走れども走れども、そこには赤い花々が咲き乱れている。あの男は死んだだろうか、いや、死んだに違いない。そうでなければ水木は捕まってしまう。
「誰かいないのか!」
水木の叫びは暗い空に飲み込まれてゆく。足の裏は破れて血が出ていた。それでもあの男に捕まるよりはマシだと思い、水木は走り続けた。
やがて足の裏の痛みも感じなくなり、全身汗まみれでふらふらになった頃、遠くの方で小さな灯りを見つけた。かすかな灯りだったが、今の水木にとっては希望の光そのものだった。
「おい!誰かいるのか!」
叫びながら灯りの方へ向かうと、水の音がはっきりと聞こえた。川が近いのか。灯りは川を行く渡し舟の提灯だった。
水木は力一杯叫んだ。
「助けてくれ!」
すると、船頭がこちらをちらりと見て、櫂を漕ぐ手を止めた。船頭の顔は暗くてよく見えず、傘の下にはただ闇が広がっている。
なにか不穏な気配を感じて、水木は後ずさった。船頭は何も言わず、じっとこちらを見ているようだった。
ーーー駄目だ。近づくな。
水木の本能が警鐘を鳴らす。あれは危険だ。だが、逃げなければあの男に捕まってしまう。
船頭は何も言わず、じっとこちらを見ている。水木はじりじりと後ずさりした。川の音がうるさいほどに耳に響く。汗がこめかみを伝った時、背後からカランと下駄の音が響いた。
恐怖で体が強ばり動けない。ゆっくりと後ろを振り返ると、そこにはあの男が立っていた。彼は頭から血を流しながら、無表情に水木を見ていた。
ーーー殺される。
そう思っても、体が全く動かなかった。男が近づいてくる。カランコロンと下駄の音が耳につく。幽鬼のような顔。
「ひっ」
水木は思わず息を呑んだ。逃げようと身を翻した途端、強く腕を掴まれた。骨が折れるかと思うほど強い力だった。そのまま引きずられるようにして草むらに押し倒される。
「止めろ!」
必死で叫ぶが、誰も助けてくれない。男は水木の上に覆い被さった。影になった顔の中で、ぎょろりとした目玉が水木を捉えている。
ぽた ぽたっ
雨が降ってきたのだと思った。頬に、首筋に、生ぬるい雨粒がぽたぽたと落ちてくる。
「……っ、……」
男は泣いていた。大きな目から次々と涙が溢れ、水木の頬を濡らす。
大の男がこんな風に涙を流して泣く姿を見るのは初めてだった。それも、こんなに辛そうな、悲しそうな顔をして。
恐怖がすうっと消え、代わりに胸を抉られるような苦しさが込み上げてきた。なぜこんな気持ちになるのかは分からなかったが、水木は思わず男の頬に手を伸ばしていた。
「泣くな……」
男は驚いたように動きを止めた。そして何か言いたげに唇を開いたが、あきらめたように首を振ってまたぽたぽたと涙をこぼしながら、水木に抱きついた。すがりついた、というのが正しいのかもしれない。肩口がじわりと濡れていくせいで、男がまだ涙を流して泣いていることが分かってしまう。
男の体はひんやりとしていて、体温を感じさせない。水木は恐る恐る男の背中に手を回し、ぽんぽんと叩いた。彼もまた水木を抱き締め返す。ただ、大切なものを扱うようにそっと。
どのくらいそうしていただろう。
やがて男が体を離した時には、すっかり涙は引っ込んでいた。泣いたせいか目尻が少し赤い。男は黙って水木の手を取って歩き始めようとしたが、足を庇うような動きをしていることに気づき、おもむろにしゃがんで背中を見せた。
「おぶされってことか」
恥ずかしいが、怪我をした足の裏はじくじくと痛み、この男に頼らないことにはどうにもならないだろう。渋々背中に体を預けると、男は軽々と立ち上がった。
「ありがとう」
ぼそりと言うと、男は軽く頷き、そのまま歩き出した。彼岸花の野原の中をゆっくりと歩いてゆく。どこまでも続く赤い花々は幻想的で美しいが、この世のものではないようで恐ろしかった。
遠くに逃げたつもりだったが、すぐに小屋についてしまった。男は水木の足の裏を水で清め、傷薬らしき軟膏を塗って布を巻いてくれた。手当てが終わると、今度は床に落ちた盆のかけらを拾い集め始めた。
「なあ、あんた名前はなんていうんだ?」
男は黙々と作業を続けている。答える気がないのか聞こえていないのか分からなかったが、構わず水木は続けた。
「俺は水木っていうんだ」
すると男は顔を上げてこちらを見た。相変わらず何を考えているか分からないような顔をしているが、少し驚いているようにも見えた。水木は続けて言う。
「あんたの名前も教えてくれよ」
しばらく沈黙が続いたあと、男は小さく口を動かした。
「ん?けけろう?」
男は首を横に振った。
「……ゲゲ郎、か?」
まさかこんなおかしな名前のはずがないだろうと思って聞いたのに、男は頷いた。
「本当にゲゲ郎なのか」
こくり。
「そりゃなんとも……」
おかしな名前だな、という言葉はのみこんだ。かわりに、水木は膝を使って男ににじり寄り、頭から流れる血を拭いてやった。
「じっとしてろ」
男は素直にされるがままになっていた。ただじっと水木のことを見ている。目を合わせた水木は、ふと男の目が黒ではなく、彼岸花のように赤い色をしているのだと気がついた。
ずきり、と側頭部が痛んだ。自分はなにか大切なことを忘れている気がする。だが、思い出せない。
男は何も言わずにこちらを見ているだけだった。水木はなぜか無性に、この男のことが知りたいと思った。
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