桐子
2024-01-25 21:38:43
3418文字
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約束


あーん、とか細い泣き声が聞こえてきた。ゲゲ郎は慌てて電熱器を止め、赤ん坊のことろへ飛んでいく。
「よしよし花や、ととじゃぞ」
小さな赤ん坊は、父親に抱き上げられてもまだ泣いている。
「 おかしいのう。花や、ととじゃぞ? よーしよし……もー、何で泣くんじゃ?」
むずかる赤ん坊を抱きしめながら、ゲゲ郎は困惑するばかりだ。そうしている内にも泣き声はますます大きくなるばかりである。
「父さん、この泣き方はおむつが濡れてるんですよ」
「なに!?」
鬼太郎はゲゲ郎の手からさっと赤ん坊を奪い取ると、てきぱきとオムツを替えてやる。
「あ、ほんとじゃ。すまんのう鬼太郎」
赤ん坊はようやく泣き止んで、ご機嫌な様子だ。きゃっきゃと小さな手を嬉しそうに振り回している。
「父さん、そろそろミルクも飲ませないと。瓶は煮沸しましたか?」
「おっとそうじゃった」
鬼太郎はさっさとキッチンへ向かう。その背中を見送ってから、父親は大きな溜め息をついた。
……父親よりしっかりしておるのう、鬼太郎は……花や、情けない父ですまんな……
すやすや眠る赤ん坊に語りかけながら、ゲゲ郎はまた深い溜め息をつくのだった。


花を産んだあと、水木は人間の病院に入院した。交通事故にあったという言い訳がどこまで通じるかと思われたが、本当に事故にあったように体の中が滅茶苦茶だったそうだ。絶対安静とのことで、時々見舞いに行ってもほとんど眠っている。
花を産むことで苦労をかけたと、その穏やかな寝顔を見るたび、ゲゲ郎はいまだに泣いてしまう。命の危険はないし、ゆっくり体をいたわってくれればいいのだが、問題は赤ん坊だ。
花は可愛い。ゲゲ郎は目に入れても痛くなかった。しかし、赤ん坊がいるだけで家事は倍になる。おまけに水木から「カエルは絶対に駄目だ」ときつく念を押されているので、人間の赤ん坊の世話をすることが初めてのゲゲ郎は苦労していた。
哺乳瓶を片手に鬼太郎が戻ってくる。ゲゲ郎は慌てて立ち上がった。
「ミルクはわしが!」
「僕があげます」
鬼太郎はさらりと言った。ゲゲ郎はうー、と唸る。鬼太郎は食事の支度から洗濯掃除に赤ん坊の育児、そしてゲゲ郎が苦手な料理まで手際よくこなした。もともと器用で要領の良い息子ではあったが、赤ん坊を世話することでめきめきと家事の腕を上げている。
「ほら花ちゃん、ご飯だよ」
「あー」
鬼太郎は腕に抱いた赤ん坊にミルクを飲ませた。んくんく、と一生懸命なその姿は可愛いらしく、兄と父は頬を緩ませた。小さな生き物は可愛い、それが自分たちの家族ならなおのことだ。しかもこの子は人間で、幽霊族の二人と違い本当に非力なのだ。どうしたって庇護欲をそそられる。
ゲゲ郎が赤ん坊を覗きこむと、目がぱっちりと開いた。まん丸の茶色い瞳がゲゲ郎を見つめ返す。顔立ちは水木にそっくりだが、この目は水木よりも自分に似ている。
「もうおなかいっぱいかな?」
ミルクを全部飲んだ妹の背中をポンポンと叩き、げっぷをさせてやった鬼太郎は、子ども用の布団にそっと寝かせた。
「父さん」
「はい」
「ほっぺたをつつきすぎて泣かせたら駄目ですよ」
「うぐっ」
息子の指摘はもっともで、ゲゲ郎はうろたえた。
「だ、だって可愛いんじゃもん!」
「花ちゃんはこれから昼寝です」
鬼太郎は真面目な顔でゲゲ郎をたしなめる。これではどちらが親なのだか分からない。おむつを替えたりお風呂に入れたりミルクをあげたりするのはいつも鬼太郎に先取りされてしまう。ぐぬぬと唸る父を尻目に、鬼太郎は花に布をかける。赤ん坊はいつの間にかすやすや眠っていた。
「すまんのう……お主にばかり負担をかけて」
「だって、水木さんと約束したから」
ゲゲ郎が顔を上げると、鬼太郎は赤ん坊を見つめている。その口元はかすかに笑みを浮かべている。
「僕が水木さんの代わりにこの子を守るんだって」
……そうか」
ゲゲ郎はぽん、と息子の頭を撫でた。
「わしは果報者じゃ。こんなに可愛い娘と、こんなに頼りになる息子がおって」
鬼太郎は撫でられるままになっている。まだ甘えたいさかりだろうに、いつもこうして聞き分けが良く、人のために一生懸命で。
「鬼太郎、ありがとうな。水木がおらんでも、わしと花と三人でやっていこうな」
ゲゲ郎の言葉に、鬼太郎は笑顔で頷いた。


「人を死んだみたいに言うなよな」
水木は仏頂面だ。父と息子の感動の話を聞かせただけなのだが、自分のあつかいに不満があるらしい。
「花もそう思うよなあ?」
「ああー」
花は水木に抱っこされてご機嫌そうだ。母親に抱かれるのは嬉しいのだろう。
「あと一年は入院だってさ」
このところ少し体調の良い日が多くなってきたとはいえ、生死をさまよったのだ。まだそんなに水木と暮らせないなんて、とゲゲ郎は寂しかった。だが産まれたばかりの我が子と引き離された水木の方がもっとつらいはずだ。
「花、ごめんな。退院したら一緒にいっぱい遊ぼうな」
「あー」
水木の言葉に、花はにこーっと笑った。ゲゲ郎もつられて笑顔になる。
……退院するまでよろしくな」
「そんなことは気にせず、お主は早う体を治すのじゃ。鬼太郎もまたお主と暮らすのを楽しみにしておる」
「ゲゲ郎」
水木はゲゲ郎の名を呼んだ。真剣な声だ。
「考えてたんだ……花は、人間の世界で暮らした方がいいんじゃないかって」
……
ゲゲ郎だって、何も考えていなかったわけではない。今は幼く、ゲゲ郎たちの庇護のもとでいられるが、大きくなるにつれ妖怪の世界でつまはじきにされるだろう。だがあまりに妖怪の世界に馴染みすぎてしまえば、今度は人間の病院でうまくやっていけなくなる。
「お主が花を育てると?」
「ああ」
ゲゲ郎はしげしげと水木の顔を見た。まだ顔色は悪いが、決意を込めた目だ。子どものためなら何でもやる男だ。ゲゲ郎がなんと言おうともう決めているのだろう。
「そうじゃな……それが良いかもしれん」
ゲゲ郎の言葉に水木はほっとしたような笑顔を見せる。
……寂しくなるのう」
せっかく娘が産まれたというのに、離れ離れに暮らすことになるとは。鬼太郎だって花のことを可愛いがっている。さぞ寂しがるだろう。胸の内を吐露すると、水木はゲゲ郎に優しく言った。
「この子が嫁にいったら、またお前たちと暮らすよ」
約束だ。そう言って水木は笑った。



桜の花が膨らみ始めた。境内の桜はあと2、3日で見頃だろう。
ゲゲ郎の腕の中で、花はきゃっきゃっと笑った。少し言葉を喋るようになった花は、桜が気に入ったようだ。嬉しそうに小さな両手を伸ばしている。
「花や、きれいじゃなあ」
「とと、あれなぁに?」
「あれは桜というんじゃよ。花、お主の名前はあの花から付けたんじゃ」
名前をもたない幽霊族には名付けは荷が重いと水木に頼んだら、うんうんと三日ほどかけて考えてくれた。桜というのも捨てがたいが、それよりも季節を彩るたくさんの花、そのどれもがあてはまる名前だから「花」としたそうだ。
ーーー桜はお前との思い出の花だが、つらい思い出も多いからな。
きっと水木の脳裏には血のような赤い桜が舞っていたのだ。自分たちはあの時、相棒となったが、確かに血生臭い思い出でもある。
「さくりゃ!」
父達の感傷など露知らず、花はにこにこ笑って手をのばす。それでいい、とゲゲ郎は思った。この子にはこの世のあらゆる不幸や悲しみを知らず、幸せに生きてほしかった。
「そうじゃ。花や、あの木のようにすくすくと育つのじゃぞ。お主が元気に育つことが、たった一つの父の望みじゃ」
幽霊族と中途半端な幽霊族の間に奇跡のように産まれた人間の娘。命懸けで産もうとしてくれた水木も尊ければ、全てを捨てて母を守ったこの娘も尊く、愛おしい。
「離ればなれになっても、わしは花を愛しておるぞ」
「うん。とと、しゅきー」
花はゲゲ郎に抱きついた。その温もりの愛おしさに、ゲゲ郎も優しく花を抱きしめ返した。
「お主がわしの娘で良かった。花や、どうか幸せに」
この子のこれからの人生にたくさんの喜びがあることを信じよう。
「父との約束じゃ」
「とと、おやくそくー」

春の陽が穏やかに降り注ぐ中、幽霊族の父親と人間の娘は、約束をかわした。水木がようやく体を治し、花を引き取って暮らし始める、一日前のことだった。