桐子
2024-01-04 01:12:08
2983文字
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完全なる飼育⑨(父水)


「暑いなぁ」
うちわで仰いでも、ぬるい風しかこない。縁側に腰掛け、たらいに水を張って足をつけても気休めにしかならなかった。隣のゲゲ郎は涼しい顔をしてうちわを仰ぎ、こちらに風を送ってくれてはいるが、焼け石に水だ。
「クリームソーダ……アイスキャンデー……ビール……
残念ながらどれもここにはない。キンキンに冷えたビールに枝豆が恋しくてたまらない。
もう一度水風呂にでも入るか、と考えていると、ふいにゲゲ郎が立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
声をかけたが、彼はすたすたとどこかへ行ってしまった。彼の奇行は今に始まったことではないので放っておいたが、しばらくすると浴衣を持ってきた。
「着替えろってことか?」
ゲゲ郎は頷いた。
「まだ寝る時間じゃないだろうに」
促されるまま着替えると、今度は下駄を持ってきた。ゲゲ郎のと色違いの黒い鼻緒のものだ。どこかへ行こうと言うのだろう。
「どこか行きたいところでもあるのか?」
また頷く。彼が何をしたいのかわからないが、することもないし付き合うことにした。



あたりには相変わらず彼岸花が咲き乱れている。人気もなく静かだ。ゲゲ郎は無言で先をずんずんと歩いていく。
「おい、どこまでいくんだ」
返事はない。仕方なくついて行くと、遠くの方にぼうっと明かりが浮かび上がった。一つ、二つ。それらは次第に数を増やしていった。さざ波のようなざわめき。太鼓の音と笛の音が聞こえてくる。
「祭りか」
子供の頃に近所の神社の祭りに行って以来だ。無数の屋台が所狭しと並んでいる。ごく普通の夏祭りに見えるが、どこかおかしい。
それは、歩いている人間のせいだった。お面をつけている者が多いが、手や足の長さが異様だったり、毛むくじゃらだったり、狸が着物を着ているようにしか見えなかったり。どこか常人とはかけ離れた異様な風体の者たちが目立つ。
「ここは……何だ」
思わず呟いたが、ゲゲ郎は何も答えなかった。
ゲゲ郎は人間めいた生き物たちの間を縫うようにして歩いた。りんご飴や綿菓子なども売っているが、カエルの目玉やヤモリの黒焼き、棺桶や卒塔婆などを売っている屋台もあった。
「おい、大丈夫なのか?」
ここは本当に祭りなのだろうか。心配する水木とは反対に、ゲゲ郎は落ち着いた様子で歩いている。時々キョロキョロしているのはなにか探しているのだろう。
そのうちにゲゲ郎は急に足を止めた。

『秘蔵の日本酒あります 烏天狗』

屋台の前ののぼりに書かれてある文字を見ていると、ゲゲ郎はなんのためらいもなくその屋台に近寄っていった。
「いらっしゃい……おや、幽霊族の」
天狗の面を被った男がゲゲ郎を見て愛想よく声をかけた。水木はぎょっとした。お面かと思ったのに、天狗が口を動かしてしゃべっているように見えたのだ。いや、きっと精巧なお面なのだ。そうに決まっている。
「はい、どうぞ」
枡に入った酒を手渡され、ゲゲ郎は美味しそうに飲んでいる。水木も渡された枡に口をつける。すると、芳醇な香りが鼻を抜けた。きりっと冷えているのと、口当たりがよいせいでするすると飲めてしまう。あっという間に飲み干してしまった水木は思わず「うまいな」と呟いていた。
「どうです、もう一杯」
促されて反射的に枡を差し出してしまったが、ゲゲ郎も同じようにもう一杯もらっていた。冷たい酒は暑さにほてった体に染み渡るようにうまい。きっとこれを飲ませたくて、祭りに来たのだろう。
「ありがとうな」
そう言うと、ゲゲ郎は嬉しそうに頷いた。


ほろ酔いでいい気分のまま祭りを眺めていると、ふと子供の声が聞こえて水木は足を止めた。
「どこ……ままぁ……
五、六歳だろうか。小学校低学年くらいの子供が、不安そうな顔をして一人で歩いている。
「どうした、坊主」
子供の前にしゃがんでそう尋ねると、子供は辺りを見回して「おじさん、誰?」と首を傾げた。
「迷子か、お母さんと一緒に来たのか?」
……ママが、知らない人とは話しちゃいけないって」
「なんだそりゃ」
よほど水木が悪人面に見えるのか、子供は警戒した顔をしている。
「俺は悪いおじさんじゃないぞ、なぁ、ゲゲ郎……
しかし、ゲゲ郎は何の返事もしない。聞こえなかったのかと思って振り返ると、ゲゲ郎の姿はなかった。
……もしかして、おじさんも迷子?」
……そうらしいな」
なあんだ、と言って子供は笑った。
「じゃあとりあえず、坊主のお母さんを一緒に探してやるよ」
「おじさんはいいの?」
「大人だからなんとかなる」
「大人でも迷子になるんだね」
そう言われてはぐうの音も出ない。いや、向こうが勝手にこっちを見失ったのだから、むしろ迷子なのはゲゲ郎の方じゃないか。
「ほら、行くぞ」
子供に手を差し出すと、嬉しそうに手を握ってきた。迷子の親を探すついでに、ゲゲ郎も探せばいいだろう。背が高いのですぐに見つかるはずだ。
水木は手を繫いだままゆっくりと歩き出した。子供の歩くスピードに合わせながら屋台を冷やかしていくが、彼の母親らしき人物はなかなか見つからない。子供が不安げに見上げてくるので笑いかけると、ほっとしたように笑う顔が可愛らしかった。
「ぼくね、ずっと入院してたんだ。だからお祭りに来るのは初めて」
「へぇ、そうなのか」
確かに着ている服もパジャマのような上下だ。この祭りには、病院を抜け出して来ているのかもしれない。
「ママ、どこにいるのかな……
寂しげな顔でうつむいた子供の頭を、水木はそっとなでた。
「大丈夫だって。お母さんも坊主のことを探してるさ」
再び歩き出すと、小さな手がキュッと力強く水木の手を握った。その小ささに思わず微笑む。すると子供もつられたように笑った。
ふと、その小さな手を懐かしいと思った。水木には子はいない。そんなはずがないのに。

ーーー手を繋いでないと迷子になるぞ、"   "。

「あっ、ママの声だ!」
屋台がぽつぽつと途切れ始めたあたりにやって来ると、子供がぱっと顔を輝かせた。水木の手をふりほどいて、屋台がある賑やかな方と反対の、人気のない所に向かって走っていく。
「おい、坊主!」
小さな背中を追って走っていくが、水木には子供の母親らしき声など聞こえなかった。だが、子供は確信をもった様子で、迷いなく走っていく。
しばらくすると、川の岸辺にたどり着いた。渡し守らしき男が船の中から手招きしている。
「おお、坊主。お母さんが呼んでるぞ。早く帰んなさい」
「うん!」
怪しげな小舟にもかかわらず、子供はいそいそと乗り込んだ。そして水木の方を振り向いて、にこっと笑う。
「おじさん、ありがとう。ママが呼んでるからかえらないと」
「坊主は運がいい。ここは境の港だ。ここにいたから声が届いたんだ」
そう言って船を漕ぎ出そうとした渡し守は、水木のことを見つめた。
「あんたも送ってやろうか?」

その言葉でようやく、これが絶好の機会だと気が付いた。

今ならばゲゲ郎から逃げられる。自由になれるのだ。なぜかは分からないが彼はこの川を嫌っているらしいから、渡ってしまえば追いかけては来ないだろう。
「おじさん、一緒に行こうよ」

「俺は……

水木はしばらくためらい、そして口を開いた。