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2024-06-16 19:05:01
7110文字
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トマリギ・トリモチ

大鴉シリーズに入れようか迷っているししさめ

 

 獅子神の家から出勤した日の村雨は、手作りの弁当を携えている。二段の曲げわっぱは中が朱塗りと見せたウレタン加工で、しょうがの効いたからあげや、目のさめるような色の卵焼き、シリコンカップに入ったポテトサラダなどがキュッキュッと詰め込まれて、時には村雨の大好きなハムステーキが、午後のわずらわしい仕事へ向かう活力を与えてくれるのだった。
 食堂で弁当を広げているときなどは、その弁当の来歴などを、恐れ知らずの同僚に根掘り葉掘り尋ねられるようなこともあった。今日も上司である助教授が、「おっ村雨先生、愛妻弁当かい」などと言ってきたものだ。村雨は友人たちよりずっと高い社会性を有していたので、「私は独身です」という最低限の情報の手前に、「残念ながら」とつけ足すことができた。そうかい、と言って、盆を持ったまま通りすぎていったところを見ると、それほどこの美しい弁当に関心があったわけではないらしい。
 ――愛妻弁当。
 この食堂で、何度か投げかけられた言葉だ。村雨が独身で、かつ独居であることは多少知れ渡っているはずなので、多くの場合、これは会話のとっかかりというものに過ぎない。今の助教授のように、「独身です」「そうかい」で通りすぎる人間もいれば、「独身です」「じゃあカノジョさんですかぁ」と畳みかけてくる場合もある。そのときは「違います」と正直に答えるようにしていた。
『じゃあカレシさんですかぁ』
 一度だけ、更にそう尋ねられたこともある。相手の目は好奇心でギラついており、その目を無感動に見返して、村雨はやはり正直に、「違います」と答えた。
『友人の家に集まった翌朝なので、その友人が』
『えっそれってポルシェさんですよね!』
 ポルシェの、ときどき村雨先生のこと迎えに来てるあの――そう言われて村雨は、ええ、と最小限に頷いた。
『皆の分、作ってくれます』
 嘘ではない。その日はたまたま、叶と真経津も泊まって全員が雑魚寝だった。そんな経験は初めてのことで、正直なところ、少々心が躍ったものだ。もっとも、曲げわっぱが用意されていたのは村雨だけで――獅子神本人を含む他の三人は、天堂と合流して花見に行くとかで、料理もまとめて重箱に詰められていたのだが。
『料理までデキるとかもう……
 それからひとしきり、相手は「ポルシェさん」の容姿を褒めたり、好きな異性のタイプを聞き出そうとしたりと、熱心に興奮を振りまいていたが――村雨が友人のプライベートを明かすことはない、と思い知ると残念そうに去っていった。「ポルシェさん」はその日の夜、こっそりと病院の外までやって来て、曲げわっぱを回収し、人目を盗んで村雨の目の下のクマを心配げにこすったりしてから、「無茶すんなよ」「迎えがいるときは呼べよ」とこまごま言って、それだけでまた帰っていった。
「それってただの家政婦じゃん」
 突然鼓膜を突き刺した言葉に、ぴく、と村雨の肩が揺れる。
「だよねー」
 村雨からは左斜め後ろのテーブルで、ナースらしき二人の女性が熱心に話し込んでいる。
「この前なんてさ、弁当箱水に浸けてくれたって喜んでんの。共働きだよ?」
 村雨は姿勢を変えぬまま、さりげなく、眼下の曲げわっぱに視線を落とした。今日は夜勤がなく、緊急手術が入らなければ、夜半には帰ることができる。獅子神は酒を飲まずに待っていて、こちらから連絡次第、迎えに来てくれるとのことだった。
 獅子神が迎えに来るということは、帰宅先も獅子神の家だということだ。玄関先で獅子神は村雨からランチトートを受け取るので、村雨は弁当箱をどうこうしたことがない。もちろん、水に浸けたほうがよいことぐらいは知っている。学生の頃は、帰宅したら弁当箱を取り出し、洗い桶に水を張って沈めておくのが日課だった。
……
 村雨は最後の唐揚げを口に運び、いつもより少し丁寧に咀嚼した。ナースたちはどうやら、彼女ら共通の知り合いについて話しているらしい。いわく、夕飯時に箸が出ていなかったら、「手づかみで食えってこと?」と言われたらしい。洗濯機のボタンを押しただけで、洗濯をしてやった気になっているらしい、など、など――
「最近はさすがに気づいてるみたいだけどね。もしかしてその旦那、いないほうが楽なんじゃない? って」
 村雨は曲げわっぱを重ねて、ゴムバンドを掛けた。風呂敷で包んで先端を結ぶと、印刷された狐のまぬけた顔も、くしゃりと曲がった。


「まあ、それに気づいただけでも立派だよ。敬一君はちょっと常軌を逸してるからな」
 テイクアウトのフローズンラムネサンデーを優雅にすくって口に入れながら、叶黎明は慈悲深げにそう言った。常軌、と村雨は繰り返す。
「そう、常軌」
「つまり私のせいではないと?」
 自宅でのいつもの手術を終え、業者に掃除をさせたうえで、見学者の叶と二人、アイスクリームタイムに入ったところだ。村雨もまた、自分のイチゴづくしサンデーを口に運ぶ。
「当人同士の問題だから、オレがどうこう言うことじゃないけど……
 村雨の安易な問いに対して、叶はそんな言葉の濁し方をした。唇が動くたびに、口の中でシュワシュワとラムネのはぜる音がしている。
……オレだったら耐えられないから、ある意味礼二君のせいなんだろうな」
「耐えられない? 何にだ? セックスの話か?」
 獅子神は村雨を「ダチ」だと言うし、セックスをするのは「セックスパートナー」だからだ、という理由付けをする。村雨もそれにまったく異論はなく、だから「カレシさんですかぁ」と問われればフラットに、「違います」と答えることができた。
 友人たちも二人の関係については理解している。「セックス」という単語を、村雨が簡単に発したのもその為であった。
「確かにセックスもすごそうではあるけど、オレなりにデリカシーはあるつもりだぞ礼二君。オレが言いたいのは、たとえばそうだな……歯磨き粉とか」
 村雨は黙って片眉を上げた。おいおい、と叶は両手を上げる。
「オレは敬一君から聞いているんだ。敬一君ときたら、礼二君がおねむのときには洗面所まで手をつないで連れていって、洗面台の前に立ったら、歯ブラシにペーストまで乗せて手に握らせるそうじゃないか」
「ああ……最近は私の好みの量を覚えて出してくれるが」
 それが何か? と言いかけて村雨は、叶の視線に気づいた。
……私がよっぽど疲れているときだけだ」
 イチゴをプチプチと噛みつぶし、言い訳がましくそう言い直す。叶は「そうかぁ」と生ぬるく相槌を打った。
「まあ、それほど冷静になって考えてみなくても、敬一君の尽くしっぷりは普通じゃない。だから礼二君のさっきの質問に対しては、そうだな……オレの答えは『違う』だ。あれは家政婦っていうよりもう、介護だろ、介護」
「人を老人扱いするな」
「ベビーシッターでもいいぞ」
「人を赤ん坊扱いするな!」
「そんな憤慨できる立場か? そのうち抱っこで風呂場まで運んで、湯船で身体まで洗い始めそうだ」
「だから、それは私がよっぽど疲れているときだけで――
「礼二君」
 己のスプーンをくわえたまま、叶はしみじみと村雨を凝視する。
「もう手遅れだ。諦めて敬一君と幸せになれよ」
「なんの話だいったい!」


 そのような会話があったので、数日ぶりに獅子神の迎えを頼んだ村雨は、多少の居心地悪さを覚えていた。
 獅子神はいつものように助手席の扉を開け、くたくたの村雨がシートベルトを締めるのを手伝うと、吠えるようなポルシェをまるでゆりかごのように運転して、獅子神の家に招き入れた。
 勤務先泊まり込み四日目の今日は、弁当箱を持っていない。獅子神は村雨の手から鞄を受け取り、ジャケットを脱がせて当たり前のように、それらを室内へと持ち去った。
 いつものように洗面所で手と顔を洗い、眼鏡を掛け直して二階に上がる。既に獅子神はキッチンに入り、生クリームと牛肉とコンソメのいい匂いをさせているところだった。
「今日は牛肉のクリーム煮だが、もっと軽いもんがいいか?」
「いや……
 それでいい、と言って食卓につく。腹がぐうぐう音を立てるような湯気と共に、白く淡い一皿が目の前のランチョンマットに置かれた。
「パンでいい?」
「ああ。あなたは――
「今日はオレも一緒に食うよ」
 チートデイを自分との食事に使わせている、ということに気づき、村雨はまた、もぞもぞとした気分になる。そんな気分でもスプーンですくったクリーム煮はうめき声が出るほどの美味で、村雨好みにトロトロに煮込まれた白菜も、獅子神のほうには少し多めに入っているらしいしめじやエリンギも、もちろん、しゃぶしゃぶ用の薄い牛肉も、何もかもが腹に染み渡る逸品だった。
 何を話したかったのかも一時的に忘れ去って、むしゃむしゃと薄切りのバゲットを咀嚼し、サラダをつまむ。獅子神はそんな村雨を笑い混じりに眺めやりながら、村雨のこの数日間の話を、さりげない様子で尋ねてきた。
 医者には守秘義務というものがあるし、外科の話題が食卓に向かないということも、村雨はよく知っている。食事に集中しながら、お互いの生活を簡単に報告し合うにとどめ、休憩時間に見たレイメイチャンネルの話などもして、そして、獅子神は立ち上がった。
「今日のデザートは桃のタルト、コイツはお前だけ。すぐ出していいか?」
「ああ」
 満足感の中でもたもたと立ち上がると、「座ってな」と言われてしまう。もぞもぞとした気分を思い出して、村雨は断固とした口調で「私の食器なのだから、私が運ぶ」と言った。
「そう? サンキュな」
 キッチン側で食器を受け取り、獅子神はそれから電気ケトルのスイッチを入れた。食べる前に冷蔵庫から出しておいたらしい――確かに桃の匂いがしていた――タルトがそっと、ケーキ皿の上に置かれる。
 そして薄めに淹れて、ミルクと砂糖を加えたいつも通りのコーヒーが、その皿と一緒に提供された。
 無骨なマグカップに豆乳青汁を入れて、獅子神はそれを自分の席の前に置く――信じられないがこの男は好きでそれを飲んでいる――。村雨の嫌いな銀紙を綺麗に取り除かれたタルト、それをフォークで崩しながら、村雨はチラリと獅子神を見た。
「なに」
「あなたは……
 とろりと割れた桃のコンポートと、タルト地を一緒にフォークで突き刺しながら、村雨は尋ねる。
「なにか、私にして欲しいことはないのか」
「またえらく曖昧な問いだな」
 悪趣味な飲み物を一口飲んで、おかしげに獅子神は言った。
「なに、急に殊勝な顔しやがって」
『もしかしてその旦那、いないほうが楽なんじゃない?』
 家政婦だの介護だのベビーシッターだのという話を、ここでするつもりはない。村雨は端的に事実を指摘した。
「この家での家事はすべてあなたがしているだろう」
「そりゃここはオレの家だからな」
……私がいることで増えている雑事もあるはずだが」
「ああ? まあ、なくはないが……もののついでってヤツばっかりだしなぁ」
「あなたはもののついでで、半分眠っている私の手に歯ブラシを握らせるのか?」
……叶か」
 あんな話をするんじゃなかった。そうつぶやいて獅子神は小さく舌打ちをする。その機嫌の下降っぷりには構わず、村雨は言葉を継いだ。
「だから、私も何かできることがないかと」
「つってもなぁ……あー」
 獅子神は何かを思いついたような顔になった。
「そういや、シャツはクリーニングに出すけど、下着や何やはオレの家で洗っちまうだろ? だから下着と一緒にハンカチを洗いかごに入れておいてもらえると助かるな。ポケットを探さなくてよくなるからよ」
「なるほど、わかった」
 そう頷いて、口の中いっぱいに広がる桃の爽やかさと濃さを堪能してから、村雨はふと首をかしげた。
 ――それは果たして、何かをしたうちに入るものなのか?
……他には」
 試しに尋ねてみると、別に、と肩をすくめられる。
「もともとお前、よっぽど疲れてねえかぎり食器は自分で運んでくれるし……お義母さんの教育がよかったんだろうなそこら辺は」
 おかあさん、のイントネーションに何となく引っかかるものは感じたものの、家族を褒められて嫌な気はしない。もぐもぐと口を動かしていると、その口をチラリと見て獅子神は言った。
「お前ときどき口淫してやろうかって言ってくるけど、オレあれあんま好きじゃねえから」
「そうらしいな」
「まあ、いつかは気も変わるのかもしんねえけど。お前だってキス好きだろ? 少なくともチンコ咥えてる間はキスできねえし、自分のチンコ舐めた口とキスするオレの気持ちにだってなってくれよ」
「私はあなたが『チンコ』を舐め回した口とキスをしたことがあるが?」
「ちゃんと口ゆすいだぞオレは。とにかく、お前のその可愛げのないお口は、しゃべるかオレとキスするかオレのメシ食うかのためにあるの」
 そう言ってから獅子神は、少なくともオレと二人きりの間は、とつけ足した。
……とりあえず、ハンカチは出しておく」
 妥協案のように村雨はそう言って、コーヒーを飲んだ。そうしてくれ、と獅子神は笑う。
 その笑顔を見ると少し眠いような――世のマヌケはそれを安堵と呼ぶのだろうが――、そんな気分になって、村雨は目をしばたたく。
「今日もお疲れだな、お医者さま」
「そんなことはない……美味かった、ごちそうさま」
「おう」
 皿とカップがふわりと下げられる。重い目蓋を持ち上げて、村雨は獅子神の美しい立ち姿を見た。
……今日は手淫をしてやろう」
「『してやろう』?」
……あなたに手淫したい」
「そいつは願ったりだ」
 皿をカウンターに置いて、美しい身体はすぐに立ち戻り、村雨の前髪をかき上げると、ぶちゅ、と額にキスをする。
「のんびりしてな、こいつを片づけたら風呂の準備をするからよ」
「んん……
 おそらくもう風呂は準備万端で、脱衣所にはバスタオルと下着とルームウェアが揃っている。だが獅子神は、村雨と一緒に風呂に入りたいのだろう。それをくんで村雨は、特に何を言うこともなく頷いてやった。


 下着一つの裸でベッドに潜り込み、望み通り、キスを繰り返しながら互いの性器をゆるくまさぐっているうちに、村雨はそのまま寝入ってしまった。ゆるく勃起した性器を下着の中にしまってやり、自分のものも同様におさめると、村雨はルームランプの明るさを嫌がるように、おぼつかなく手を伸ばして獅子神の胸板に顔を埋めてきた。
 上質の筋肉を作り上げているという自意識はある。そのやわらかい筋肉に埋もれ、しばらく腕や脇をさわさわと撫でたのち、満足したように溜息をついて、村雨はそのまま眠りを深めた。
 太腿や性器が触れ合って多少の悪戯心をかき立てるも、獅子神はそれ以上何もすることなく、上掛けをかけて見慣れた天井を見上げた。
 ――余計なことを吹き込みやがって。
 叶の意外な面倒見のよさは、友達としてもちろん好きだが、このようなときは裏目に出る。友人たちにはバレバレでもまだ村雨当人は気づいていないのだから、獅子神はギリギリまでこの状況を維持していたかった。
 目標は、村雨を獅子神なしでは生きていけない人間にすること。
 論理的な思考を武器にしている村雨だが、その過敏な五感は彼の本質を、感覚的な人間として作り上げた。村雨は美味しいもの、肌触りのよいもの、見目よいもの――そして気持ちいいものが大好きで、五感を楽しく騒がせてくれるものに目がなかった。
 だからすべすべの筋肉と「いい匂い」――と村雨は言う――を持った獅子神に抱き上げられ、運搬され、風呂でくしゅくしゅ優しく髪を洗われて、ベッドの中ではいっぱい気持ちいいことをされて、そして、勤務先でも好みのおかずをいっぱい詰めた弁当を食べることは、常人からは想像もできないほどの快楽と安心を、村雨にもたらした。
 死が隣り合わせのギャンブラーであるということを差し引いても、村雨は激務の若き勤務医であり、己の職務に忠実でもある。その村雨とつき合うということは、つまり、獅子神は「待つ」立場になるということを示していた。
 ――待つのは嫌いだ。
 いつ帰ってくるかわからぬものを、膝を抱えて待つような日々――そんなみすぼらしいモノにならずにすむために、ここまでの努力を重ねてきたのだ。だからこの腕の中に、この稀有な生き物が飛び込んできたとき、獅子神は、自分は待つだけのものにはならない、と決めた。
 この美しいものが、何の未練もなく自分をパッと放り出し、次の止まり木に飛び立っていく――その妄想は、獅子神を常に苦しめた。捨てられるぐらいなら自分から捨ててしまいたい。その思いは結果として、村雨を際限なく介護し、世話をし、どっぷりと自分の中に埋め込むという行動になって表れた。
 村雨が獅子神なしでは生きられぬようになれば、村雨は獅子神を捨てることはできなくなる。飽きられることがこれほど怖いのなら、せめて自分の方が先に飽きたい――それは、獅子神の切実な、祈りともいうべき願いであった。


 夢の中で美味しい菓子でも食べているのか、村雨は気難しく薄いその唇を、あどけなくふにゅふにゅと動かした。その口に明日どんな快を詰め込もうか考えながら、獅子神は腕の中の死神を、宝物のように抱え込んで目を閉じた。