東京から電車を乗り継いで数時間。この休みをもぎ取るために毎日遅くまで残業していた水木は疲弊しきって、電車に乗っている間ずっと寝ていた。
「水木、着いたぞ」
「んー……」
肩をゆすられ、目を覚ます。目的の駅に着いたらしい。寝惚け眼でホームに降り立つと冷たい空気が肺に入ってきた。頭がすっきりしてくる。
「よく寝ておったな」
「すまん。昨日も遅くて」
せっかくの旅行なのに、退屈させてしまっただろうか。
「なんの。寝顔も可愛らしかったぞ」
「おい……」
ゲゲ郎はにこにこ嬉しそうだ。本気でそう思っているのだろう。四十路も近い男相手に可愛いはないだろうに。
「こっちじゃ」
改札を抜けると、ぽつぽつとまばらに民家があるだけの田舎町だった。田んぼと畑に挟まれた道を、ゲゲ郎の案内に従って歩いていく。赤や黄色に染まった葉で山は紅葉し、目を楽しませてくれる。東京よりもずっと空気が冷たく、冬の訪れを感じさせた。だか、凛と張りつめた空気は心地よい。
「少し歩くぞ。宿はずっと山奥にあるのでな」
「おう」
体力はある方だし、山道とはいえ傾斜はゆるやかなのでそれほどきつくはない。むしろ、のんびりと美しい景色を見ながら歩くのは気持ちがよかった。普段は家と会社の往復で終わってしまう水木にはとても新鮮だった。
小一時間ほど歩いた頃だろうか。あたりにきりがたちこめてきた。
「そろそろじゃな」
ゲゲ郎の言葉通り、しばらく行くと立派な門構えが見えてきた。黒々とした太い木の門は威圧感がある。
「ここが?」
「ああ」
ゲゲ郎は慣れた調子で門をくぐる。さっきまで霧がたちこめていたのに、門をくぐった途端に青空が見えた。
門の中には紅白の花が咲き乱れる立派な庭があった。放し飼いになった鶏が、地面をつついている。裏手からは馬の鳴き声まで聞こえてきた。
その中に建つ屋敷は、歴史を感じさせるどっしりとした和風の屋敷だった。高級旅館というよりは、豪農の屋敷という雰囲気だ。
「立派な屋敷だな」
「そうじゃな」
ゲゲ郎は引戸を開けた。玄関には誰もいない。宿の人間、いや妖怪が出迎えてくれるものと思っていたが。
ゲゲ郎は当たり前のように下駄を脱ぎ、屋敷の中へ入っていく。
「おい、勝手に入っていいのか」
「ここはそういうものなのじゃ」
そういうものと言われても。しかしゲゲ郎は既に廊下を進んでいる。躊躇いながらも、水木も同じように靴を脱いで上がりこむ。入ってすぐのところの襖を開くと、中は囲炉裏のあるこじんまりした広間だった。
座布団が二つ、囲炉裏を挟んで向かい合わせに敷いてある。囲炉裏には鉄瓶がかけられ、しゅんしゅんと湯が沸いているようだった。ついさっきまで人がいたかのような雰囲気だ。
「おお、ありがたい」
ゲゲ郎は盆の上に用意されていた急須に、鉄瓶の湯を注いでいる。茶葉と湯呑みが二つ。お茶請けらしいまんじゅうまである。
「なぁ、誰かがいたんじゃないのか」
水木は辺りを見まわしたが、誰もいない。ではあれは、と視線で問うと、ゲゲ郎は茶をいれながら笑った。
「なに、気にするでない。ここは迷い家の宿じゃ」
「まよいが……」
「そうじゃ。訪れたものに冨貴を授ける幻の家……というのが人間の認識らしいが、妖怪にとっては人気の隠れ宿じゃ」
水木はぐるりと部屋を見回した。広々とした屋敷は手入れが行き届いており、几帳面に磨かれた廊下や欄間が美しい。庭に面した障子をあけると、立派な枝振りの紅葉が見える。
「襖を開けると次の間に必要なものが用意される便利な宿でな。布団が敷かれ、料理もできたてが並ぶ。もちろん一番の目当てはこれじゃが」
ゲゲ郎は立ち上がり、襖を開けた。
「おお……」
思わず声が出る。さっきは廊下だったはずなのに、そこには露天風呂があった。湯気がたちこめ、向こうには紅葉した山の稜線が連なっている。
「最高じゃねえか」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
向こう百年は予約でいっぱいだというのも納得だ。もぎ取った休暇が3日しかないのが悔やまれるところだった。
「はーーー、極楽だなぁ」
「うむ」
つるりとした岩肌に背を預け、少し熱めの湯につかる。空気はひやりとしているのでちょうどよい。湯は少しとろみをおびていて、浸かると体が溶けてしまいそうなほど気持ちがいい。日頃の労働で溜まった疲れが吹き飛んでしまう。
ゲゲ郎は水木以上に気持ちよさそうで、目を細めて湯に浸かっている。手足の長いゲゲ郎は、常々家の風呂が狭いと文句を言っているので、広い湯に浸かれることが嬉しいのだろう。
それに景色も素晴らしい。目隠しの竹林の向こうには紅葉した山が並び、夕暮れ近い黄昏の光を受けて稜線が金色に輝いている。
「綺麗だな」
「うむ。この眺めは本当に素晴らしい。お主にも気に入ってもらえてよかった」
しばらく景色を眺めながらのんびりしていると、ゲゲ郎に声をかけられた。
「水木や」
「なんだよ」
「何をそのように離れておる」
ゲゲ郎はこちらに来いとばかりに手招きをしている。水木はしかめっ面をした。
「こんなに広いんだ。ゆっくりつからせてくれ」
「じゃが、せっかくの新婚旅行じゃぞ」
「俺はそんなつもりないからな。これは慰安旅行だ」
そう言って湯をぴしゃりとかける。頭の上からまともにそれをかぶったゲゲ郎は、恨めしそうに長い前髪の間から水木を見た。
「……照れるにしても、もっと可愛げのある照れ方をすればよいものを」
「可愛げがなくて悪かったな」
ふん、とそっぽを向くと、ゲゲ郎がざぶざぶとこちらに近寄ってきた。湯のせいでほんのり上気した肌が色っぽい。水木は慌てて立ち上がった。
「俺はもう上がる」
「これ」
すかさずゲゲ郎は水木の腕を掴み、立ち上がるのを邪魔する。水木も応戦するが、いかんせん相手の方が素早いし力が強いので振り払えない。
「離せ、俺はもう出る」
「まあまあ」
宥めながら腕を引かれ、結局ゲゲ郎の膝の上に向かい合って座らされた。いつもはひやりとした男の肌も今は水木と同じで熱いくらいだ。
「のぼせるぞ」
「わしはとっくに水木にのぼせておる」
ゲゲ郎は水木の首筋をぺろりと舐めた。思わず身を引くが、腰を抱かれているので逃げられない。
「恥ずかしいやつ……」
「ほら、早う口を開け」
赤い目がじっとりと水木を見つめる。水木は目を伏せて、諦めたように口を開けた。すかさずゲゲ郎の舌がぬるりと滑り込んでくる。
「ん……ぅ……」
水木の弱いところを知り尽くしている舌は、的確に水木の感じるところを責め立てる。思わず舌を奥に引っ込めると、ゲゲ郎はそれを許さないとばかりに追ってきて、逃げ惑う舌を絡めとられた。
「はぁ……んむ……」
くちゅっ、ちゅっ♡と濡れた音を立てながら深く口付けを交わす。口の端から飲み込めなかった唾液がこぼれるのを感じたが、拭う余裕などない。長い接吻に頭がくらくらする頃になると、ようやく満足したのか唇が離れていった。
「は……っ」
長いキスに息が上がってしまった水木は、ゲゲ郎にくたりと体を預けた。体が熱くてたまらない。
「水木」
ゲゲ郎はするりと尻の方に手を伸ばしてきた。このままここで、ということなのだろう。
誰に気兼ねする必要もない。ここには誰もいないし、仕事があるわけでも家事をしなければならないわけでもない。流されたってかまわない。
しかし、水木はそっとゲゲ郎の胸を押し返した。
「……のぼせちまう」
そう言うと、ゲゲ郎はすんなり離れてくれた。
「それもそうじゃの」
穏やかに笑う姿は、先ほどまでの激しい口付けの余韻を微塵も感じさせない。だが、その目は情欲に濡れており、まだ満足していないことを語っていた。
「部屋に戻ろう」
その目から逃げるように、水木はざばりと湯から上がった。
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