桐子
2023-12-25 01:41:11
1736文字
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完全なる飼育③【父水】


その日をさかいに、男は時々水木を風呂に入れてくれるようになった。初めは緊張したが、男が殺意や性的な意図を持っていないことが分かると、次第に気を抜いて接することができるようになっていった。
「なあ」
水木は風呂から上がり、浴衣を着て濡れた髪を乾かしながら男に声をかけた。男は格子の外にいて、相変わらずのっぺりとした顔つきでこちらをじっと見つめている。
「あんた、名前は何ていうんだ?」
男は答えない。相変わらずの無表情だ。気味が悪いが、答えてくれない以上名前はないのだろうと思うことにした。水木は男に背を向けて布団に横になると、目を閉じた。
(俺は一体どうなるんだろう)
このままここに縛り付けられて一生を終えるのだろうか。だが今のところ特にひどい扱いは受けていないし、食事も十分に与えられている。それに、例の得体の知れない恐怖感も少しずつ薄れていっている気がする。
(殺すつもりならとっくにやってるはずだしな……
水木は目を閉じたままじっとしていた。眠りに落ちようかという時に、何かが動く気配がした。
「おい」
男が格子の中に入ってきていた。男は無言で水木の腕を拘束してしまうと、布団の中に潜り込む。大柄な男によって布団はすっかり占領されてしまった。
「おい、暑苦しいぞ」
抗議したが無視された。男は水木を抱き枕のように抱えると、そのまま規則正しい寝息を立て始めた。
(何なんだよ……
暑苦しいとは言ったものの、不思議と不快な気分にはならなかった。こんな図体のでかい男にくっつかれて何でこんな気分になるのか不思議だったが、水木は抵抗するのをやめ、男の胸に頭を預けて眠りについた。




朝起きると、男はいなくなっていた。人の気配には敏感だと思うのに、男は水木が寝ている間に布団から出ていってしまう。まるで猫のようだと思いながら、水木は起き上がり身支度をした。
そうすると、いつものようにカランコロンと下駄の音がして男が食事を運んできた。水木は大人しく格子の前まで行き、盆を受け取る。そして、意を決して男に話しかけた。
「なあ」
声をかけると男は反応してこちらを見た。相変わらず何も答えないが、水木は続けた。
……たまには一緒に食わないか?」
男は少し考えていたが、小さく頷くと、すっと立ち上がって上へ戻っていった。しばらくして帰ってきた男の手にはもう一人分の食事が載せられている。男は座敷牢の中に入ってくると、水木の前に座った。
「いただきます」
そう言って、箸をとり食べ始める。男も手を合わせてから同じように味噌汁をすすった。
「ごちそうさま」
水木が食べ終えても、男はまだ食べ続けている。口を開くと八重歯がちらりと見えた。肉食の獣のような牙は、あまりこの男にそぐわないな、と思う。
男はようやく食事を終えると、自分の食器を載せた盆を持って座敷牢の入り口を通るためにかがんだ。

ーーー今だ。

水木は素早く立ち上がると男の頭に盆を叩きつけた。金属ではなく重みのある木でできた盆は、高いところから振り下ろせばそれだけで凶器になる。水木に背を向けた状態だった男は、そのままよろめくとバタンと倒れ込み、動かなくなった。
「やった……
水木は恐る恐る男に近づいた。頭に叩きつけられた盆は無残に割れて男の血で赤く染まっていた。

ーーー逃げなければ。

水木は座敷牢を飛び出し、階段を駆け上がった。風呂場へ行くたびに家の中の構造をそれとなく観察していたため、出入り口にはあたりをつけていた。
「あった……
玄関の扉を見つけ、手をかける。外に出たらどこへ行けばいいのか見当もつかないが、今はここに留まるよりもとにかく逃げ出したかった。水木はついに家の外へ出ることに成功した。
「何だよここ……

そこには、一面に彼岸花が咲いていた。

どこまでも続く赤い花々の絨毯。人家どころか木も山も見えない。空は暗く、今が明け方なのか夕方なのかも分からない。異世界に迷い込んでしまったようだ。人が踏み込んでいい場所なのだろうか。
「夢なら早く覚めてくれ」
水木はよろめきながら走り出した。どこまでも続く彼岸花の野原の中を、一心不乱に。



  完全なる飼育 彼岸花情夜