桐子
2024-01-21 00:45:45
3693文字
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花束を君に④(父水)


風にはたはたと、白いシャツがはためいている。水木のものと鬼太郎のものだ。
「シャツはこうやって、何回か揺らすんだ。そうすると皺になりにくい」
「はい」
鬼太郎は言われた通りにシャツをパタパタとさせる。その様子がかわいくて、水木は自然と口元をゆるめた。
「こうですか?」
「ああ」
シャツをきちんと整え、物干し竿にひっかける。まだ手付きがおぼつかないが、やり方さえ覚えていれば何とかなるだろう。
「それにしても、どうして急に洗濯物のやり方なんて教えてくれたんですか?」
「そりゃ、もうすぐこいつの世話でてんてこまいになるからな。鬼太郎にも少しは手伝ってもらわんと」
……本当に?」
水木はぎくりとした。感情のない瞳が、じっとこちらを見つめている。疑われている。鬼太郎は時折、勘の鋭いところを見せることがある。
もし自分がいなくなったらーーそう考えると、ゲゲ郎一人に鬼太郎と赤ん坊を任せるのはどうにも心配だった。だから鬼太郎にも家事を覚えさせようとしたのだが、薮蛇だったかもしれない。
「本当だよ。もうすぐ兄さんになるんだ、頼りにしてるからな」
水木はやや突き出した腹を撫でながら言った。ゲゲ郎の霊力を取り込み、子供は少しずつ大きくなっていた。さすがに中年太りで誤魔化すには限界があり、水木は今の仕事も辞めていた。
ーーーそれに、時折体が痺れ、力が入らなくなることがある。体が痛み熱が出ることもあった。二人にはひた隠しにしていたけれど、会社でも度々そうなるので、病気の療養のためと偽って退社した。
「そうですか」
鬼太郎は言った。
「それならいいですけど」
まだ疑ってはいるが、とりあえず納得したらしい。ほっと胸を撫で下ろすと同時に、また少し腹が痛くなった。
……うっ」
「水木さん?」
「ああ……何でもない。ちょっと立ちくらみがしただけだ」
水木は縁側に腰かけた。鬼太郎が心配そうな視線を向けてくる。水木は笑ってくしゃりと頭を撫でた。
「妊婦にはよくあるらしい。気にするな」
……はい」
「さて、次は料理の手伝いをしてもらうか」
冷蔵庫に何があるんだったか、と台所に向かう。鬼太郎は物言いたげな目を水木に向けたが、ため息をついて後に続いた。


「うまい!これはうまい」
ゲゲ郎は肉じゃがを食べながら感嘆の声を上げた。
「まだまだですよ」
鬼太郎はそっけないが、まんざらでもない顔をしている。水木も少し手伝ったが、おおむねは鬼太郎が作ったのだ。芋の皮をむくのもなかなか上手だったので、料理に関してもあまり心配ないだろう。
「次はゲゲ郎だな。たあっぷり仕込んでやる」
「うう……お手柔らかに頼むぞ……
一度ゲゲ郎にも料理に挑戦させたことがあったが、煮物に蛙の目玉を入れようとするので断固として台所には近づかせなかったのだ。
「父さんは力加減も覚えないといけませんね。まな板を二枚もダメにして」
「うう……
鬼太郎にそう言われて、ゲゲ郎はがっくりと肩を落とした。
「はは、頑張れよ。今のところ鬼太郎の方が先輩だ」
水木は笑って食事を再開した。
こうして三人で食卓を囲むことができるのも残りわずかだ。そう思うと、こうしていられる時間がとても愛しく、名残惜しく感じられた。
精一杯今を楽しもう。鬼太郎とゲゲ郎が自分に注いでくれる愛情をちゃんと受け取ろう。
三人で過ごす日々が少しでも長く続くよう、水木は心から祈り続けたのだった。


いよいよ水木の腹は大きくなり、臨月が近づいてきた。下が見えないので、少しの段差でも足を取られてしまいそうなのと、頻繁に便所に行くようになってしまったのが目下の悩みだった。
「ふう……
「これ水木や、そんな重い物を持ってはいかん」
米袋を持ち上げようとして、ゲゲ郎に止められた。彼は軽々と米袋を持ち上げ、米びつに移し変えてくれた。
「わしを呼べと言っておるじゃろう」
責めるような口調とは裏腹に、ゲゲ郎は水木の腹に手を添える。その優しさに胸が温かくなり、水木は思わず微笑んだ。
「ああ……悪いな」
「まったく」
ふん、と鼻を鳴らして、しかしゲゲ郎の手は優しく腹を撫でた。その手の上から自分の手を重ねると、じんわりとぬくもりが伝わってくる。
……お主、随分痩せたな」
水木はぎくりとして顔を上げた。感情のない目が探るようにこちらを見つめている。
「そうかもな。ま、子供が腹にいるとそうなるんだろ」
水木はとっさにそう言った。
痩せてきたことは自分が一番よく知っている。最近は寒いので厚着して誤魔化し、夜の方も口淫だけで済ませることで服を脱いだところを見られるのを避けていた。
「そうか……
ゲゲ郎はそれ以上何も言わなかった。水木は内心ほっとしていた。
(あと少し、あと少しだけ)
体調は日に日に悪くなる。ゲゲ郎たちの目を誤魔化すのももう限界だろう。いざとなれば家を出て一人で産むつもりだった。生まれた子供をきっとゲゲ郎たちは見つけてくれる。
別れは悲しいが、新しい命を託していけることは嬉しかった。
水木は顔を上げて目を閉じる。すぐにゲゲ郎が唇を重ねてきた。煙草を欲しいと思わなくなったのは、口寂しいと思ったらすぐにゲゲ郎が口付けをしてくれるからだ。
「んっ…………
ぬるりとした舌が差し込まれ、水木は鼻にかかった声を漏らした。ゆっくりと咥内を愛撫され、頭がぼうっとしてくる。じわりと霊力が体の中に流れこんでくるのを感じた。
……っ、ゲゲ郎……
唇が離れると、名残を惜しむように唾液が糸を引いた。ぼんやりとした頭のまま見上げれば、ゲゲ郎は物言いたげな瞳をしていた。鬼太郎と同じ目だ。その目に見つめられることに耐えきれず、水木はそっと目をそらした。


しばらく留守にする、とゲゲ郎が言い出したのはその日の夜のことだった。
「身重の水木を置いていくのは心配じゃが、どうしても行かねばならん」
どうも妖怪がらみの事件らしい。これからすぐに出掛けるのだという。随分急だ。
「わかった」
「父さん、水木さんには僕がついてますから」
「頼むぞ鬼太郎。何かあればすぐ砂かけ婆に来てもらうのじゃ」
「はい」
鬼太郎は力強く頷いた。頼もしい息子の姿に頬を緩めたゲゲ郎は、水木の腹をそっと撫でた。
「すまんな、すぐ戻る」
「ああ……こいつも一日や二日でどうこう、ってことはないと思うぜ」
水木は安心させるように言った。
「気をつけて行ってこいよ」
そう言いながら、これが最後に見るゲゲ郎の姿になるかもしれないな、とぼんやり思った。


尋常ではない痛みに襲われたのは、その日の明け方近くだった。
「ぐっ、あっ、あ゛……!!」
体の奥から何かが出てこようとしている。骨盤が開き、内臓がねじ切れそうだ。額には脂汗が浮かび、歯を食いしばっていないと舌を嚙みちぎりそうだった。
「水木さん?」
異変に気づいたのだろう。隣の部屋で寝ていた鬼太郎がこちらに近づいてくる気配がする。だが、痛みに耐えるだけで精一杯で返事もできない。やがてぬるりとしたものが股を伝ったのを感じ、破水したのだと分かった。
(きた……!!)
……水木さん!!」
鬼太郎は隣の部屋の襖を勢いよく開けた。そこには痛みに悶えている水木の姿があった。
「鬼太郎、……あ、ぐっ……う、まれ……!」
鬼太郎は目を丸くし、駆け寄ってきた。そして水木の顔を見てぎょっとした。
「水木さん、しっかりしてください!今、砂かけ婆を呼びますから!」
水木は歯を食いしばって頷く。この子だけは無事に取り上げてもらわなければ。そしてできるなら鬼太郎に、自分の死に様を見せたくない。人の死など見るのはもっと大きくなってからでいい。
「お前は……あっち、へ、うぐっ!……あっちでまってろ……
「そんな、だって!」
鬼太郎はいつものクールな様子をかなぐり捨てて取り乱していた。年相応のその顔を見て、鬼太郎もまだまだ子供だな、とおかしくなった。そしてそんな子供を遺していこうとしていることに胸が痛んだ。
「鬼太郎……すまん、な……ゲホ、うっッ!」
せり上がってくる感覚に咳き込むと、喉から血が吐き出された。いよいよまずい兆候だ。鬼太郎は水木の手を強く握った。
「しっかりしてください!すぐに砂かけ婆が来ます!!」
「ああ……
返事も途切れ途切れにしかできなかった。意識が朦朧としてくる。あまりの痛みで気絶し、また痛みで目を覚ます。それを繰り返して段々と視界が狭まってきた。
「死相が出ておる……どうしてこうなるまで放っておいたんじゃ」
「おか、おかしいと思ったんだ……でも、こんなものだって、水木さんが笑って……
夢現にそんなやりとりが聞こえてきて、胸が痛んだ。ああ、鬼太郎を責めないでくれ。全てを隠していたのは水木なのだから。
鬼太郎は泣いていた。声は抑えていたが、嗚咽が漏れ聞こえる。
(ごめんな)
そう心の中で謝りながら、水木は再びゆっくりと意識を手放した。


「水木や」
地を這うような低い声が、水木を呼んだ。