こくりと喉を鳴らしてから、ゆっくりと顔を離した。ゲゲ郎は上気した頬を隠すようにそっぽを向いていたが、やがて視線だけをこちらに向けた。
「これでいいのか?」
……ありがとう。助かった」
腹の中が熱い。赤ん坊が霊力を受け取っているのが分かる。最近元気がない様子だったので、心底ホッとした。
「ふん」
ゲゲ郎は不機嫌そうな表情のまま立ち上がり、鬼太郎が眠っている隣の部屋へ入っていく。
……おやすみ」
襖を閉めると、水木は深い溜息をついて、その場に座り込んだ。柔らかい唇の感触が、立ち上る淡い線香の香りが、ゲゲ郎を思い起こさせてたまらなかった。