桐子
2024-01-23 20:16:47
2432文字
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さよならできない③(父水)


自己嫌悪して、こんなことは絶対しないと決意しても、ゲゲ郎に唇を吸われてしまうとそれは呆気なく崩れてまた体を重ねてしまう。
「不毛だ……!!」
「先輩どうしたんすか!?」
隣の席の後輩がびくっと飛び上がる。よほど怖い顔をしていたのだろう。
……気にするな」
「は、はぁ」
後輩には悪いが、今は構っていられない。水木は目の前の仕事に意識を集中させた。すると隣の席の後輩が再び話しかけてきた。今度は小声である。
「あのう……先輩、今夜どうっすか?」
「ん?飲みに行くのか?俺は行かんぞ」
「いえいえ、ちょいとこんなものを手に入れまして」
ぴら、と後輩は二枚の紙切れを取り出した。
「何だそりゃ」
「映画のタダ券ですよ!いや、せっかく二枚あるんで、普段子育てでお疲れの水木先輩にどうかなって」
「行かん」
水木は即答した。そんなものを見ている時間があったら鬼太郎の勉強でも見てやる方がよほど健全で世のためになる。
「いいじゃないですかあ、行きましょうよぉ!」
後輩はしつこく食い下がってくる。だんだん面倒になってきた水木は、どうせ金もかからないし、家に帰ってまたゲゲ郎と顔を合わせるのが気が重いため、たまには映画でも見て気分転換するのもいいか、という気持ちになった。
「わかったわかった、行こう」
「やった!」
男二人で映画に行くことの何が嬉しいのか、後輩はガッツポーズを取った。
「じゃあ仕事終わったらすぐ行きましょうね!」
後輩はウキウキしながら自分の仕事に戻っていった。水木はやれやれとため息をつく。
(まあ、気分転換にはなるだろう)


そんな軽い気持ちでいた数時間前の自分を殴り飛ばしてやりたいと、水木は思った。
『駄目です、私には夫が……
『死んだ旦那に操でも立ててるのかい?』
『そんな、ああっ!』
水木は頭を抱えた。なぜこんなことになってしまったのか。自分が悪いのか?いや、後輩が悪いに決まっている。
連れてこられたのはいわゆるブルーフィルム、いわゆるポルノ映画だった。
(帰りたい)
水木はげんなりとしていた。隣に座った後輩は食い入るように画面を見ているが、水木はこういうものでは興奮できない。しかもよりにもよって、子持ちの未亡人が生活の面倒を見てもらうかわりに、夫の上司だった男と関係をもつという話だった。
「いいっすねえ……人妻の快楽堕ち……!」
後輩がうっとりした様子で呟いた。水木は聞かなかったふりをした。早く映画が終わって欲しい一心だった。
『ほら奥さん、子供を大学までやりたいだろう?あんたが我慢して身を任せてくれたら生活の面倒はみてあげるよ』

ーーー吐き気がした。

水木は口許をおさえ、席を立った。背後で「先輩我慢できないんすか?」と後輩の呑気な声が聞こえたが、返事をする余裕もなかった。
「げえっ!」
トイレに駆け込むと、水木は胃の中のものを全て吐き出した。胃液すら出てこないほど吐いてしまうと、ようやく落ち着いてきた。

(俺とあの男のどこが違うってんだ)

子どもの学費や生活費を工面してやるから、体を差し出させているーーー水木がゲゲ郎にしているのはそれと同じだ。そして幽霊族を搾取しているという点では、あれほど軽蔑した龍賀時貞とも同じである。
「最低だ……!!」
水木はふらふらとトイレを出ると、そのまま帰宅することにした。



「水木さん、どうしたんですか?」
帰ってきた水木を見るなり、鬼太郎が目を丸くした。よほどひどい顔をしているらしい。
「少し酔っただけだ……心配するな」
「本当に大丈夫なんですか?」
「ああ。それより飯は食ったのか?」
「はい、さっき父さんと」
そうか、と言いながら居間を見てもゲゲ郎はいない。
「おにぎりが上手に握れたから、母さんに供えに行くって」
「そうか」
また水木の胸がずきりと痛んだ。死んでなお妻をこよなく愛している男。水木のことを無邪気に相棒と呼びながら抱く男。
「水木さん、やっぱり顔色が悪いですよ」
「そうか……ああ、そうだな……
水木は鬼太郎の視線から逃れるように顔を逸らした。
「今日はもう寝るよ。お休み」
……おやすみなさい」
水木は寝室に入ると、布団を敷いてその中に潜り込んだ。もう何も考えたくなかった。
こんなことなら最初から体を繋げなければよかった。そうすればこんなにも惨めな気持ちにならずにすんだのに。
水木は涙を堪えるように、固く目をとじた。



「水木や」
暗闇の中にぼうっと白い影が浮かぶ。
「げげろ……
水木は縋るようにその名を呼んだ。ゲゲ郎の手が優しく水木の頭を撫でる。それだけで安心できた。
「具合が悪いと聞いたが、大丈夫か?」
「ああ」
鬼太郎から聞いたのだろう。水木は素直に頷いた。
「心配かけてすまないな。でももう平気だから……
「お主は頑張りすぎるところがあるからのう。わしは心配じゃ」
そう言いながらゲゲ郎は水木の額に手を伸ばした。ひやりとした手が心地よい。
「熱はないか」
「もういいから、鬼太郎のそばに行ってやれ」
ゲゲ郎の手を振り払うように、水木はそっと背を向けた。しかし男は部屋から出ていく素振りもなく、衣擦れの音がしたと思ったら背後から抱きしめられた。
「おい!」
「なんじゃ、共寝は初めてでもあるまいし」
ゲゲ郎はそう言って、ぽんぽんと水木の胸のあたりを優しく叩いた。子供をあやすような仕草だった。

「病気のときに一人なのは心細いじゃろう。わしがそばにいてやるからな」

水木は言葉を失う。こんな優しさを向けられる資格などないと思うのに、この男の優しさを拒絶できない。そんな自分に苛立つと同時に、泣きたくなるほど嬉しかった。
……俺に、やさしくしないでくれ……
水木は震える声でそう言った。ゲゲ郎は何も言わず、黙ってそばにいてくれた。泣いていることがばれないよう、水木は布団を深くかぶり、眠ったふりをした。