すずかけあおい
2024-06-16 14:27:00
2182文字
Public ひとときから始まる恋
 

ひとときから始まる恋 小話 名前呼び

実近×小牧。小牧が名前で呼んでくれないことに実近が拗ねます。

「わかった。俺だけが好きなんだろう」
 実近が拗ねた。原因は小牧が名前を呼ばないから。
 呼びたい気持ちはあるが、女性達が実近を名前で呼ぶのを聞くとどうしても引っかかってしまう。彼が遊んでいたことは事実だし、それでもと受け入れたのに情けない。恋人になってからも実近の特別でいたいという気持ちもあり、名前呼びを拒絶していた。だが限界のようだ。
「そんなことない。俺だって実近さんが好き」
 敬語ははずれたのだけれど、名前呼びはどうしても引っかかるのだ。それはひとえに小牧の狭量さの表れで、実近は悪くない。だから拗ねられてしまうと申し訳なくなる。
「それなら呼んでみてくれないか?」
……嫌」
 また意地っ張りな自分が出た。ため息も出そうになるが、なんとか堪える。ため息をつきたいのは目の前の男のほうだろう。
「呼べない理由があるなら教えてくれ。俺にはきみがそこまで嫌がる理由がわからない」
 つき合って長く時間が経つのに苗字でしか呼ばない恋人に焦れたのだろう。これまで大きな喧嘩もなく、すべて実近が小牧を受け入れてくれていたが今回は無理のようだ。
 理由を話して呆れられることが怖い。「そんなことか」と言われたら小牧は勝手に傷つく。実近にはたいしたことではなくても小牧にとっては大きなことなのだ。
「俺には話せない?」
 顔を覗き込まれ、ぐっと言葉が詰まる。結婚の約束までしたのに、こんなところで引っかかっているわけにはいかない。思い切って口を開いた。


 実近は唖然としている。それはそうだ。ただの嫉妬からこれまで拒絶していたなんて、情けないにもほどがある。笑われても仕方がない。
 長い両手が伸びてきて、小牧を捕まえた。
「俺はきみを知っているようでいて知らなかったんだな」
「そんなことない」
「実紘の苦しみに気がつけていなかった」
 実近こそ苦しそうに眉を寄せる。申し訳なさに目を見られずにいたら、温かい両手で頬を包まれた。まっすぐ見つめ合い、ひとつの言葉も聞き漏らさないくらい距離が近づく。
「きみの優しさに甘えすぎていたのかもしれない」
「俺のほうが実近さんに甘えてるんだ。最終的にはこんな情けない俺を許してくれるんじゃないかって思ってる」
 額に口づけをもらい、瞼をおろす。柔らかな温もりがじんわりと額から身体中に広がっていくようだ。
 いつでも実近は小牧の心をほぐしてくれる。それはつき合う前から同じだった。それなのに小牧は心が狭く、彼を受け入れられていない。
「情けなくない。実紘がただ嫌なだけじゃないってわかったから、もうこれ以上無理は言わない」
……
「でも、いつか気持ちの整理がついたときに呼んでくれたら嬉しいな」
 鼻をこすりつけるようにくすぐられて目を細める。心の底までくすぐられるようだった。
 嫉妬よりも、こんなに穏やかな気持ちにしてくれる人のほうが大切ではないのか。
 ゆっくりと唇を開く。
「出流さん……
 軽く目を瞠った実近は、柔らかく微笑んで頷いた。こんなに綺麗な表情を今まで見られずにいたことがひどく残念だった。
「もう一度呼んでくれ」
「出流さん、ごめんなさい」
「謝る必要なんてない。きみの心に寄り添えていなかった俺のほうが謝るべきだ」
 違う、と首を横に振る。そうではない。
「自分で名前を呼ぶのを嫌がっていたのに、なんで今まで名前を呼ばなかったのかって悔しくて申し訳ないから」
「どうして?」
 先ほどそうしてくれたように今度は小牧が実近の頬を両手で包み、額にキスを贈る。ゆっくりと瞼をおろす姿に誘われるまま、唇も合わせる。
「だって名前で呼んでみたら、出流さんにすごく近づけた気がする。もっと呼びたいと思うし、この距離なら俺は過去の人達に嫉妬なんてしなかった」
「呼んでみてよかった?」
 素直に頷くと、前髪をかきあげて額を大きな手のひらで撫でられた。優しい手の動きにうっとりと目を閉じる。
「乗り越えてみるとなんでもないこともあるものだ。それがわかって嬉しいだろうけど、それ以上に俺は嬉しい」
「どうして?」
 瞼をあげようとするが、目を手で覆われてしまった。そのまま視界が遮られた状態でいると、悪戯をするように頬や鼻の先に小さな温もりが触れる。
「ずっと言ってただろう? 名前で呼んでほしいって」
「うん」
「夢が叶ったんだ。嬉しくないはずがない」
 そんなにおおげさに言うほど嬉しいのかと思ったら、やはり申し訳なくなった。醜い嫉妬がその喜びを遠ざけていた。今回こういった形で実近が拗ねなければ、小牧はいつまでも名前で呼ばなかったかもしれない。
「ごめ――
「それはもういい。次は愛の言葉が聞きたいな」
 目を覆っていた手が離れ、穏やかな微笑みと出会った。小牧も自然と口もとが緩む。
「出流さん、愛してる」
「俺も、実紘を愛してる」
 甘いキスに誘われて、情熱が呼び込まれた。吐息を交わらせ、実近の髪に指をさし入れる。甘美な空気に呑まれて頬が火照った。
「夢が叶ったお礼に今夜は優しくするよ」
「いつも優しいじゃない」
「いつもよりずっと優しくしてあげる」
 この男が本気を出したら、小牧などいつでも簡単にぐずぐずになるまで溶かされてしまう。実近に乱されるまま、呼吸を熱くした。



(終)