桐子
2024-01-07 14:16:54
1762文字
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完全なる飼育⑭(父水)完


からん、ころんと鬼太郎の下駄の音が響く。二人とも無言で歩いた。お互いに、昔のことを思い出していた。かつてこうして歩いたことが何度も
あった。買い物へ出かけたり、墓参りに行ったり。もっと鬼太郎が小さい頃はおんぶすることが多かったが、自分の足で歩けるようになってからは手を繋いで歩いていた。その隣には必ずと言っていいほどゲゲ郎もいた。
水木の幸せな思い出のほとんどに、鬼太郎とゲゲ郎の姿がある。記憶の中で二人はいつも笑っていた。
遠くに川が見えてくる。暗い水面にはいくつか船が浮かんでいて、向こう岸へゆっくり進んでいく。
やがて、水木は足を止めた。目の前には大きな川が流れている。
「ここを渡れば向こうへ行けます」
鬼太郎は静かにそう言った。
「本当にいいんですね?」
「ああ」
水木は頷いた。耳を澄ますと、向こうから声が聞こえてきた。父親と母親の声、ともに戦った友たちの声。早くこちらへ来い、と呼ばれている。あの声を無視することはできない。みな、自分を待ってくれているのだ。
水木は一歩踏み出す。鬼太郎は黙って水木の背中を見守った。渡し守は、水木を向こうへ運ぼうと船を寄せてくれている。
その時だった。

カラン、コロン。

背後から聞こえた音にハッとして、水木は振り返る。そこには鬼太郎が立っているだけで、他には誰もいない。
「どうしたんですか」
「いや……
気のせいなのだろう。そう思って水木は前を向く。だが、また聞こえる。カラン、コロン。誰かが下駄を履いて歩いているような足音だった。
水木は再び後ろを振り返る。しかし、やはりそこにいるのは鬼太郎だけだ。
「まだ未練があるようですな」
渡し守はそう言うと、船縁に座って煙管を吹き始めた。
「俺は……
「水木さん」
鬼太郎は、躊躇する水木を咎めるでもなく、優しい声で言った。
「僕は水木さんの味方です。あなたがどんな選択をしても、それを尊重します」
そう言って微笑む鬼太郎の顔は、ゲゲ郎にそっくりだった。水木の目から涙が溢れる。
「俺は……、あの家で閉じ込められて…………幸せ、だったんだ……
悪夢を見た水木を優しく抱きしめてくれる腕。ともに食事をして、酒を飲んで、抱かれて、髪を撫でられて。寂しい心が、孤独が埋められていくのを感じていた。記憶を何度なくしてもそう思えるのだから、自分にとってゲゲ郎は運命なのだというしかない。
「あいつを置いていけない……
自分勝手な男だ。やはり人間とは違う。自分が寂しいからといって、約束を反故にして勝手に不老不死にするような男だ。裏切られたという思いは今でもある。けれど、それを上回るほどの愛しさが胸を満たしている。口をききたくない、という水木の言葉を律儀に守り続けるあの男を、どうして見捨てられるだろう。
「でも……でもなぁ! みんなが俺を呼ぶんだ。あいつらが呼んでるんだ!」
「それは幻聴ですよ」
「そんなはずはない!俺だけ幸せになるなんて、許してくれるはずがない」
「水木さん、それは違います」
鬼太郎は首を横に振り、水木に抱きついた。
「僕もみんなも、水木さんが幸せになることを望んでいます」
「鬼太郎……
「さあ、行ってください」
鬼太郎は水木を離すと、そっと彼の背中を押した。
……ありがとう、鬼太郎」
水木は礼を言うと、ゆっくりと元来た道を引き返した。


家へ帰ってきた水木は、地下へ続く階段の前で立ち止まった。そして、ゆっくりと降りていく。
「ただいま」
返事はない。水木は気にせず、座敷牢の中に入った。布団の上に座って耳をすませる。カラン、コロンという下駄の音が聞こえないかと期待したが、彼岸花が風にそよぐささやかな音しか聞こえてこなかった。
それでも、別に落胆したりはしなかった。ここでゲゲ郎のことを待つと決めたのだから、焦る必要はない。
顔を見たら何と言おう。もう口をきいていいぞと言えば、ゲゲ郎は喜ぶだろうか、あるいは謝るかもしれない。どちらでもいい。久しぶりにあの艶のある低い声で「水木」と名前を呼ばれたかった。
幸いなことに、ゲゲ郎を待つための時間はありあまるほどにあるのだから。その時が来るまで、水木はいつまでも待つつもりだった。

カラン、コロン。
遠くで下駄の音が響いた気がした。