桐子
2024-01-17 01:11:01
1813文字
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彼岸花異聞①(父水)


熱く甘く暗い闇の中で、男は幸福と絶望を同時に味わっていた。
「ゲゲ郎……好きだ……
水木は愛しげに目を細め、微笑みを浮かべてこちらを見上げている。
それはかつて自分が手に入れーーーそして、自ら壊し、永遠に失われてしまったものだった。
……、っ……!」
泣く資格などないと分かっていても涙が止まらない。男は水木の首筋に顔を埋め、声を殺して泣いた。
こんな風にまた笑いかけてもらえる日がくるなんて、思ってもみなかったのだ。最後に会ったとき、水木は怒り、憎しみに満ちた目を向けてきた。

『お前の声なんか聞きたくない!!二度と口をきくな!』

「何だよ、泣いてるのか?」
水木の手が頭を撫でる。そして、少し不安そうな声で聞いてきた。
……もしかして、後悔してるのか」
まさかそんなことを言われるとは思わなくて、慌てて首を横にふった。後悔しているとすれば、それは水木の方だろう。得体の知れない男に監禁され、無理矢理身体を開かされたのだから。
だが水木は、ゲゲ郎の顔を見てほっとしたように笑った。
「愛してる……なんて大仰だが、俺はお前と会えてよかったよ」
また涙が溢れてきた。それはこちらの台詞だ。水木と出会わなければ、こんな幸せな時間は得られなかった。
もう二度と離さないように、強く抱き締める。
(ずっとそばにいてくれ)
心の中でそう呼びかけ、ゲゲ郎は水木に口付けた。




目を覚ますと、しとしとと雨が降っていた。
少年は体を小さく丸め、できるだけ手足を身体に引き寄せた。腹が減ったと思ったが、今出ていけばまたあの《こわいの》に会うかもしれない。空腹には慣れているし、もう少し我慢しようと自分に言い聞かせた。
ーーーカラン、コロン。
雨の中をゆっくり歩いてくる足音がした。少年ははっと顔を上げた。
「坊、いるか?」
「ここじゃ!」
少年は木の穴から飛び出すと、人影にとびついた。下駄の主は着物を着た白髪の老人だった。
「おとう、大丈夫だったか」
「おう。わしは平気じゃ。坊は?」
「なんともない」
そりゃよかった、と老人は頭を撫でてくれた。
おとう、と呼んでいるが老人は少年の本当の父親ではない。彼はずっと少年のことを育ててくれている人なのだ。
「《こわいの》はもうおらん。ほら、蛙でも捕まえよう。坊は目玉が好きじゃろう」
「うん」
老人は少年を抱き上げた。ひやりとした体温は自分と同じで安心する。少年は老人の首にギュッとしがみついた。
老人はさまざまなことを教えてくれた。この世界には人間と呼ばれる種族が幅を利かせていること。自分たちは人間とは違う、幽霊族の生き残りであること。《こわいの》は裏鬼道と呼ばれる術士の成れの果てであること。
「幽霊族はもうわしらだけになってしまったが……坊がいてくれるから寂しくないのう」
そう言って頭を撫でてくれる手が、少年は大好きだった。ずっと一緒にいたいと願っていた。
「わしは人間は嫌いじゃ。あやつらはわしに石を投げてきた」
少年は忌々しそうに呟いた。そのときのことを思い出すと腸が煮えくり返る思いだった。髪で絞め殺してやればよかった。老人が止めなければそうしていただろう。
「大丈夫じゃ。坊のことはわしが必ず守ってやるからの」
「わしもおとうを守る!」
少年は頰を膨らませて言った。
しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。たくさんの《こわいの》がやって来て、少年と老人を連れ去ろうとした。
「おとう、いやじゃ!」
老人は少年を木のうろに隠した。残された力でできる限りの結界をはり、人間たちには見つからないようにしてくれたのだ。
「坊はここで待つのじゃ」
……いやじゃ!!わしもおとうと一緒に行く!!」
これが今生の別れだと少年には分かっていた。きっと老人は命を懸けて自分を守るつもりだ。少年が必死に言い募ると、老人は困ったように笑った。
「この組み紐は祖先の霊毛じゃ。わしの分まで、きっとお主を守ってくれる」
「いやじゃ!!おとう!!」
結界は内側から叩いてもびくともしない。少年はぼろぼろと涙を流しながら叫んだ。
「生きろ、坊」
老人の気配が遠ざかっていく。
少年は唇を噛み締めて泣いた。声を出せば《こわいの》に気付かれる。老人の犠牲を無駄にはできなかった。無力だった。惨めだった。大好きな人を守ることができない自分が憎かった。

そうして少年は一人ぼっちになった。